近江紀行「安土歴史街道チャリチャリ探訪」

 

わすれにし 人をぞさらに あうみなる おいそのもりと おもひいでつる   「古今和歌六帖」 巻第五

 

安土町城郭資料館〜沙沙貴神社〜安土城天主 信長の館〜安土城考古博物館〜安土城跡〜西の湖〜セミナリヨ跡

 

織田信長が夢を託した天下布武の拠点・・・安土(あづち)町

滋賀県中部、琵琶湖東岸に位置する町で日本史における安土桃山時代の語源ともなった安土城が建てられた地として知られます。元亀元年(1570年)、姉川の合戦に勝利した織田信長は天正元年(1573年)に将軍・足利義昭を追放し、天正3年(1575年)、長篠の合戦で武田勝頼を破って天下統一に向いました。天正4年(1576年)に安土と地名を定め天下布武の拠点を置く事を宣言しました。琵琶湖の内湖に半島のように突き出た安土山に地上五層七重の天守が燦然と出現しました。新しい都市造り、国造りのシンボルとして安土城を築いた信長は、安土山周辺に武将の邸宅を構え妻子と共に住む事を求める一方、城下町に周辺の商工業者の移住を促す為の13ヶ条の掟を出して経済政策を重視しました。首都構想は戦火の中でも着々と進められましたが築城後、僅か3年、本能寺の変によって信長の夢と城は共に消えました。安土城跡は大正15年(1926年)に史跡、昭和27年(1952年)に特別史跡に指定され平成元年(1989年)には、特別史跡安土城跡調査整備事業が20年計画でスタートしました。

近鉄で出立@近鉄桃山御陵前駅 貨物列車 新快速で近江八幡へ・・・
八幡山と田園風景・・・間もなく近江八幡駅 近江八幡駅で普通に乗り換え安土駅へ・・・ JR安土駅
安土町城郭資料館

中世の安土に関する資料を中心に集めた資料館。なかでも20分の1のスケールで再現された安土城は必見です。他に屏風絵風板壁画や信長の時代を中心に資料を集めた安土文庫などがあります。 料金:大人200円 学生150円 小人100円

おぉ〜天下布武の織田信長さまじゃ〜 m(_ _)m 安土町城郭資料館 1/20で精巧に再現された安土城
見学していると館内の濃姫さま?お姉さまに城内も見れますよ・・・ウィ〜〜ンと動きながら城が真っ二つ!! !(@_@;)見事なシリ?シロ内部ですがな! (^O^;ゞ
天主を見上げると・・・ん?誰ぞ鎮座してますがな?! ( ̄ω ̄;)! おぉ〜信長さまじゃ〜 o(>w<)〇゛
在りし日の安土城の屏風絵 安土城(奥の低山)と観音寺城のパノラマ 駒札
相撲櫓

元亀元年(1570年)、織田信長が常楽寺で催した相撲興業は近代相撲の発祥と伝え、これに因んで相撲櫓が建てられました。

天主の六重(八角の段)、七重(四角の段) 相撲櫓 レンタルしたシボレーのクロス・深尾7号@浄厳院
浄厳院

織田信長が安土城の築城と共に、伊賀と近江の浄土宗総本山として再興した寺で本堂を始め、五つの重要文化財を所有。天正7年(1579年)に浄土宗と日蓮宗の問で安土宗論(安土問答)が行われた事で有名です。宗論に勝った浄土宗が唱えた「かちどき念仏」は今も伝えられている。「かちどき念仏」は浄土宗の勝利を喜んだ信者達が、鉦と太鼓で威勢よく唱えた事に由来し、浄厳院独特の念仏だと言われます。

浄厳院駒札 境内 諸堂
ちらほら咲き出したコスモス畑、安土山〜観音寺山(繖山:きぬがさやま)@境内 本堂
沙沙貴神社

全国の佐々木氏、近江源氏の佐々木氏(戦国期は六角氏)の氏神として敬拝されている神社です。神話の時代に少彦名神(すくなひこなのかみ)がササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説から「ササキ神社」が始まったと伝えます。古代の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の祖神・大毘古神(おおひこ)、仁徳天皇(大鷦鷯尊:おおささきのすめらみこと)を祀り、源頼朝以降の佐々木源氏が近江国の守護職となり宇多天皇(うだのすめらみこと)、敦實親王(あつみしんのう)を祀りました。この四座五柱の神々を佐佐木大明神(ささきだいみょうじんさ)と称し近江源氏・佐々木氏の氏神として現在に至ります。

仁王門@浄厳院 沙沙貴神社 茅葺の楼門
拝殿 乃木希典(まれすけ)手植えの松 本殿
ヴォーリズが設計した旧伊庭住宅(郷土館)

大正2年(1913年)、ウイリアム・メレル・ヴォーリズが設計した木造住宅で、洋風の外観を持ちながら畳敷の座敷など和風建築の手法を取り入れた和洋式木造住宅。旧住友財閥総理事・伊庭貞剛の四男・慎吉の邸宅で、ヴォーリズ初期の設計で特に貴重とされます。

ヴォーリズが設計した旧伊庭住宅(郷土館) びわこよし笛ロード(自転車道)をチャリチャリ・・・
安土城天主 信長の館

天正7年(1579年)、信長の命によって建築された安土城は日本最初の天主閣を備え、世界で最初の木造高層建築と言われ高さ46mと壮大で絢爛豪華な城でした。平成4年(1992年)、スペイン・セビリア万国博覧会に出展された安土城の天主最上部(六重:八角の段、七重:四角の段)が内部障壁画と共に原寸大で復元されています。料金:大人500円 学生300円 小人150円  (安土城考古博物館との共通券 大人680円)

田園と安土山(標高190m:比高106m) 安土城考古博物館、信長の館 信長の館
信長が実際に使用した指揮棒、南蛮鎧など 原寸大で再現された安土城の六、七重 六重(八角の段)
安土城天主

安土山頂に、五重七層(地下1階、地上6階)の天主は一般に天守と記されますが、信長があげた足利義昭の室町第、二条城などは、殿守、殿主、安土城は天主と記します。安土城天主は三層目の大入母屋上に方形の小屋の段(五重目)を造り、その上の六重目を八角形の法隆寺夢殿のような姿とし方形上に八角形で廻り縁のある階を載せる為、鯱、龍などをあしらった斗栱(ときょう:柱上の軒を支える部分)を組み出し、蟇股(かえるまた:荷重を支える部分)には餓鬼などがあしらわれました。七重目は金閣を模した内外共、金箔貼りで四方の柱は上り龍と下り龍、内壁には、中国の皇帝像などが描かれ、天井には天人が舞っていました。信長と家族たちの居住階、接客の間は2、3、4重目にあり、何れの階にも狩野永徳、光信父子による障壁画が飾られました。天主は石垣天端より内側にあがり東側に入口から長屋状多聞櫓が接続、東〜北にかけては小空間があって本壇である天主曲輪を形成しました。壁、支柱材、屋根の重量を軽減させる為に地階を造り、重量を一階の土台と大引(おおびき:床の根太を支える横材)に吸収させた革命的な木造建築でした。

天主七重の外壁は金閣を模して金箔が施されて豪華絢爛。。。。七重内部は黒漆塗りで天子南面する 「四角の段」と言われます。
安土城普請の様子・・・蛇石なら石上に信長?! 駒札 旧柳原学校校舎
安土城考古博物館

近江風土記の丘の一角にある西欧風の博物館で館内には弥生時代〜古墳晴代の生活様式を再現展示、信長と安土城に関する史料も豊富に展示しています。料金:大人350円(信長の館との共通券 大人680円)

駒札 安土城考古博物館 発掘された丸木舟など縄文時代の展示室
安土城跡の復元パノラマ模型 精巧な安土城の模型 標高432mの観音寺山(繖山:きぬがさやま)

織田信長が夢を託した天下布武の覇城・安土城

織田信長は天正3年(1575年)11月、大納言、右大将に任ぜられ、正親(おおぎまち)天皇より天盃を受けました。武家の頂点に立った信長は岐阜城と尾張、美濃両国、織田家の家督を嫡男・信忠に譲り、天正4年(1576年)正月、天下統一の本拠とする城郭を安土山に着工しました。安土は中山道が湖東で佐和山にぶつかり、東海道が永原、草津に至る街道筋の中間地にあり尾張と北伊勢の千種越えから最短で結ばれ、琵琶湖を船で坂本に渡り志賀越えで京に至る水陸交通、軍略上の要衝に位置していました。天正4年(1576年)、信長が丹羽長秀に命じて約3年の歳月をかけて完成した安土城は絢爛豪華な城郭だったと伝えます。信長は安土城着工と共に普請奉行・丹羽長秀の佐和山城と京の二条城、安土仮屋敷間を船で往来し天正7年(1579年)5月11日、未完成の天主に居を移し、安土城を天下布武の象徴、天下人の城としました。天正9年(1581年)9月上旬に完成した城は山麓から高さ(比高)106mの山城で山頂の金殿玉楼の五層七重天主を中心に削平地である曲輪(くるわ)群を麓から山上に配し、全て石垣で固め、階郭状に縄張りされたので日本で最初に築かれた「総石垣の城郭」と言われます。城の西側にハ見寺(そうけんじ)を建立、天主と寺院が並び建ち、ヨーロッパの城が教会と並立する様を彷彿させました。竣工前の盂蘭盆には、天主を始め諸建築群に提灯を吊るし、内湖と濠には船に松明を一斉に灯して湖上に幽玄の世界を演出しました。天正10年(1582年)正月、竣工記念に城内一般公開と財宝展覧を催し信長自らが礼銭百文ずつを徴収したと伝えます。現在は石垣のみが残っており、特別史跡にも指定され発掘調査が進められています安土城跡はハ見寺(臨済宗)の私有地で今まで見学無料でしたが、国からの補助金が削減されるとの事で、2006年9月1日より大人500円、子供(小学生、中学生)100円が必要になるようです。

安土城跡碑 発掘、整備された東側の平虎口
大手口

「貞享絵図:じょうきょうえず」によると城の南側、大手石段の前方、蓮池と沼の中にある東西方向の土塁中央に一ヶ所描かれています。平成14年(2002年)の発掘調査で、中央の虎口(出入り口)の他、西側に二ヶ所、東側に一ヶ所石塁(「貞享絵図」では土塁)を開く虎口が出土し大手虎口は大手門正門を含めて計四ヶ所開かれていた事が判明しました。四ヶ所全てが信長時代の遺構なのか本能寺の変後に再築されたものかは明らかでないが、安土城のイメージを大きく変えました。大手道を進む幅約9m(左右に各幅1.2mの側溝を含む)の大手石段が真正面に天主を仰ぎ、左右に織田家臣団の屋敷跡と伝える曲輪(くるわ)群を配し180mもほぼ一直線で構えられました。安土城が天下布武の象徴である事を示す景観です。

大手口道石段 羽柴秀吉邸跡
織田家臣団の屋敷

信長の居所である天主を頂点に、織田家中や家臣団、同盟する徳川家康などの屋敷が「貞享絵図」に記され、どこまで真実を伝えるかは不明ですが築城と共に家臣達の屋敷が岐阜、尾張から強制的に移された事は「信長公記」などから明らかです。安土での織田家臣団の伝承は信長の「兵農分離政策」を反映しています。

前田利家邸跡 大手道石段には幾つもの石仏転用石! (@_@;)
石仏、石塔(供養塔)、墓石の石段転用

安土城の石段には、実に多くの石仏、石塔(供養塔)、墓石が使われています。石段の角の足を乗せる部分に多く、これは入城した敵兵を怯ませる狙いがあったと伝えます。

ハ見寺(徳川家康邸跡) 武井夕庵(たけいせきあん)邸跡
上って来た大手道を振りかえります。。。(^O^; 暑うぅ〜  黒金門跡
織田信忠邸跡 織田信澄(左)、森欄丸邸跡 織田信雄公四代供養塔(長谷川邸跡)
幻と消えた城にまつわる伝説の「蛇石:じゃせき」

安土城天主跡のどこかに、伝説の巨石・蛇石が埋もれていると伝えます。大きさ五間(約9m)余り、蛇の鱗紋状をした美しい石です。伝説の巨石とされるのは、総勢一万人余の人が繰り出して昼夜三日がかりで山頂に運び上げたと「信長公記」、「武功夜話」に記されますが、何処からも発見されないからです。城跡からも発見されず天主の心礎に使われたのではと思われたが、三年間の発掘調査でも発見されませんでした。蛇石の運搬に信長は、派手な南蛮渡来の緋羅紗(ひらしゃ)の陣羽織を着して蛇石の上に打ち乗り、自ら音頭をとったと伝えます。修羅(木そり)に載せた蛇石には前後十本の太縄がつけられ、数千人が掛け声に合わせて引っ張りました。作業は、昼夜続けられ篝火や松明の灯りが昼のようだったと伝えます。ところが、二合目で土中にめり込み動かなくなり信長は、たちまち顔面を引き攣らせて不機嫌になったようです。この時、秀吉が夜を徹して樹木を切り払って緩やかな石道を造り樫の木を敷き詰めて油を塗り、修羅を引くとスルスルと山頂に上ったと伝えます。信長廟所(二の丸跡)脇に蛇石?と言われる巨石があるのですが、伝承に比して小ぶりで定かでありません。もう一つ、信長にまつわる逸話の名石は、数奇な運命を辿って現在、京都市伏見区醍醐の三宝院庭園にある天下人が愛でた「藤戸石(庭園の主人石:中心石)」で国の特別名勝に指定されています。

駒札 信長廟所(二の丸跡) 蛇石?と言われる大石ですが・・・
二の丸(信長廟所)

二の丸は秀吉によって信長の一周忌に廟所として改築され本丸より高くなった二の丸跡に信長廟所があります。

信長廟所(二の丸跡)・・・羽柴秀吉の改築により本丸よりも地盤が高くなりました。。。 信長の足跡とも言われる仏足石
本丸

壮麗を極めた安土城天主は天正10年(1582年)6月、本能寺の変の後に炎上、本丸御殿も含めて焼け落ちました。その後、安土城主に信忠の長男・三坊師(秀信)が就任し羽柴秀吉、丹羽長秀によって天守を除く城の再築がなされました。三坊師は文禄元年(1592年)、羽柴秀勝の旧領地を与えられ岐阜城主となるまで安土城主と「織田家普」に記されます。安土城下町は天正13年(1585年)8月、近江八幡へ移され豊臣秀次の城下町となりました。三坊師は前年12月に坂本城へ移ったと「兼見卿記:かねみきょうき」に記されますが安土城廃城については記されず、信長の死後3年余りは使用されたとされ、現存する城遺構は三坊師時代も含まれています。本丸の発掘調査の結果、三坊師時代に使われた形跡は見出されず信長が築いた本丸御殿の礎石が出土しました。内裏の清涼殿と同じ柱間七尺二寸間で同一平面である事が判明し「信長公記:しんちょうこうき」に記す桧皮葺の「御幸(みゆき)の御間」であると考えられ信長は天皇の安土行幸を念頭に本丸御殿を造営しました。

本丸(本丸御殿跡) この石段を上ると山頂の天主跡
天主跡 説明パネル 本丸跡からの俯瞰、かっては内湖(琵琶湖)
ハ見寺(そうけんじ)跡、石材丁場

天主が東の丘にあがったのに対し、ハ見寺は城の西の丘に建立されました。能舞台や接客用の施設があった事が記録されています。おそらくヨーロッパの城郭が城の中枢と教会が双立している事を模し、寺を構えたと思われ、後に秀吉が伏見城学問所に三重塔や唐門を構えたのも安土城を模したと思われます。城の周囲には馬渕、岩倉の石工職人達が安土城へ切り出した石材丁場跡が、長光寺山、長命寺山、伊庭山などに残り、安土城は日本で最初に築かれた「総石垣の城郭」としても注目され近代城郭は安土城から始まったと言われる所以です。

ハ見寺跡(本堂跡) 西の湖 o(>w<)〇゛ 絶景ふぉ〜
ハ見寺(そうけんじ)三重塔(重要文化財:室町期)

安土城築城時に、甲賀郡から移築されたと伝えられ、安政元年(1854年)の火災により、本堂、庫裏等伽藍の大半を焼失しました。以後、仮本堂を現在のハ見寺に移されました。築城当時の貴重な建物として山内に残る仁王門と共に重要文化財に指定されています

かっての安土城下町を彷彿します・・・ 三重塔 百々橋(どどばし)口道を下ると仁王門
仁王門 百々橋口道の石段 四面石仏塔
百々橋口道の石段 大手道の石段 武将が登城した百々橋口(西門口)
明智光秀ら武将や町衆も登城する時に渡った百々橋・・・水路は城濠の名残りで石垣も残っています。。。
黒焦のマリア像も安置する会勝寺 西の湖 o(>w<)〇゛ 美しい眺めじゃ〜
八幡山〜長命寺山の稜線が美しい・・・西の湖
セミナリヨ跡

天正9年(1581年)、イタリア人宣教師・オルガンチノによって創建された目本最初のキリシタン神学校跡です。安土城炎上の際に焼失し、現在は推定地の一部が濠に面した公園として整備されています。

日本最初のキリシタン神学校のセミナリヨ跡
観音寺山(繖山:きぬがさやま) お世話になったレンタサイクル深尾 JR安土駅から普通電車で京都駅へ・・・

Tourist  2006.08.22(Tue)

参考資料  名城を歩く 安土城

近江の城下町を歩く

安土散策、特別史跡 安土城、あづち周遊、他(レンタサイクル・深尾さん提供)

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