祇園祭(祇園御霊会)宵山

 

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり

娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理(ことわり)をあらはす

おごれる人も久しからず 唯春の夜の夢のごとし  平家物語

 

日本三大祭りの一 ・祇園祭(無形文化財)・・・「さきの祭:巡行」 、 「あとの祭:巡行」と「くじ取らず」

八坂神社の祭礼で正しくは、祇園御霊会(ごりょうえ)と言い、大阪・天神祭、東京・神田祭と共に日本三大祭の一とされる。毎年7月(昔は6月)に行われます。この祭は、清和天皇の貞観11年(869年)、都下に悪疫が流行し、疫神退散を祈る為に神泉苑に66本の矛(ほこ)を建て、祇園社から神輿を招いて神泉苑に疫神を送ったのが起こりと伝えます。その後、大嘗会の標(しめ)の山を模した作山を曳き渡す事もあり、今日見る規模が大きく舶来品のコブラン織りや綴錦(つづれにしき)など絢爛豪華に山鉾を飾るようになったのは、桃山〜江戸時代にかけて、氏子各町衆が台頭し貿易が盛んになったからです。祭は神事、町衆の財力と美意識に支えられてきました。祭事は7月1日の吉符入り〜31日の疫神社夏越祭までの1ヶ月間と長いです。山鉾巡行は7月17日の「さきの祭:巡行」と24日の「あとの祭:巡行」が、午前9時から行われました。17日の「さきの祭:巡行」は、長刀鉾を先頭に鉾7基、山13基が四条烏丸に集合、四条通りを東へ、寺町通り、御池通りを巡行し、24日の「あとの祭:巡行」では、北観音山を先頭に9基の山が三条新町に集合し三条通りを東へ、寺町通り、四条通りを巡行しました。山鉾の順序は年々、くじ取り式でのくじで順番が決められ巡行中は、おのおの独自の華やかな祇園囃子が奏されます。この両日の夕には神幸祭が執行され神輿渡御があり、10日の神輿洗いから28日の後の神輿洗いに至る20日にも及ぶ祭期間中には幾多の祭事が執行されます。「さきの祭:巡行」「あとの祭:巡行」・・・昭和40年(1965年)まで、山鉾巡行は17日の「さきの祭:巡行」と24日の「あとの祭:巡行」に分けて行われていました。巡行が分かれていたのは、祇園祭の「御神輿」が17日に八坂神社から御旅所へ(神幸祭)、また、24日に御旅所から八坂神社へ(還幸祭)と渡御され、山鉾巡行は、その渡御の露払い的な役割を担っていたからです。現在、24日に行われる「花傘巡行」は、この「あとの祭:巡行」に代わるものです。「くじ取らず」・・・あらかじめ巡行順序が決まっている山鉾ですが、その他の山鉾も全く自由なくじ引きという訳ではなく、 順番が山を指定するのか、鉾を指定するかは決まっています。あとの祭の巡行列というのは山鉾巡行が、かって、二日に分けて行われていた名残です。因みに、くじ取らずで巡行順序が決まっている山鉾は、一番「長刀鉾:なぎなたほこ」、五番「函谷鉾:かんこほこ」、二十一番「放下鉾:ほうかほこ」、二十二番「岩戸山:いわとやま」、二十三番「船鉾:ふねほこ」、二十四番「北観音山:きたかんのんやま」、二十五番「橋弁慶山:はしべんけい」、三十二番「南観音山:みなみかんのんやま」の8基です。平成18年(2006年)現在、山鉾は32基が巡行しています。

酒蔵@濠川 伏見庚申堂 京の玄関口・JR京都駅
二十二番(くじ取らず)「岩戸山(いわとやま)」

元来は舁(かき)山でしたが、室町時代に鉾のように車をつけた曳(ひき)山に改造されました。鉾の様に大きな岩戸山ですが、鉾ではない為、屋根の上に鉾頭の代わりに真松が立てられています。「古事記」、「日本書紀」に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を故事に持つ曳き山です。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に怒った天照大神が岩戸に隠れられた為、天地は常闇となり、八百万神は安の河原に集まって対策を練り、常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉を作り、天香山の榊を立て、天鈿女命が舞った伝承である。屋形内に、伊弉諾尊、天照大神、手力男命の3体の人形が祀られます。

一見大きくて立派な鉾のようですが、鉾ではない為(曳ひき山)、屋根の上に鉾頭の代わりに真松が立てられます・・・
二十三番(くじ取らず)「船鉾(ふねほこ)」

「日本書紀」の神功皇后の新羅出船に由来し「出陣の船鉾」の別名があります。屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け、頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けています。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体に晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与する習慣があります。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され天保年間に完成し船頭に高さ1.3m、両翼端2.7mの「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾ります。

世代を超えて人気抜群の船鉾・・・今年もPちゃん&中宮が、鉾町の方に呼んで頂き、お邪魔させて頂きました。<m(_ _)m>おぉきに〜
八番「伯牙山(はくがやま)」

戦後に町会所が無くなった為、綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の格子を外し、飾り場(会所)にしています。琴を前に、斧を持った人形は、中国・晋時代の琴の名手・伯牙で怒りの目、紅潮した両頬は、友人鍾子期(しょうしき)の訃報を聞き、悲しみに打ち震えながら、まさに琴を打ち破らんとしている様を表しています。明治になって多くの山が改名させられたが、この山も「琴破(ことわり)山」から改名したとの記録があります。前懸は慶寿裂の逸品です。

「琴破(ことわり)山」から改名したと伝える「伯牙山(はくがやま)」
二番「芦刈山(あしかりやま)」

世阿弥の謡曲「芦刈」に因んで、ご神体は妻と故あって離れた翁が一人で芦を刈る姿ですが、やがて妻との再会を果たす夫婦和合の姿を表しています。翁の旧衣装「綾地帯切蝶牡丹文片身替小袖」は、全山鉾の中で最古と言われ重要文化財に指定されています。

夫婦和合の姿を表している芦刈山
十六番「油天神山(あぶらてんじんやま)」

学問の神。菅原道真を祀り、宵山に学問成就のお守りを授与されます。胴掛けは日本画の大家・前田青邨(せいそん)の綴織で昨年、調和する色合いの水引が新調されました。油小路通りにあり、朱雀の社殿に天神像が安置される事に因みこのこの名で呼ばれます。

学問の神・菅原道真を祀る油天神山
三番「太子山(たいしやま)」

聖徳太子が四天王寺建立の為に自ら山に入ってスギの良材を求めたという伝説から真木にスギを用います。宵山では聖徳太子に因んで「知恵のお守り」を授与されます。

聖徳太子を祀る太子山
町屋・杉本家住宅(伯牙山町会所) 風情ある太子山町会所 雨が本降りに・・・(>_<)
十番「木賊山(とくさやま)」

世阿弥の謡曲「木賊:とくさ」を題材に我が子をさらわれた翁が一人信濃国伏屋の里で木賊を刈る姿を表しています。宵山に迷子のお守りを授与されます。前掛、胴掛、見送は、彩り豊かなで、翁の木彫彩色の頭は桃山時代の作と伝え、それら装飾品と元禄5年の墨書銘を持つ御神体の悲しげな表情が素晴らしい。

御神体は、元禄5年(1692年)の墨書銘を持ち悲しげな表情が素晴らしい木賊山
十五番「四条傘鉾(しじょうかさほこ)」

応仁の乱以前に起源をもち、昭和63年(1988年)に32番目の山傘として117年振りに巡行が復活しました。頭に赤熊(しゃくま)の飾りを付けた少年たちが囃子に合わせて棒振りなどの踊りを披露します。

117年振りに32番目の山傘として復活した四条傘鉾
十四番「郭巨山(かっきょやま)」

中国の史話二十四考の一人、郭巨の史話で郭巨が黄金の釜を堀あて母に孝養を尽くした故事に因み「釜掘り山」とも呼びます。日覆障子(ひおおいしょうじ)の屋根が特徴です。ご神体の郭巨童子は、江戸時代の木偶(でく)細工師・金勝亭利恭(きんしょうていりきょう)の作です。

中国の史話二十四考の一人、郭巨の故事に因んで釜掘り山とも呼ばれる郭巨山 おぉ〜鉾先に金色の新月が・・月鉾や! (^◇^)
九番「月鉾(つきほこ)」

「古事記」によれば、伊弉諾尊(いざなきのみこと)が黄泉の国から戻り、禊祓い(みそぎはらい)をされた時、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗って素戔鳴尊(すさのおのみこと)を生んだと記されます。月読尊は夜を支配した神ですが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来します。鉾頭に、横40cm、上下24cmの金色の三日月を飾り、真木の中程に天王様を飾った天王台の下に籠製の船が真木を貫いて取り付けられ屋根の上には太陽の象徴である三本足の烏が乗っています。元治元年(1864年)の大火では、幸いにも真木を焼失しただけで、前懸は17世紀のメダリオン絨毯と様々な古い装飾品は、いずれも見事な優品です。

月読尊は夜を支配した神ですが、水徳の神でもあり月鉾は、この故事に由来します・・・
五番(くじ取らず)「函谷鉾(かんこほこ)」

正しくは、「かんこくほこ」と言います。中国古代史話、孟嘗君の故事に基づきます。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用されました。しかし、讒言によって陥れられて咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関門は鶏が鳴かねば開きません。配下が機転を利かせて鶏の鳴き声を真似たところ、あたりの鶏が和して刻を作ったので見事通り抜けたと伝えます。鉾の真木は22mで鉾頭に三角形の白麻を張り、先端には三日月が上向きに取り付けられています。この三日月と山型は山中の闇を表しています。前懸は、旧約聖書の創世記の場面を描いた16世紀の毛綴で、重要文化財に指定されています。

鉾の真木は22mで鉾頭に三角形の白麻を張り、先端には三日月が上向きに取り付けられています・・・
十三番「鶏鉾(にわとりほこ)」

中国古代の「諫鼓(かんこ)」の史話とも、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事に因むともいわれます。「諫鼓」は、暦を制定した伝説の聖天子・尭帝が、宮廷の外に太鼓を据え、政治に不満があれば叩かせ、木を立てて、訴えを書かせました。唐の堯(ぎょう)の時代は天下がよく治まっていたので訴訟用の太鼓(諫鼓)も使われる事がなくなり、太鼓は苔を生じて鶏が巣を作ったという故事に由来します。鉾頭の白を互い違いに巻いた三角枠中の円盤は、鶏卵が諫鼓の中にある事を表していると伝え、真木の中程にある天王座には航海神である住吉明神を祀っています。

中国古代の「諫鼓(かんこ)」の史話とも、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事に因むとも伝える鶏鉾
一番(くじ取らず)「長刀鉾(なぎなたほこ)」

「くじとらず」で山鉾巡行の毎年必ず先頭を受け持つ鉾です。現在、生稚児が乗る唯一の鉾で他の鉾には稚児の代わりに人形が乗っています。鉾先には、疫病邪悪を払う長刀を付けています。鉾名は、鉾の天辺を飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀により、宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用したが、何かと不思議が起こり、返納したと伝えます。大永2年(1522年)、疫病が流行し、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。創建は、嘉吉元年(1441)説が有力で鉾の真木は20mあります。

現在、生稚児が乗る唯一の鉾で毎年、「くじとらず」の一番で山鉾巡行の先頭を切る長刀鉾・・・今年は、しかと拝見できました。。。
創建は、嘉吉元年(1441)説が有力で鉾の真木は20mあります・・・鉾先に疫病を祓う長刀を掲げている事から長刀鉾と呼ばれます・・・
八坂神社

創建は甚だ古く、諸説多く明らかでないが、斉明天皇2年(656年)2月、我が国に来朝した高麗の調進副・伊利之使王(いりしのおおきみ:八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま)に祀る素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊を移し、子孫代々当社の祀官として奉仕したと伝える事から初め、八坂氏の氏神として創祀されたと思われます。天智天皇の御世、社号を感神(かんじん)院と名付けられ、以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改める迄、この社号を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と号し、朱雀天皇の承平4年(934年)に、傍らに薬師堂を創建し観慶寺と号し、別に祇園寺とも呼んだ為に甚だ紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴するに及び中世には、感神院は延暦寺の別院となり、祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地になりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬篤く、延喜式外社ではあるが、二十二社の内に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及んだが、明治の神仏分離令にあたり寺院を廃し神社のみ残った旧官幣大社です。

日本最古の劇場と言われる南座界隈 祇園四条界隈@八坂神社西楼門 改修中の八坂神社西楼門
境内 拝殿(神幸祭の渡御を待つ御神輿が鎮座) 本殿(重文:江戸期)
ご神水 忠盛灯籠 解説
円山公園と言えば・・・銘木・枝垂れ桜 長楽館(喫茶、レディースホテル) 坂本龍馬、中岡慎太郎像
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@) しっとりした風情の花街・祇園界隈 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
祇園と言えば・・・花見小路 これまた えぇなぁ〜 (@^▽^@)・・・しっとりした風情の花街・宮川町
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 鴨の流れ@正面橋 森鴎外の「高瀬舟」で知られる高瀬川
JR東海道本線@堀川通り 新幹線、近鉄京都線@堀川通り 鴨川@京都南大橋
伏見桃山城@京都南大橋

油小路通りを南進・・・

伏見百景で知られる酒蔵

Tourist  2007.07.16(M)

 

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