|
|
|
大手口道石段 |
羽柴秀吉邸跡 |
織田家臣団の屋敷 |
信長の居所である天主を頂点に、織田家中や家臣団、同盟する徳川家康などの屋敷が「貞享絵図」に記され、どこまで真実を伝えるかは不明ですが築城と共に家臣達の屋敷が岐阜、尾張から強制的に移された事は「信長公記」などから明らかです。安土での織田家臣団の伝承は信長の「兵農分離政策」を反映しています。 |
|
|
|
前田利家邸跡 |
大手道石段には幾つもの石仏転用石!
(@_@;) |
石仏、石塔(供養塔)、墓石の石段転用 |
安土城の石段には、実に多くの石仏、石塔(供養塔)、墓石が使われています。石段の角の足を乗せる部分に多く、これは入城した敵兵を怯ませる狙いがあったと伝えます。 |
|
|
|
ハ見寺(徳川家康邸跡)
|
武井夕庵(たけいせきあん)邸跡 |
|
|
|
上って来た大手道を振りかえります。。。(^O^;
暑うぅ〜 |
黒金門跡 |
|
|
|
織田信忠邸跡 |
織田信澄(左)、森欄丸邸跡 |
織田信雄公四代供養塔(長谷川邸跡) |
幻と消えた城にまつわる伝説の「蛇石:じゃせき」 |
安土城天主跡のどこかに、伝説の巨石・蛇石が埋もれていると伝えます。大きさ五間(約9m)余り、蛇の鱗紋状をした美しい石です。伝説の巨石とされるのは、総勢一万人余の人が繰り出して昼夜三日がかりで山頂に運び上げたと「信長公記」、「武功夜話」に記されますが、何処からも発見されないからです。城跡からも発見されず天主の心礎に使われたのではと思われたが、三年間の発掘調査でも発見されませんでした。蛇石の運搬に信長は、派手な南蛮渡来の緋羅紗(ひらしゃ)の陣羽織を着して蛇石の上に打ち乗り、自ら音頭をとったと伝えます。修羅(木そり)に載せた蛇石には前後十本の太縄がつけられ、数千人が掛け声に合わせて引っ張りました。作業は、昼夜続けられ篝火や松明の灯りが昼のようだったと伝えます。ところが、二合目で土中にめり込み動かなくなり信長は、たちまち顔面を引き攣らせて不機嫌になったようです。この時、秀吉が夜を徹して樹木を切り払って緩やかな石道を造り樫の木を敷き詰めて油を塗り、修羅を引くとスルスルと山頂に上ったと伝えます。信長廟所(二の丸跡)脇に蛇石?と言われる巨石があるのですが、伝承に比して小ぶりで定かでありません。もう一つ、信長にまつわる逸話の名石は、数奇な運命を辿って現在、京都市伏見区醍醐の三宝院庭園にある天下人が愛でた「藤戸石(庭園の主人石:中心石)」で国の特別名勝に指定されています。 |
|
|
|
駒札 |
信長廟所(二の丸跡) |
蛇石?と言われる大石ですが・・・ |
二の丸(信長廟所) |
二の丸は秀吉によって信長の一周忌に廟所として改築され本丸より高くなった二の丸跡に信長廟所があります。 |
|
|
|
信長廟所(二の丸跡)・・・羽柴秀吉の改築により本丸よりも地盤が高くなりました。。。 |
信長の足跡とも言われる仏足石 |
本丸 |
壮麗を極めた安土城天主は天正10年(1582年)6月、本能寺の変の後に炎上、本丸御殿も含めて焼け落ちました。その後、安土城主に信忠の長男・三坊師(秀信)が就任し羽柴秀吉、丹羽長秀によって天守を除く城の再築がなされました。三坊師は文禄元年(1592年)、羽柴秀勝の旧領地を与えられ岐阜城主となるまで安土城主と「織田家普」に記されます。安土城下町は天正13年(1585年)8月、近江八幡へ移され豊臣秀次の城下町となりました。三坊師は前年12月に坂本城へ移ったと「兼見卿記:かねみきょうき」に記されますが安土城廃城については記されず、信長の死後3年余りは使用されたとされ、現存する城遺構は三坊師時代も含まれています。本丸の発掘調査の結果、三坊師時代に使われた形跡は見出されず信長が築いた本丸御殿の礎石が出土しました。内裏の清涼殿と同じ柱間七尺二寸間で同一平面である事が判明し「信長公記:しんちょうこうき」に記す桧皮葺の「御幸(みゆき)の御間」であると考えられ信長は天皇の安土行幸を念頭に本丸御殿を造営しました。 |
|
|
|
本丸(本丸御殿跡) |
この石段を上ると山頂の天主跡 |
|
|
|
天主跡 |
説明パネル |
本丸跡からの俯瞰、かっては内湖(琵琶湖) |
ハ見寺(そうけんじ)跡、石材丁場 |
天主が東の丘にあがったのに対し、ハ見寺は城の西の丘に建立されました。能舞台や接客用の施設があった事が記録されています。おそらくヨーロッパの城郭が城の中枢と教会が双立している事を模し、寺を構えたと思われ、後に秀吉が伏見城学問所に三重塔や唐門を構えたのも安土城を模したと思われます。城の周囲には馬渕、岩倉の石工職人達が安土城へ切り出した石材丁場跡が、長光寺山、長命寺山、伊庭山などに残り、安土城は日本で最初に築かれた「総石垣の城郭」としても注目され近代城郭は安土城から始まったと言われる所以です。 |
|
|
|
ハ見寺跡(本堂跡)
|
西の湖
o(>w<)〇゛ 絶景ふぉ〜 |
ハ見寺(そうけんじ)三重塔(重要文化財:室町期) |
安土城築城時に、甲賀郡から移築されたと伝えられ、安政元年(1854年)の火災により、本堂、庫裏等伽藍の大半を焼失しました。以後、仮本堂を現在のハ見寺に移されました。築城当時の貴重な建物として山内に残る仁王門と共に重要文化財に指定されています。 |
|
|
|
かっての安土城下町を彷彿します・・・ |
三重塔 |
百々橋(どどばし)口道を下ると仁王門 |
|
|
|
仁王門 |
百々橋口道の石段 |
四面石仏塔 |
|
|
|
百々橋口道の石段 |
大手道の石段 |
武将が登城した百々橋口(西門口) |
|
|
|
明智光秀ら武将や町衆も登城する時に渡った百々橋・・・水路は城濠の名残りで石垣も残っています。。。 |
|
|
|
黒焦のマリア像も安置する会勝寺 |
西の湖 o(>w<)〇゛
美しい眺めじゃ〜 |
|
|
|
八幡山〜長命寺山の稜線が美しい・・・西の湖 |
セミナリヨ跡 |
天正9年(1581年)、イタリア人宣教師・オルガンチノによって創建された目本最初のキリシタン神学校跡です。安土城炎上の際に焼失し、現在は推定地の一部が濠に面した公園として整備されています。 |
|
|
|
日本最初のキリシタン神学校のセミナリヨ跡 |
|
|
|
観音寺山(繖山:きぬがさやま) |
お世話になったレンタサイクル深尾 |
JR安土駅から普通電車で京都駅へ・・・ |