京都十六社朱印めぐり

 

宮柱 影をうつせる 鴨川の 流れは世々に つきじとぞ思ふ (亮々遺稿)木下幸文

 

『御香宮藤森神社新熊野(いまくまの)神社豊国神社市比賣(いちひめ)神社粟田(あわた)神社熊野若王子(にゃくおうじ)神社

岡崎神社熊野神社御霊(かみごりょう)神社今宮神社わら天神宮春日神社六孫王(ろくそんのう)神社吉祥院天満宮

長岡天満宮』・・・愛車・キララくんで京洛ぐるっと一周チャリン破!ご利益いっぱいの京都十六社朱印めぐり!!!☆⌒(*^∇゜)v

ご利益いろいろ・・・京都十六社朱印めぐり

古都の町中に点在する十六の古社を訪ねる旅。ありきたりの観光旅行では分からない、ほんまもんの都めぐりとも称されます。「厄除け」、「安産」、「家内安全」、「病気平癒」、「健康長寿」、「交通旅行安全」、「学問成就」、「商売繁昌」、「家運繁昌」、「出世開運」まで・・・十六の神社は、ご利益も多彩で、女性には「女人守護」、「縁結び」、「子授け」の神社、受験生なら「受験合格」、胃腸の不調に悩む人には「お腹守護」の神社、心を鎮める「鎮霊(こころしずめ)」の神社、競馬や勝負事の「勝運・馬守護」の神社など全てのご利益が頂けます・・ヽ(^o^)丿

★ 御香宮神社【安産、厄除け、病気平癒】

日本第一安産守護大神と称せられる神功皇后を祭神とします。平安時代、貞観4年9月9日、境内に大変香の好い水が湧き出て、この水を飲むと病がたちまち癒り、その奇瑞に清和天皇より御香宮の名を賜ったと伝えます。天正18年、豊臣秀吉は天下統一して当社に願文と大刀を奉納、伏見築城に際しては鬼門除けの神として城内に勧請、社領三百石を寄進、慶長10年、徳川家康は当社を元の地に戻し本殿を造営、表門は水戸の徳川頼房、拝殿は紀伊の徳川頼宣が寄進しました。慶応4年正月、伏見鳥羽の戦では、官軍の陣営が置かれ幸いにして戦火を免れました。古来、伏見の総鎮守氏神として、伏見宮家を始め多くの人々により信仰を集めました。本殿拝殿は近年の大修理の結果、桃山時代の豪壮華麗な極彩色の建物が蘇りました。(当社創建由緒より)

御香宮【安産、厄除け、病気平癒】@伏見区御香宮門前町 藤森神社
★ 藤森神社【男人守護の神、勝運と馬の社】

今から約1800年前、神功皇后によって創建された皇室とも所縁の深い古社です。本殿は正徳2年、中御門天皇より賜ったものと伝えます。特に、菖蒲の節句発祥の神社としても知られ、今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主、騎手等)、競馬ファンの参拝者で賑わっています。(当社創建由緒より)

藤森神社【男人守護の神、勝運と馬の社】@伏見区深草鳥居崎町 樹齢900年以上、熊野神降臨の霊樹・大樟
★ 新熊野(いまくまの)神社【健康長寿、病魔退散、お腹守護】

熊野信仰盛んな平安末期、後白河上皇が紀州国(和歌山県)の熊野の神を勧請し、1160年、熊野の新宮、新熊野神社を創建しました。その際、熊野の土砂、材木等で社域を造成、社殿を造営、那智の浜の青白の小石を撒き、熊野を当地に再現しました。社頭の大樟は当時、熊野より移植、上皇お手植で熊野の神降臨の霊樹と伝える樹齢900年、健康長寿、病魔退散など特にお腹の神と信じられ、参詣者が多いです。創建以来、繁栄は洛中に冠絶していたが、度々の兵火と戦国の乱世を経て廃絶同様の状態となりました。江戸初期の1163年、聖護院道寛親王が当社を再建しました。本殿は京都市の重要文化財です。能楽の祖・観阿弥、世阿弥父子は応安7年(1374年)、足利三代将軍・義満台覧の下、有名な「新熊野神事猿楽」を演能、これが今日の能楽隆昌の機縁となりました。(当社創建由緒より)

新熊野(いまくまの)神社【健康長寿、病魔退散、お腹守護】@東山区今熊野椥ノ森町
能一字が彫られた能楽大成、機縁の地碑 京都国立博物館 豊国神社
★ 豊国神社【出世開運、招福】

慶長3年(1598年)8月18日、天下統一を果たした豊臣秀吉は伏見城において生涯を終えました。遺骸は遺命により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、翌、慶長4年(1599年)、中腹に秀吉を祀る豊国社が創建されました。朝廷からは正一位の神階と豊国大明神の御神号を賜り、社領1万石、境内域30万坪を誇る壮麗壮大な神社であったと伝えます。毎年4月と8月に行われた豊国祭には朝廷より勅使が遣わされ、北政所を始め豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次ぎました。特に慶長9年の秀吉七回忌にあたり斎行された豊国大明神臨時祭は空前絶後の大祭礼であったと諸記録に伝えられます。しかし、繁栄を極めた豊国社も慶長20年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀されて以後、江戸時代を通じ草叢に埋もれいました。明治元年(1868年)、明治天皇の御沙汰により再興が決定し同6年、別格官弊社に列し、同13年、方広寺大仏殿跡地に社殿が造営され名実共に再興されました。境内には伏見城の遺構と伝える大唐門(国宝:桃山期)が聳え、また北政所・豊臣吉子を祀る貞照神社や秀吉の遺品、豊国社の社宝を収蔵する宝物館等があり、現在では出世開運の神様として全国より崇敬を集めています。(当社創建由緒より)

豊国神社【出世開運、招福】@東山区大和大路通り正面茶屋町
豊臣家滅亡のきっかけになった豊臣家因縁の方広寺の梵鐘(重文:桃山期) 天台宗山門派・方広寺
耳塚 ユリカモメが飛舞する鴨川 任天堂正面営業所(昭和8年当時の社屋)
★ 市比賣(いちひめ)神社【女性守護、市場守護】

祭神は全て女神を祀ることから女性の守り神とされ、女性全ての願い事にご利益があります。特に女人厄除けの神として厄除け女性の参拝者が全国から絶えません。平安時代より市場の守り神である市比賣社は、多くの人々で賑わっていました。昭和2年、日本で初めて中央卸売市場が京都に開設された折、分社として市姫神社が祀られています。五十日百日之祝(いかももかのいわい)は生後五十日目か百日目に当社より餅を授かり健やかな成長を祈り子供の口に含ませる現在のお食べ初めの発祥として知られています。源氏物語など多くの古典文学にも描かれ、歴史にその名を残しています。(当社創建由緒より)

高瀬川 市比賣(いちひめ)神社【女性守護、市場守護】@河原町五条下がる一筋目西入
平安京に営まれた邸宅の中で最も豪壮だと謳われた光源氏のモデル・源融(とおる)の豪邸・・・河原院跡

「源氏物語」で光源氏のモデルと伝える嵯峨天皇皇子で左大臣・源融(とおる)が五条大橋西南の鴨川畔に造営した東を東京極大路、西を萬里小路、南を六条大路、北を六条坊門小路に囲まれたに囲まれた4町(一辺250m)もの広大な敷地を占めた豪壮な邸宅で、邸内には鴨川の水を引き入れて庭園とし陸奥国千賀の浦の景を映し、難波から海水を運んで塩を焼き、都中に藻塩の煙を立てて風雅を楽しみました。当時にあって最高の贅沢な生活で在原業平を始め多くの歌人、文人の遊興場でもありました。寛平7年(895年)、源融は74才没したが河原院は宇多上皇に献上され、上皇の仙洞御所となし上皇の没後、僧・仁康に賜って河原院と号しました。その後、平安時代中期頃〜室町時代に荒涼し応仁の兵火にかかって廃亡しました。近世に至って河原院を模した庭園として東本願寺別邸・渉成園が作られました。広々とした王朝風の池を中心とした池泉廻遊式で池中の中島には、融の塔と称する十三重石塔や塩を焼いた塩竃跡を設け、在りし日の河原院を偲ばせています。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 河原院は、平安京に営まれた邸宅中、最も豪壮だと謳われた河原院跡
牛若丸と弁慶@五条大橋 扇塚 鴨川と霊峰・比叡山@
霊峰・比叡山 花街・宮川町 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
八坂の塔(法観寺) えぇなぁ〜 (@^▽^@) えへっ 八坂神社
日本一有名?枝垂れ桜@円山公園 知恩院 知恩院の七不思議の一・瓜生石
★ 粟田(あわた)神社【旅立ち守護、厄除け】

平安時代の貞観18年(876年)、国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされました。その際、従五位上出羽守藤原興世は祇園社(現・八坂神社)にて七日七晩祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に老翁の姿の大己貴命が神託を告げられました。興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊を祀ったのが当社の始まりと伝えます。また一説に、五代・孝昭天皇の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも伝えます。創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)、厄除の神として知られています。(当社創建由緒より)

粟田(あわた)神社【旅立ち守護、厄除け】@東山区粟田口鍛治町 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
ラ〜イ・・ラ〜〜イ・・・ライ ライ ライ ラ〜イ・・・ウィ〜(^_^;) はは 牛若丸(義経)ゆかりの出世稲荷社
本殿 蹴上インクライン 南禅寺
★ 熊野若王子(にゃくおうじ)神社【学業成就、商売繁盛】

永暦元年(1160年)、後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請し、祈願所とされた正東山若王子の鎮守でしたが、明治初年の神仏分離によって当社のみが今に至っています。夷川通りに鎮座していた恵比須(室町時代作)を祀っている足利尊氏、義政が、当地に花を愛で宴を開いたと伝えるが今日でも東方山中に瀑布が有り奇岩老樹も多く、夏は納涼地、秋は紅葉の名所として知られています。社殿は度々荒廃、明治の修築の際本宮、新宮、那智、若宮があったが、現在は一社相殿になっています(当社創建由緒より)

永観堂 熊野若王子(にゃくおうじ)【学業成就、商売繁盛】神社@左京区若王子町
本殿 ラ〜イ・・ラ〜〜イ・・・ウィ〜(^_^;) どもども 疎水分水路
哲学の道へ 今年の干支・・・狛ねずのある大豊神社 岡崎神社
★ 岡崎神社【子授け安産、厄除け】

桓武天皇延暦13年(794年)に平安京遷都の際、勅願により王城鎮護の為に平安京の四方に建立された社の一つで、都東に鎮座することから東天王と称し厄除けの神として信仰が絶えません。清和天皇、貞観11年(868年)に改めて社殿を造営し播州広峰(兵庫県姫路市北方)から祭神を迎えました。(諸社根元記)平家物語では、当社を官幣四十一所の内とする。後に後醍醐天皇が御再建して以来、室町時代には将軍足利・義政等により修造があり、幕府との関係も深い。とりわけ、治承2年(1178年)中宮・藤原高子の安産祈願の幣帛を賜り、安産の神として昔より信仰されています。また往時、付近一帯が野兎の生息地で、ウサギが氏神様の神使いと言われました。境内の御手水の所にはウサギの彫像もあり、子授けの神として参拝者の人気を集めています。境内には全国にも珍しい竜神様と呼ばれる雨ノ社があり、元は如意ヶ岳(大文字山)の山中に有った祠で、雨乞いの神として崇敬されています。本殿及び、儀式殿(鶴泉殿)にて神前結婚式を挙げる事ができ、華やかな婚儀が挙げられています。また、社務所にてウサギを織り込んだ、子授け、安産、健康のお守袋を授与します。(当社創建由緒より)

岡崎神社【子授け安産、厄除け】@左京区岡崎東天王町 次は・・熊野神社へ・・ライ、ライ、ラ〜ン?!(^^ゞ
★ 熊野神社【縁結び、病気平癒】

弘仁2年(811年)、修験道の始祖役小角(えんのおづぬ)の十世僧日圓が、紀州熊野大神を勧請したのに始まります。嘉永年中、僧・増誉が聖護院を建立し当社を鎮守神として別当を置き管理しました。平安末期、後白河法皇は度々熊野詣を行われたが、当社にも厚く尊信をよせられた。新熊野神社、熊野若王子神社と共に京都の熊野三山として、朝野の崇敬を集めました。応仁の乱により社殿は焼失したが、寛文6年(1666年)、聖護院宮道寛法親王令旨を下し再興され、その境域は鴨川に至る広大なものでした。その後、天保6年(1835年)にも大修造が行われ、現在の本殿は、この時、賀茂御祖神社(下鴨神社)から移築された代表的な流れ造りです。大正2年と昭和2年の市電軌道敷設により社地を狭められ、現在に至ります。(当社創建由緒より)

熊野神社【縁結び安産、病気平癒】@左京区聖護院山王町 川端通りを北上中・・・
加茂大橋(今出川通り) 中央に霊峰・比叡山、加茂川(左)と高野川 霊峰・比叡山
足利義満が永徳2年に創建、京都五山第二位に列する臨済宗相国寺派総本山・相国寺 法堂(はっとう)
御霊(かみごりょう)神社【厄除け、心鎮め、学業成就】@上京区上御霊前通り烏丸東入る上御霊堅町
花御所八幡宮碑 応仁の乱勃発碑 今宮神社参道
今宮神社【開運隆昌、健康長寿】@北区紫野今宮町・・・時雨れてきました〜(-_-;) 急がねば・・・
わら天神宮は・・・閉門(T_T) ナイトランモードで西院春日神社へ 平野神社
嵐電(京福電車) 西院 春日神社【厄除け、病気平癒】@右京区西院春日町・・・しばし雨宿り中(-_-;)
病気を癒すという伝説の霊石・疱瘡石(西院 春日神社)

平安初期、淳和天皇の皇女、崇子内親王が天然痘(疱瘡)を患われた時、この石に祈願をされたところ、石が代わりに疱瘡を生じ、たちどころに内親王の病は治った伝えます。それ以来、神前の霊石は疱瘡石と呼ばれ、世の人々は病の平癒を願ってこの石を拝するようになりました。また都に疫病がはやる前には必ずこの石の表面が濡れたとも伝えます。

霊石・疱瘡石 六孫王(ろくそんのう)神社【出世開運、家運隆昌】@南区壬生通り八条角
う〜ん写真が・・・今一、二、三・・・ダァ〜(-_-;) なんのこっちゃ〜(^^ゞ 吉祥院天満宮
吉祥院天満宮【受験合格、開運招福】@南区吉祥院政所町・・・社務所が閉まって朱印頂けず(T_T)+う〜ん写真が・・・(-_-;)
★ 管理人の余談・・・ここだけの?こぼれ話 (^_^;)

1月2日、初めての京都十六社朱印めぐりをしました。私宅(伏見)からだと、京都六地蔵めぐりと同等の行程距離(約60km)なので自転車で約5時間程で走破できると思っていたのですが・・・甘かった〜(>_<) 出かけた時間が午後2時過ぎ、更に朱印帳に午後5時までと書かれていたのですが、正月の2日だから開いてるだろうと予想して強行 (^^ゞ。。。初めての十六社朱印めぐりだったのと、わら天神宮、吉祥院八幡宮、長岡天満宮の閉門や社務所が閉まっていたりで三社の朱印を受印できず、4日に再訪する事となったのであります・・・(T_T) レポでも分かるように今宮神社以降夜間撮影で社殿の写真が今一の長岡天満宮(暗過ぎて使用不可)、吉祥院天満宮、六孫王神社、西院春日神社、わら天神宮、今宮神社、上御霊神社の写真も撮りなおしてきました・・・結局、23社めぐりしました〜(^^ゞ オッパッピ〜(自爆)

という事で・・4日で〜す(^_^;)伏見百景・酒蔵 桂川(左)と鴨川合流地(草津湊)@羽束師橋 霊峰・比叡山
一文橋 西国街道を長岡天満宮へ 八條ヶ池(長岡天満宮)
八條ヶ池(長岡天満宮)と水上橋・・新緑の頃、中堤のキリシマツツジが真紅に咲き乱れる見事さは、我が国随一と称されます!ヽ(^o^)丿
★ 長岡天満宮(合格祈願、厄除け開運)

山城国乙訓郡長岡の地は、桓武天皇が平城京より平安京に遷都するまでの皇都・長岡京跡で、当天満宮の祭神・菅原道真が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれた所と伝えます。道真が太宰府に左遷させられる時、当地に立ち寄り、「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しんだ縁故によって道真自作の木像を祀ったのが、当宮の創立と伝えます。以来、皇室の崇敬殊に厚く、元和9年(1623年)、八條宮御領地となり、度々の御寄進、御造営、御殊遇を受け、寛永15年(1683年)、参道をはさんで南北に広がり、西山の翆緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀藩・前田公の寄進と伝える名橋で、両側には樹齢約150年余、高さ3mに達するキリシマツツジが、多数植えられ新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、我が国随一と称されます。(当社創建由緒より)

加賀藩・前田公の寄進した中堤の太鼓橋 一の石鳥居 二の石鳥居
菅原道真の歌碑 三の石鳥居 初詣で賑わう境内
なでうしくん(#^.^#)撫でまわしました〜(^_^;)はは 本殿 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
阪急電車が通過・・・ R171号線を吉祥院天満宮へ・・・右の写真、虹が出ていたの撮ったのですが、分かりますか?
★ 吉祥院天満宮(受験合格、開運招福)

菅原道真没後31年の承平4年(934年)、菅原家ゆかりの道真誕生の地に朱雀天皇の勅命により創建された最初の天満宮です。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真の祖父・清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女(きっしょうてんにょ)の霊験を得て入唐、無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像を祀りました。これが吉祥院の由来で地名の起源となっています。境内には道真のへその緒を埋めたと伝える胞衣(えな)塚を始め、少年時代に習字に使用したという硯(すずり)の水や顔を写したと伝える鑑(かがみ)の井などがあります。(当社創建由緒より)

久世橋 吉祥院天満宮 弁財天社
道真が顔を映したと伝える鑑(かがみ)の井 吉祥院天満宮【受験合格、開運招福】南区吉祥院政所町
吉祥天女(きっしょうてんにょ)社 道真のへその緒を埋めたと伝える胞衣(えな)塚
道真が習字に使用したという硯(すずり)の水 本殿
★ 六孫王(ろくそんのう)神社(出世開運、家運隆昌守護神)

源経基は、清和天皇の六男・貞純親王を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれました。15才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたと伝えます。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられました。基経は、現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえ、この地に葬れ」と遺言された。基経の長子・満仲は遺骸を当地に埋葬(本殿後方に石積の神廟がある)、その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりです。境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと伝える誕生水弁財天社があります。江戸時代、5代将軍・綱吉の時代、現在の本殿、拝殿等建物が再建されました。毎年10月体育の日に例祭(別名・宝永祭)が行われます。経基の後裔に源義家、頼光、頼政、木曽義仲、頼朝等、また足利、新田、細川、島津、山名、今川、明智、小笠原、徳川等の武将が多数輩出されました。(当社創建由緒より)

六孫王(ろくそんのう)神社【出世開運、家運隆昌】南区壬生通り八条角 解説
児水不動明王(ちごすいふどうみょうおう)

清水は、児の水(ちごのみず)と称され、眼病に霊験があると伝える名水ですが、源実朝(みなもとさねとも)の妻・本覚尼(ほんがくに)が、暗殺された夫の菩提を弔う為に建立した遍照心院(大通寺)の門前にあったので「尼寺の水」とも称されます。元々、六孫王神社は大通寺の鎮守社として、徳川家からも援助を受けて栄えましたが、明治の神仏分離で大通寺は、六孫王神社と分離され、新幹線建設工事の為、移転し児水(ちごすい)不動明王祠だけが残りました。

竹生島〜弁財天を勧請した誕生水弁財天 拝殿 児水(ちごすい)不動明王祠
★ 西院 春日神社(病気平癒・厄除・交通旅行安全)

天長10年(833年)2月28日、淳和天皇が仁明天皇に譲位後、淳和院(西院)に移り住んだ折り、勅命により奈良の春日四座大神を勧請し、守護神とされたのに始まります。以来、皇室を始め、藤原氏の守護神として今なお崇敬を集め、特に淳和天皇皇女・崇子内親王が疱瘡を患われた折、当社にご祈願をされたところ、神前の石が内親王の身代りとして疱瘡を生じ、内親王がご快癒された事から、病気平癒の守護神として崇められています。その石は現在も霊石・疱瘡石として諸病平癒を祈る多くの人々に信仰されています。建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわひぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひそめがみ)をを祭神とし、病気平癒・厄除・交通旅行安全のご利益があります。(当社創建由緒より)

清水は、児(ちご)の水と称される名水 西院 春日神社【厄除け、病気平癒】右京区西院春日町
仁孝天皇御胞(おえな)衣塚

寛政12年(1800年)2月21日、仁孝天皇誕生の折、吉方にあたる西院春日神社を選ばれ、御胞衣(おえな)を埋蔵されました。御胞衣とは胎盤、つまりお産の後に出てくる後産とも呼ばれるものです。宮中には、これを吉方にあたる場所に埋蔵され、その健やかなご成育を祈願される慣わしがありました。これにちなんで安産や子授け、母体の健康、乳幼児の健やかな成育を祈る風習があります。

境内 仁孝天皇御胞衣塚 駒札
神石・梛石(なぎいし)

旅行する者が、撫でて無事に還来成就をなし、厄年の者や病弱者は撫でて厄除、健康の回復、病気平癒を祈る習慣があります。

梛石(なぎいし) 本殿 わら天神宮
★ わら天神宮(安産、厄除け、家内安全)

古くは北山の神として、大古山背国葛野郡衣笠村に降臨された天神地祇で、古くより土地の人々の信仰を集めていました。天長8年、この地に氷室が設けられ、その夫役が加賀の国より移住し、その地で崇敬していた管生石部神の分霊を勧請して、子々孫々の氏神とすべく、北山の神の西隣に祀って、祭神を管生石部神の御母木花開耶姫命と定めました。約600年前の、応永4年、足利三代将軍・義満が西園寺北山殿を山荘として造営するに方り、参拝に不便になり、両社を合祀し、現在地に移転しました。(当社創建由緒より)

わら天神宮【安産、厄除け、家内安全】北区衣笠天神森町
お陰さまで全て受印し終えました〜ヽ(^o^)丿 今宮神社へ 今宮神社一の鳥居
★ 今宮神社(開運隆昌、健康長寿)

当社地には平安建都以前より疫神を祀る社があったと伝えます。建都後、平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮める為に神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会が営まれました。今宮社の紫野御霊会もその一です。一条天皇の御代、正暦5年(994年)6月、当社地の疫神を二基の神興に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈りました。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源です。そしてこの時、京中の老若男女は挙って神興に供をし船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唱い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したと伝えます。これが夜須礼(やすらい祭)です。長保3年(1001年)、霊夢によって疫神は船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇共々、今宮社と名づけられました。これが今宮神社の起源です。創祀以来、朝野の崇敬を集め、とりわけ徳川綱吉生母・桂昌院の崇敬は西陣への愛郷の念と共に厚く、元禄7年(1694年)、荒廃していた社殿の造営など大いに務め、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えます。明治29年、本社殿を焼失したが、同35年に再建し、その後も西陣を始め、多くの人々の崇敬を集めています。(当社創建由緒より)

今宮神社【開運隆昌、健康長寿】北区紫野今宮町 正月モードが漂う境内
拝殿 本殿 加茂川右岸を上御霊神社へ
★ 御霊(かみごりょう:こころしずめ)神社(厄除け、心鎮め、学業成就)

平安遷都にあたり延暦13年(794年)、桓武天皇が平安京の守り神として早良親王(崇道天皇)の神霊を祀られたのが当神社の起こりです。当時、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、それは早良親王(崇道天皇)始め、非運の中で亡くなられた朝野の人々の祟りであるとされ、その人々の御霊を丁重に祀る事によって、災いを鎮め様と御霊信仰が盛んになりました。そのお祭りを御霊会(ごりょうえ)といい、京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、当社の祭礼は、その発祥とされます。以後、井上内親王、他戸親王を始めとする12柱の神霊が祀られ現在に至ります。文正2年(1467年)、畠山政長が当社御霊の森に立て篭もり、畠山義就と戦いを交えたのが、応仁の乱の始まりとなりました。(当社創建由緒より)

都富士と称される霊峰・比叡山 上御霊神社 駒札
花御所八幡宮碑 応仁の乱勃発地碑 駒札
御霊神社【厄除け、心鎮め、学業成就】上京区上御霊前通り烏丸東入る上御霊堅町 芭蕉句碑
解説 拝殿 本殿
御所@烏丸今出川 禁門の変で知られる蛤御門 日没@新油小路京都南大橋

Tourist  2008.1.2(Wed)&4(Fri)

 

関連サイト

平安迷宮案内「洛中」洛南あじさいめぐり

平安迷宮案内「洛中」洛南あじさいめぐり

はんなり雅な古都迷走案内「名をきけば・・・」

はんなり雅な古都迷走案内「名をきけば・・・」

はんなり雅な古都迷走案内「東風コチ吹かば・・・」

はんなり雅な古都迷走案内「東風コチ吹かば・・・」

はんなり雅な古都迷走案内「花の色は・・・編」

はんなり雅な古都迷走案内「花の色は・・・」

『洛中、洛外図』上京探訪ウォーキング

『洛中、洛外図』上京探訪ウォーキング

花の御所、花の乱遺構『洛中、洛外図』探訪ウォーキング

花の御所、花の乱遺構『洛中、洛外図』探訪ウォーキング

秀吉の聚楽第、平安京遺構探訪ウォーキング

秀吉の聚楽第、平安京遺構探訪ウォーキング

バス&ウォーキング@二条城、新撰組発祥の地・壬生

バス&ウォーキング@二条城、新撰組発祥の地・壬生

バス&ウォーキング@堀川

バス&ウォーキング@堀川

新撰組壬生屯所跡、御室仁和寺散策(Pちゃんズ)

きぬかけの道散策(Pちゃんズ)

新撰組幕末回廊散策その2

新撰組幕末回廊散策その2

平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」

平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」

新撰組

新撰組

幕末〔維新〕回廊

幕末(維新)回廊

 

戻る 洛雅記2008年探訪コラム

 

inserted by FC2 system