秋の大和路探訪(Pちゃんズ) 其の参

 

いかるがの さとのをとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも  会津八一

 

藤ノ木古墳〜世界文化遺産・法隆寺〜法輪寺〜世界文化遺産・法起寺〜奈良最古の植村牧場

斑鳩三塔を巡るのどかな風情の里歩き・・・聖徳太子ゆかりの斑鳩の里

聖徳太子ゆかりの地として広く知られ、法隆寺参道を始め、遠くまで見渡せる田園風景など開放的でのどかな風景が広がり、どこかゆ〜ったりとした風情や時間が漂っています。法隆寺は現存する世界最古の木造建築として名高く、法起寺を含む周辺地域の仏教建造物群は、日本で初めて世界文化遺産に登録されました。飛鳥時代から中世、近世に至る仏教芸術の粋と言われる仏像、仏画などがあり、歴史文化の余香を今に伝えます。法隆寺〜法輪寺〜法起寺の斑鳩三塔、西里の町並みや藤ノ木古墳などをめぐる「いにしえの道」は、コスモスが咲き乱れています。塔を見ながら約10kmの里歩きは、聖徳太子ゆかりの斑鳩の里を満喫できます。

御香宮大鳥居 御香宮 JR桃山駅
普通電車に乗車@JR桃山駅 宇治川 みやこ路快速に乗り換え@宇治駅
飯岡(いのおか)、甘南備(かんなび)方面 木津川 JR奈良駅
JR難波行き普通電車 郡山と言えば・・・金魚池 JR法隆寺駅
道標石 法隆寺参道 「浪花節」の初代 奈良丸(出身地)之碑
法隆寺参道 斑鳩町観光案内図 斑鳩観光の事なら法隆寺iセンター
斑鳩の里パノラマ 法隆寺西院伽藍ジオラマ 法起寺伽藍ジオラマ
夢殿の木製模型 松並木が美しい法隆寺参道 法隆寺
藤ノ木古墳へ・・・コスモスが美しい斑鳩の里 延命地蔵尊など・・・合掌
藤ノ木古墳(国指定史跡:古墳時代後期)

6世紀後半に造営された直径約48m、高さ約9mの円墳です。両袖式横穴石室の内部に家形石棺が未盗掘のまま安置されていました。これまでに昭和60年(1985年:第1次)と昭和63年(1988年:第2・3次)に3回の発掘調査を実施しました。古墳の造られた時期は、古墳時代後期の6世紀後半と考えられています。平成3年(1991年)に国史跡の指定を受けました。昭和60年(1985年)、橿原考古学研究所が行った第1次調査の結果、石棺周囲には各種の須恵器、金銅製鞍金具などの副葬品が埋葬当時のままで発見されました。朝鮮半島か中国製と推測される精巧な鞍は東アジア随一とも言われます。88年からの同研究所による石棺内部の調査で男性二体の人骨が確認され、太刀、広帯式冠帯を始め、大量の金銅製品、玉類が見つかりました。男性二体は調査の結果、同時に埋葬されたとみられ、親子や兄弟など近親者の可能性が高まっています。完全な未盗掘古墳だった為に明らかになった重要事実は、6世紀後半の古墳に既に「散華」の儀式が想定できるなど、仏教的な影響が見られます。

藤ノ木古墳・・・6世紀後半の埋葬儀礼を解明する上で貴重な資料など、当時の文化の国際性をも示す極めて重要な古墳です。
説明碑 家形石棺 説明碑
天気が良ければ大和三山が眺望できるはずが・・・霞んで一山もみえませんがな! ( ノ ̄∇ ̄)ノ 桜池
赤いのは金魚の大群 (@_@;) 歴史的町並み・西里解説パネル 西里をテチテチ・・・
西里の風情ある家並み
煙出しがある旧家 法隆寺西大門 法隆寺へテチテチ・・・
我が国最初の世界文化遺産・法隆寺

飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。創建の由来は、寺伝によると「金堂」の東の間に安置される「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平19年:747年)の縁起文によって知る事ができます。それによると、用明天皇が自らの病気平癒を祈って寺と仏像を造る事を誓願されましたが、実現をみないまま崩御されたと伝えます。推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607年)に寺と本尊「薬師如来」を造られたのが法隆寺(斑鳩寺)であると伝えます。現在、法隆寺は塔、金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約18万7千uの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒を連ね、多くの宝物類が伝来しています。国宝、重要文化財に指定されたもの約190件、2,300余点に及んでいます。法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1,400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、平成5年(1993年)12月、ユネスコ世界文化遺産に日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として注目を集めています。

法隆寺南大門〜中門への広大な参道をテチテチ・・・聖徳太子ゆかりの法隆寺 ん?中門前に厩戸皇子(うまやとのみこ)?? (≧Σ≦)プッ 
斑鳩三塔の一・五重塔(国宝:飛鳥期)

ストゥーパとも言われ、釈尊の遺骨を奉安する仏教寺院において最も重要な建物とされています。高さは約31.5m(基壇上より)で、我が国最古の五重塔です。最下層の内陣には、奈良時代初期に造られた塑像群があり、東面は維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅(涅槃)、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されています。

柿食えば・・・日本で最初に世界文化遺産登録された世界最古の木造建築の法隆寺
金堂(国宝:飛鳥期)

法隆寺の本尊を安置する聖なる殿堂で威風堂々とした建物の中には、聖徳太子の為に造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)、その左右には太子の父である用明天皇の為に造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、母である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の為に造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、それを守護するように樟で造られた我が国最古の四天王像(白鳳時代)が、邪鬼の背に静かに立っています。他に木造吉祥天立像、毘沙門天立像(平安時代)の諸像が安置され天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在は再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。

西院伽藍 日本最古の五重塔(国宝:飛鳥期) 金堂(国宝:飛鳥期)
大講堂(国宝:平安期)、回廊(国宝:飛鳥期)

大講堂・・・仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼と共に延長3年(925年)の落雷によって焼失しました。幸い正暦元年(990年)に再建され、同時に本尊・薬師三尊像及び四天王像も作られました。回廊・・・東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵に繋がり、西院伽藍を形造っています。平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていました。西側より東側のほうが一間だけ長くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられています。

正暦元年に再建された大講堂(国宝:平安期) 西院伽藍を形造っている卍の勾欄、深くかぶさった軒、エンタシスの柱の回廊(国宝:飛鳥期)
聖霊院(しょうりょういん 国宝:鎌倉期)

鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚に伴って、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置する為に、東室の南端部を改造したのがこの聖霊院です。内部には3つの厨子があり、中央の厨子には法隆寺のご本尊でもある聖徳太子45歳の像、左の厨子には太子の長子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)や兄弟皇子の殖栗王(えぐりノみこ)の像、右の厨子には太子の兄弟皇子・卒末呂王(そまろのみこ)や高句麗僧・恵慈(えじ)法師の像(いずれも国宝)が祀られ、秘仏として毎年3月22日のお会式(御命日法要)の時にご開帳されます。

聖霊院(国宝:鎌倉期) 妻室 大宝院入口
大宝院

百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)、推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)、蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)を始め、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像、天人の描かれた金堂小壁画など、我が国を代表する宝物類を多数安置しています

大宝院・・・とうとう雨が降り出しました〜 ( ̄▽ ̄;)!! 百済観音堂
雨の法隆寺 ズーム。。。雨に煙る法隆寺 夢殿へ・・・
舎利殿 絵殿大宝院(重要文化財:鎌倉期)、夢殿(国宝:奈良期)

舎利殿 絵殿大宝院・・・建物の東側は舎利殿と呼ばれ、聖徳太子が2才の春に東に向って合掌され、その掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置する建物です。現在では1月1日〜三日間「舎利講」という法要が行われ、御舎利をご開帳(奉出)しています。また、西側には聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められた絵殿があります。夢殿・・・聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都(ぎょうしんそうず)という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739年)に建てた伽藍を上宮王院(じょうぐうおういん:東院伽藍)と言います。中心となる建物が夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置、周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師(どうせんりつし)塑像(平安時代)なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、観音の化身と伝える聖徳太子を供養する為の殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。

絵殿、舎利殿(共に重要文化財:鎌倉期) 夢殿(国宝:奈良期) 礼堂(重要文化財:鎌倉期)
聖徳宗尼門跡寺院 中宮寺

中宮寺は現在の場所から東へ約500m余付近にありましたが、室町時代に現在の夢殿の東側に移りました。太子の斑鳩宮(いかるがのみや)、岡本宮、葦垣宮(あしがきのみや)の中間にあたる事から中宮寺と呼ばれたと伝えます。寺伝によると、聖徳太子の御母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の御願によって、太子の宮居・斑鳩宮を中央に、西の法隆寺と対照的な位置に創建されました。旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っていましたが、先年の発掘調査で南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であった事が確認され、法隆寺旧地・若草伽藍が四天王寺式であるとされます。出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)からのものと同系統のものである事は、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝・弥勒菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)は金堂の本尊で、天寿国曼荼羅は、講堂本尊・薬師如来像の背面に奉安されたと伝えます。室町時代、尊智女王が入寺以来、代々門跡尼が住職となり、その法灯が守られてきました。本堂には、数少い「古典的微笑」(アルカイックスマイル)の典型と評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「三大微笑像」といわれる国宝の木造・菩薩半跏像が安置されています。右足を左膝の上にかけ、左手は右足首に添え、右手は肘を右膝の上について指先で軽く右頬にふれる形で座っている像で、この像の形を半跏思惟の相といい、寺伝では如意輪観音と称するが、元は弥勒菩薩として造立されたと思われています。

中宮寺 法輪寺へ・・・雨が強くなってきました〜 ( ノ ̄∇ ̄)ノ
路辺の地蔵石仏など・・・合掌 片野池 片野池端上の地蔵石仏など・・・合掌
斑鳩のいにしえの道を法輪寺へ・・・ お〜大和ワラシベ軍団の襲来じゃ〜 σ(^◇^;) コスモスが美しい・・・o(>w<)〇゛
法輪寺、斑鳩三塔の一・三重塔

法輪寺・・・斑鳩の里北方にあり、地名によって三井寺(みいでら)ともよばれています。寺伝によると、三井(みい)の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地に移したところから起こったと伝えます。推古30年(622年)、聖徳太子が病気になった折、太子の御子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)がその子・由義王らと共に、太子の病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)と、天智9年(670年)の斑鳩寺焼失後、百済開法師、圓明法師、下氷新物の三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』、『上宮聖徳太子伝補闕記』)があります。昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式である事、規模は法隆寺西伽藍の3分の2である事、出土する鐙瓦、宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似する事が判明しています。薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃には、かなり寺観が整っていたと考えられています。三重塔・・・明治時代に国宝に指定され、明治36年(1903年)には解体修理が行われましたが、昭和19年(1944年)7月21日、雷火にて炎上して焼失しました。井上慶覺師と康世師の住職二代にわたる三重塔再建の発願、勧進は、地元の方々、作家・幸田文を始め、全国の人々の支援によって設計は竹島卓一博士、木工事は宮大工・西岡常一棟梁のもと、昭和50年3月、三重塔は創建当初の様式で竣工し、同年11月、落慶法要が勤修されました。残念ながら、法輪寺の三重塔は昭和の再建のの為に、世界文化遺産には登録されていません。境内には会津八一(美術史家、歌人、書家で早稲田大学教授)の「観音の しろきひたいに やうらくの かげうごかして かぜわたるみゆ」と詠んだ歌碑があります。

法輪寺 境内 三重塔
金堂 妙見堂 会津八一歌碑
地蔵堂・・・合掌 奈良〜室町期?の石仏・・・合掌 奈良西の京斑鳩自転車道案内図
コスモスが咲き乱れて、まっこと美しい! o(>w<)〇゛ 法起寺へ・・・
あ〜ら、Pちゃんズさん、寄ってかな〜い?(;^◇^ゞ 法起寺南大門(表門) 広大で美しいコスモス畑 o(>w<)〇゛ふぉ〜
世界文化遺産・法起寺(ほうきじ、ほっきじ)

別名、岡本尼寺(おかもとにじ)、岡本寺、池後寺(いけじりでら)、池後尼寺(いけじりにじ)とも呼ばれ法隆寺地域の仏教建造物の一部として世界文化遺産に登録されています。寺伝によると推古14年(606年)、聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたと伝え、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つに数えられています。創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘(ろばんめい)によって判明します。それによると、推古30年(622年)2月22日、聖徳太子は薨去に臨み、長子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)に宮殿(岡本宮)を改めて寺とする事を遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したと伝えます。その後、舒明10年(638年)に福亮僧正が聖徳太子の為に、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年(685年)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったと伝えます。この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していた事が明らかとなると 同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったと推測されています。当寺の事は、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見られ、奈良時代には相当栄えていたようですが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に哀微しましたが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されましたが室町時代に再び衰え、江戸初期頃には三重塔のみを残すのみであったと伝えます。その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍とその弟子たちは、延宝6年(1678年)に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄7年(1694年)に講堂を再建、文久3年(1863年)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられています。昭和47年(1972年)には三重塔の解体修理に着手し、50年(1975年)に完成、53年(1978年)には講堂の修理を行い、57年(1982年)に十一面観音菩薩像(重要文化財:10世紀後半頃)を安置する収蔵庫を新設しました。

風情が素晴らしい!!! えぇなぁ〜 (@^▽^@) 西門@法起寺
境内 鐘楼跡 聖天堂
収蔵庫 10世紀後半頃の作・十一面観音菩薩立像 南大門から見た境内
斑鳩三塔の一・三重塔(国宝:飛鳥期)、聖天堂、講堂(本堂)

三重塔・・・現存最古の三重塔で、創建は慶雲3年(708年)です。建立後は、再三にわたる大修理が行われた為、建立当初の形式が明らかでないところもありますが、昭和45年〜50年(1970〜1975年)にかけての解体修理の際、それまでの研究成果を踏まえた復元がなされ、現在に至っています。初重内部は土間で四天柱と八角の心柱を立て、四天柱の上に肘木と斗を組んでいますが、二重以上は骨組がいっぱいに組まれています。初重にある仏壇は近世のもので、法隆寺の五重塔のような須弥山が作られた形跡や古い仏壇の痕跡がないので、当初の状況は明らかではありません。聖天堂・・・定形造で金堂の旧跡に建っています。文久3年(1863年)2月、当寺住僧順光の発願によって建立されたもので、本尊歓喜天像を安置しています。講堂(本堂)・・・寄棟錣葺の建物で、元の講堂跡に建てられています。現在の建物は、元禄7年(1694年)3月に再建されたもので本堂付近には、旧講堂のものと思われる礎石が残っています。

飛鳥時代の建築特徴を現している三重塔 講堂(本堂) 法起寺
遠くの法隆寺五重塔を目指しテチテチ・・・ ズームです。。。 歴史街道ルートマップ
Pちゃんご所望・・・名物・いかるがそば ヽ(゜▽、゜)ノ JR法隆寺駅へ
大和路快速で一気に奈良駅へと思ったら奈良まで各停ですがな?! ( ̄▽ ̄;)!! @JR法隆寺駅 郡山の金魚池
JR奈良駅・・・雨が強く降ってきました。。。( ̄▽ ̄;)!! なははは〜 市民運動で保存決定した旧奈良駅舎
奈良で最古の歴史ある牧場・・・植村牧場

今年で120年余、明治17年(1884年)の創業以来、牛への愛情と皆様への感謝の気持ちを込めて新鮮な牛乳を生産されています。搾りたての牛乳、ソフトクリームなどが売店で賞味できレストランも併設されています。牛舎の乳牛さんや小さな牧場の可愛いポニーさんも見学できます。

般若寺へ Pちゃんが、一番楽しみにしていた奈良で最古、有名な植村牧場 (@^▽^@)
Pちゃん念願の新鮮な牛乳&ソフトクリーム! 牧場にポニーさんがいますが雨でズブ濡れのポニーさん 寒そ〜 ( ̄▽ ̄;)!!
Pちゃん、いらっさ〜い!遊ぼ〜!! (@^▽^@) 牛舎では35頭の乳牛が牧童さんに大切に育てられています・・・ (@^▽^@)
可愛い子牛さん (@^▽^@) わっ!びっくりしたな〜モ〜 (@_@;) 驚かせて すまんモ〜 (≧Σ≦)プッ
般若寺 コスモスが咲き乱れる境内 奈良交通 般若寺バス停
行基菩薩像@近鉄奈良駅 大和西大寺駅

近鉄桃山御陵前駅

Tourist  2006.10.23(M)

 

参考資料  法隆寺畧縁起

法輪寺 拝観案内

法起寺沿革

斑鳩〜奈良アクセスマップ 歴史街道

「奈良を歩こう」 JR西日本

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