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雷丘 |
すすぎの滝 |
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難波池 |
駒札 |
豊浦寺跡 |
盟神探湯(くがたち) |
煮え湯の入った釜に手を入れて火傷の有無により判決する古代の裁判です。允恭(いんぎょう)天皇の時代、氏姓の秩序を糺す為に行った伝えます。正しき者は火傷せず、偽りある者は火傷を負うとされる。その結果によって判決するという何とも理不尽な裁判です。 |
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甘樫坐神社 |
立石 |
盟神探湯(くがたち)駒札 |
日本最初の寺・豊浦(とゆら)寺跡(向原寺) |
欽明13年(552年)、百済の聖明王が朝廷に献上した釈迦像(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目(いなめ)が拝領し、小墾田の邸宅に安置、向原(むくはら)の邸宅を寺院としたのが、始まりで日本最初の仏寺と伝えます。後に疫病が流行り、災害は仏教崇拝による日本古来の神の祟りという理由で、物部尾輿により仏像は、難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたと伝えます。又、当地は日本最初の女帝・推古天皇は推古元年(592年)に即位、崇峻天皇暗殺から間なしだった為、新たに大規模な宮殿を築かずに蘇我氏邸宅の一部を転用したのが豊浦宮と考えられてます。 |
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本殿 |
向原寺(こうげんじ:豊浦寺跡) |
解説 |
伝小墾田宮(おはりだのみや) |
豊浦宮で日本最初の女帝として即位した推古天皇が603年に移居した宮殿跡で昭和45年、掘立柱建物の跡や苑池、それに続く溝などが発掘されましたが全体の規模は不明です。雷丘の南側の発掘で奈良時代末頃の井戸から「小治田宮」と書かれた墨書土器が出土し、飛鳥で宮名の書いたものが、見つかったのは初めてでした。現在、飛鳥で見つかった宮跡中、最古級遺構とされます。 |
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境内 |
飛鳥観光マップ |
伝小墾田宮 |
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解説 |
飛鳥川 |
大官大寺跡へ・・・ |
大官大寺跡(国指定史跡) |
天智天皇造営の官(国)の大寺で、飛鳥四大寺の一つで、重要な位置にありました。当時は中門、金堂、講堂、九重塔などの大伽藍が配置されていたと伝え、後に平城京に移って大安寺となりました。今は、広大な跡地に当時の荘厳さを偲びます。
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お〜大和ワラシベ入鹿軍勢の襲来じゃ〜 |
当時を偲ばせる広大な大官大寺跡 |
日本最古級の鬼瓦・奥山久米寺跡 |
慎ましい佇まいですが、立派で精巧な上代寺院礎石が数多く現存し、特に蓮華文様の最古級の鬼瓦が出土した事から相当の格式と規模
の寺であったと推察されています。 |
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解説 |
奥山久米寺跡へ・・・ |
奥山久米寺跡 |
奈良文化財研究所・飛鳥資料館 |
飛鳥の遺蹟を発掘調査している奈良文化財研究所の資料館で主に6世紀〜8世紀の飛鳥地方の歴史や文化を分かりやすく解説しています。飛鳥寺、山田寺や高松古墳などの出土品や復元模型なども数多く展示され遺蹟を見ただけでは理解しにくい歴史の理解に役立ちます。 |
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奥山久米寺跡 |
飛鳥資料館へ・・・ |
飛鳥資料館 |
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飛鳥資料館 |
亀石くん(レプリカ)じゃ〜 |
お〜猿石くんや人頭石(全てレプリカ)じゃ〜 |
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八釣マキト5号墳(レプリカ) |
解説 |
飛鳥京のパノラマ |
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石人像 |
二面石(レプリカ) |
展示物 |
高松塚古墳 |
1300年前の飛鳥人の姿などを鮮やか色形で描いた壁画が発見されてから30余年。今再び、世間を賑せている古墳です。壁画がカビなどで劣化し、消えてしまう事から石室こどに解体し修復する為に改修工事中の為、現物を見る事は出来ませんが、資料館で精巧な模写や出土品のレプリカなどが見れます。
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須弥山石(しゅみせんいし) |
高松塚古墳解説パネル |
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有名な高松塚古墳西壁画「飛鳥美人(模写)」 |
現在の高松塚古墳の模型 |
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川原寺伽藍復元模型 |
山田寺仏頭(レプリカ) |
飛鳥時代の噴水、須弥山石(レプリカ) |
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酒造りに使用したと伝える岡の酒船石(レプリカ) |
飛鳥川畔で出土した出水の酒船石(レプリカ) |
飛鳥時代の噴水、石人像(レプリカ) |
飛鳥坐(あすかにいます)神社 |
飛鳥の甘南備山から平安初期に鳥形山に遷座し飛鳥の守護神として祀られたのが起こりと伝えます。むすびの神、幸福を招く神として知られ2月第1日曜日に行われる御田植祭の「おんだ祭」は奈良の奇祭で知られ、豊作を祈願する夫婦和合の祭礼です。又、氏子のいない飛鳥家所有の珍しい神社でもあります。 |
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飛鳥坐神社へ・・・ |
飛鳥坐神社 |
万葉の歌碑 |
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本殿 |
むすびの神石(陰陽石) |
境内社 |
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陽石 |
境内社 |
奥の大石(陽石) |
日本最初の水時計・水落(みずおち)遺蹟 |
「日本書紀」の斎明6年(660年)に記された「皇太子、初めて漏刻を造り、民をして時を知らしむ。」と記述通り、昭和56年に一辺が20mもの四角い石組み基壇と礎石、黒漆を塗った木箱などが発掘されました。皇太子とは中大兄皇子の事で、大陸の進んだ制度を取り入れるのに熱心でした。文物の輸入についても同様で当時、画期的と言える漏刻(水時計)を造りました。堅固な建物一階にサイフォンの原理を利用した水時計が設置され二階に吊るした鐘で飛鳥の都に時を告げたと伝えます。中大兄皇子は、後に天智天皇として即位して近江の大津京でも飛鳥での先例を受け継ぎ漏刻を設置しました。 |
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水落遺蹟へ・・・ |
造り酒屋 |
水落遺蹟 |
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水落遺蹟 |
解説碑 |
入鹿の首塚(胴塚) |
飛鳥板蓋宮の大極殿で暗殺された蘇我入鹿の首を当地に埋めたとも中大兄皇子、中臣鎌足らを追って首が、あちこち飛び回った為、供養の為の供養塔とも伝え、別名を入鹿の胴塚とも言います。 |
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甘樫丘 |
飛鳥寺へ・・・これぞ飛鳥やなぁ〜
(@^▽^@) |
入鹿の首塚(胴塚) |
日本最古の飛鳥大仏(金銅釈迦像
重文:飛鳥期)、大化の改新ゆかりの飛鳥寺(鳥形山安居院) |
推古天皇4年(596年)、蘇我馬子の創建と伝える日本で最初の本格的な寺院で寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は鳥形山安居院:あんごいん)と号しました。近年の発掘調査で当時の壮大な伽藍が確認され有名な鞍作止利(くらつくりのとり)の作と伝える日本最古の丈六の飛鳥大仏(金銅釈迦像)を安置します。ましたが、杏仁形の目はアルカイックスマイルと言われ法隆寺の釈迦三尊などと共通します。旧伽藍は、仁和3年(887年)と建久7年(1196年)の火災によって焼失、寛永9年(1632年)と文政9年(1826年)に再建され現在に至ります。又、「大化の改新」の主役・中大兄皇子、中臣鎌足が始めて出会った所と伝え、境内で蹴鞠に興じながら蘇我氏打倒の策を練ったとも伝えます。 |
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「大化の改新」の主役・中大兄皇子、中臣鎌足が始めて出会った所と伝える飛鳥寺 |
鐘があるから鐘を撞く!!!エェ〜鐘音でつ!!!
(^◇^;) |
真神原(まかみのはら) |
「大口(おほくち)の 真神の原に
降る雪は いたくな降りそ
家もあらなくに」・・・狼のいる真神原に降る雪は、そんなにひどく降ってくれるな。辺りに家も無いのに。。。真神原は飛鳥寺一帯に広がる田野とされ、大和国風土記逸文に「むかし、老狼ありておほくの人を食う。土民畏れて大口(おおく)の神という。」と記され、古代、この辺りは狼の出没する寂しい原野であったと伝えます。 |
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飛鳥大仏を安置する講堂(元金堂) |
飛鳥大仏(金銅釈迦像
重文:飛鳥期) |
真神原(飛鳥寺方面) |
弥勒石(みろくいし) |
高さ2.5mの立石。俗に、「みろくさん」、「弥勒地蔵」と呼ばれ、現在も土地の人たちに信仰され、祭祀され下半身の病に霊験があると言われます。石仏は、大きな稜面のある石柱状で仏顔もほとんどなく、わずかに口の形だけが認められます。 |
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真神原・・・これまた飛鳥やなぁ〜
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飛鳥京跡苑池遺構? |
弥勒石 |
伝飛鳥板蓋宮跡(あすかいたぶきのみや:国指定史跡) |
「大化の改新」の幕開けとなった「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我入鹿が中大兄皇子等に暗殺された所です。飛鳥板蓋宮とは、皇極天皇、斉明天皇の皇居でした。天皇は、皇極2年に小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移りました。当時の宮が茅葺、桧皮葺でしたが板蓋だったので、この名がつきました。石敷きの回廊、広場や大井戸が復元されています。 |
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伝飛鳥板蓋宮跡へ・・・ |
大化の改新の幕開けとなった「乙巳の変(いっしのへん)」の舞台となった伝飛鳥板蓋宮跡 |
大化の改新の幕開け「乙巳の変:いっしのへん」 |
蘇我稲目(そがのいなめ)、馬子(うまこ)、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)の蘇我氏四代に亘って政権を掌握しました。中臣鎌足(藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、天皇へ権力を取り戻す為に、軽皇子(孝徳天皇)と接触したが、その器ではないと諦めました。後に鎌足は、蹴鞠の会で中大兄皇子(天智天皇)と出会い、共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練りました。皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて三韓進貢が始まった時、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺、翌日、蘇我蝦夷が甘樫丘の邸宅に自ら火を放ち自害し、蘇我氏(蘇我本宗家)が滅亡しました。これを、この年の干支に因んで「乙巳の変(いっしのへん)」と言い、大化の改新の幕開けとなるクーデター(政変)となりました。
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伝飛鳥板蓋宮跡 |
大井戸跡 |
犬養万葉記念館 |
西国三十三観音霊場の第七番・岡寺(龍蓋寺:りゅうがいじ) |
西国第七番の観音霊場で厄除けの寺として知られます。奈良時代末期に製作された本尊は、高さ・約4.5mの如意輪観音像で、我が国最大の塑像(粘土で作られた仏像)です。両脇に不動明王と愛染明王が安置されています。境内はシャクナゲ、サツキの名所でもあります。 |
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岡寺参道 |
石舞台古墳 |
説明パネル |
石舞台古墳(国指定史跡) |
玄室の長さ:約7.6m、幅:約3.5m、高さ:約4.7mで大小30数個の花崗岩が使われる横穴式石室を持ち、使われている石の総重量は約2,300t、特に天井石北側64t、南側約77t、にも及ぶ我が国最大の方形墳です。築造には相当優れた巨石運搬技術が必要と思われます。蘇我馬子が、この付近に住んでいた事、日本書紀に記される7世紀初頭に権力を握っていた馬子の桃原墓と推定されます。石舞台の名は、石の形状から、狐が女に化けて石の上で舞を見せた。旅芸人が島ノ庄にやってきた時、舞台がなかったので仕方なく大石を舞台に演じたなど諸説があります。墳丘の盛り土が全く残っていないのは、大化の改新後に蘇我氏への懲罰として剥されたとも伝えます。
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日本最大と言われる石室が剥き出しになっているのは、大化の改新後に蘇我氏への懲罰として剥されたと伝える石舞台古墳 |
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馬子降臨?!(^◇^;)爆!
@広さ8坪の玄室 |
天井の大石は約141t
(@_@;) |
亀石くん通過・・・またね〜
(^◇^)/~~ |
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鬼の雪隠通過・・・またね〜
(^◇^)/~~ |
飛鳥駅 |
白き流線型「さくらライナー」 |
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橿原神宮前へ・・・ |
京都行き急行に乗り継ぎ・・・橿原神宮前駅 |
無事帰還!(@^▽^@)
@桃山御陵前駅 |
Tourist
2007.02.12(M) |