伏見ポタポタぽたりんぐ〜・・・

 

何となく 物悲しくぞ 見え渡る 鳥羽田の面の 秋の夕暮れ (山屋集) 西行

 

鳥羽、白河法皇院政之地・・・鳥羽離宮

鳥羽離宮は平安時代後期の応徳3年(1086年)、白河天皇が藤原季綱(すえつな)から献上された鳥羽の地に後院として造営を始め、鳥羽上皇が継承して完成させました。規模は約100町と伝え、1町とは1辺が約109mで面積が11,881u(約3,600坪)、100町と言えば、約36万坪にもなる広大な離宮でした。平安京の羅城門(正門)から「鳥羽の造り道(つくりみち:鳥羽街道)」を南進すると当地界隈に出ます。この所以から鳥羽離宮を城南(せいなん)離宮と称したとも伝えます。安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。半分近くが池で、河川海などの水運交通の拠点、都への陸運交通の玄関として物流拠点、経済拠点でもありました。現在、往時の鳥羽離宮を偲べるのは安楽寿院、城南宮界隈です。僅かなポタリングですが、私的にお気に入りのエリアをの〜んびりとキララちゃんでチャリ探訪しました・・・

安楽寿院

今は往時を偲ぶ形跡もない鳥羽離宮跡の中で、辛うじて 往時を偲ばせるのが安楽寿院です。新義真言宗智山派で山号はなし。保延3年(137年)、鳥羽上皇が、鳥羽離宮の東殿に一宇を建立し無量寿仏三尊を安置した事に始まり、同5年(1139年)に三重塔(本御塔)を建立し、崩後は遺骨を納める塔所としました。次いで久安3年(1147年)、九体阿弥陀堂や不動堂が建立されました。中宮美福門院得子も院内に二層の宝塔(新御塔)を建立し崩後の山稜とする予定でしたが、故あって近衛天皇陵に改められました。創建以来、多くの荘園が寄せられ堂塔は巍々として洛南の郊野に輪奐の美を誇りましたが中世以降は兵火に罹災し寺運は哀徴しました。鳥羽伏見の戦いでは薩長軍の大本営となったが幸い兵火は免れました。近年まで僅かに残っていた諸堂宇も台風によって倒壊し今は、塔頭前松院を以って本坊としています。

安楽寿院・・・ん?そなたは?? (≧Σ≦)ぶっ まろは・・・キララ・・・キララでつ・・・お久の登場でおじゃります!!! (;^◇^ゞ なはははぁ〜
近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) えぇなぁ〜 (@^▽^@) 鳥羽離宮の全景(イメージ図)
阿弥陀三尊石像(平安期)

釈迦三尊石像と薬師三尊石像は質素な祠の中にありますが、は京都国立博物館に保管されているそうです。また、これら石像には歯痛平癒の信仰があると伝えます。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 弘法大師を祀る大師堂 三尊石仏(左・薬師三尊石像、釈迦三尊石像)
本尊・阿弥陀如来坐像が祀られる?本御塔 駒札 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
冠石(かんむりいし)、鳥羽天皇陵(安楽寿院陵)

冠石・・・保延7年(永治元年:1141年)、鳥羽上皇が法皇になった時、この石の下に冠を埋めたと伝えます。上皇が出家されると法皇(法王)と称します。鳥羽天皇陵(安楽寿院陵)・・・籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で即位させ、一方で後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇。保元元年(1156年)、鳥羽殿において崩御されました。

鳥羽、白河法皇院政之地碑 冠石 鳥羽天皇陵(安楽寿院陵)
北向山不動院(きたむきざんふどういん)

鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立されました。応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、本尊は、伝教大師作・不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る王城鎮護(平安京鎮護)を祈願する寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝えます。山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座しています。

五輪石塔(重文:鎌倉期) 北向山不動院 駒札
手前〜普賢菩薩、文殊、虚空蔵、千手観音 鳥羽上皇寵愛の松 洗心井(せんしんい)とお滝場
地蔵尊堂 延命地蔵菩薩 六体地蔵尊
軍荼利(ぐんだり)夜叉明王とキララちゃん (@^▽^@) どもっ!お久なもので毎度の登場?! (;^◇^ゞ 本堂
白河天皇陵

鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬しました。

白河天皇陵(成菩提院陵) 鳥羽離宮遺跡の成菩提院塚 城南宮
城南宮、菊水若水

城南宮・・・上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀されました。創祀については不詳で平安遷都に際し、王城の守護神として創祀されたとも城南寺の鎮守として創祀されたとも伝えます。応徳3年(1086年)、鳥羽離宮が造営されると社寺は域内となり競馬は離宮の年中行事となり、祭礼に日に行われる競馬がいかに盛大なものであったかは承久の変の時、後鳥羽上皇が城南寺の流鏑馬(やぶさめ)に託して、密に鎌倉幕府打倒の兵を集めた事に想像されます。応仁の乱後、離宮は荒廃し城南寺も退転したが神社だけは残りました。中世以降、上鳥羽、下鳥羽、竹田の産土神として崇敬され、特に方除けの神として信仰を集めています。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と伝えます。菊水若水・・・社伝によると、江戸時代半ばの随筆に「城南宮の菊水(延命水、若水)井の水を飲むと、あらゆる病が治るというので、毎日参詣人が絶えない。法皇の歯痛も治った」とあるように、病気平癒の霊験あらたかで、お百度を踏んで水を持ち帰り病人に授ける習慣があった。奈良のお水取りの水は、若狭の国(福井県小浜市の神宮寺、鵜の瀬)から、菊水若水の井を経て二月堂の若狭井に達していると伝えます。

伏見名水「菊水若水」 駒札 城南宮
境内 拝殿 本殿
春の山@楽水苑 えぇなぁ〜 (@^▽^@) キララも06年最終メンテナンス@Aサイクル
ちと、立ち寄りまつた・・・

ローズピンクのシクラメンが・・・(;^◇^ゞどもども

伏見と言えば・・・酒蔵

Tourist  2006.12.11(M)

 

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