稲荷山迷宮案内

 

くる春の しるしもしるる いなり山 霞かくれる 峰の杉むら 荷田東麿

 

伏見を代表する神奈備の山・稲荷山詣(お山めぐり)・・・

 

伏見稲荷大社

京都市における最古社の一で伝承によると、和銅4年(711年)2月の創建と伝えます。「山城風土記」の逸文によれば、秦の中家(なかつけ:本家)の遠祖・秦伊侶具(はたのいろぐ)は奢福のあまり、餅を的に矢を討った時、餅は一羽の白鳥と化して山の頂に飛び去った。その白鳥が留まった所に稲がなったのでイナリという名になりました。これ以来、秦氏の家運が傾くに至り、子孫は、この事を懺悔し社の木を家に植えて祀ったところ再び冨栄えるに至ったと伝えます。稲荷大社背後に聳える稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、神奈備型と言われる円錐形の優美な霊峰として親しまれています。海抜:232mで山頂に一ノ峰(上之社)、二ノ峰(中之社)、三ノ峰(下之社)の三つの峠(峰)からなり神の降臨地として崇められています。古代人は神は白鳥と化して人間に飛び来り、人間は、これを祀る事によって幸福を得ると信じました。これを神話化したのが先記した伝承話ですが、稲荷社を創祀した古代豪族の秦氏との関係を説いたものてす。稲荷は伊奈利とも記し、イナリとは、イネナリ(稲生、稲成、飯成)の約言で祭神が農耕神である事を端的に表しています。神像が稲を荷っているところから稲荷という字が用いられたが、一にミケツノ神、ウガノミタマノ神とも言われるのは、時代の推移によって神の観念の変化を表したもので正しくは、稲荷神です。一説にイナリのイは、イカシ、イカヅチなどのイカの意をもつ接頭語で、ナリは雷の鳴りと読む事で、むしろイナリ神は雷神であるとも言われます。古代人にとって雷神は稲作にあたって水を給与する神として最も崇敬したので稲荷社は当地にあった先住民が雷神を祀って農耕神とし奉斎したのが起こりとされ、後に秦氏の来住によって氏神と崇められるに至ったと伝えます。平安遷都以来、当社は稲荷神の中央的神格になり真言宗と結びつき農民の咒術(じゅじゅつ)宗教的要請と相俟って信仰を広めました。延喜の制には、名神大社に列し四度の官幣並びに祈雨祭の幣に与かり二十二社に班せられ、神階は正一位の極位を賜るなど上下貴賤の信仰を集めました。特に他の多くの神社が一部の特権階級と結びついて勢力を振るい、それと栄枯盛衰を共にしたのに比して今なお、昔と変わりなく多くの人々から信仰を得ているのは、単に商売繁盛、招福除災の神としてのみならず、まったく庶民の神社として広く親しまれてきたからです。

海宝寺(伊達政宗屋敷跡)

豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれました。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えとされ樹齢は約400年と伝わります。今も、桃山正宗という町名や門前の伊達街道など数多く正宗の所縁が残っています。

昨年、1ヶ月間お世話になったK外科医院 海宝寺(伊達政宗屋敷跡) 説明パネル
伊達政宗、手植えの名木・無二の木斛〔もっこく〕と本堂(伏見七福神:布袋/平和の神) 西福寺(伏見七福神:寿老人/健康長寿の神)
即成就院跡(そくじょうずいんあと)

平安時代後期、関白・藤原頼道の子・橘俊綱が桃山丘陵に豪壮な山荘を構えました。俊綱没後、山荘内の持仏堂を伏見寺とし、後に即成就院と称しました。「伏見山寺宮近廻地図大概」には中世にはこの辺り一帯を即成就院村と称し伏見殿、大光明寺、蔵光庵などの寺院が描かれており付近には庶民の家屋も点在していました。伏見山荘は後に白河天皇に寄進され皇室領となりやがて伏見宮家に伝領されこの間にも即成就院も何度か建替えられましたが、応仁の乱で完全に荒廃し文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見山荘跡地辺りに伏見城を築城する事となり当地に移転する事となり明治5年(1872年)迄あった即成就院跡です。現在、即成就院は方安寺と共に泉涌寺(せんにゅうじ)に遷され、その名跡を残しています。即成就院(そくじょうずいん)跡地には那須与一の墓所と称する方墳や与一誕生井と称する古井戸がありますが、これは下野国の那須荘をこの寺領として寄進した事による付会伝説です。

本堂 即成就院跡 伏見義民ゆかりの真宗院(しんじゅいん)
伏見義民ゆかりの真宗(しんじゅ)院、後深草陵

真宗院・・・浄土宗西山深草派・根本山と号し、後深草天皇の発願により宝治年間(1247〜1249年)に円空立信によって建立されました。当時の寺領は後の深草北陵も含み後嵯峨上皇から山門、経蔵などが寄進され後深草天皇が亡くなられると境内の法華堂に納骨され深草北陵(十二帝陵)の始まりとなりました。安政7年(1778年)、伏見義民では文殊九助ら36人が真宗院に集まり将軍(幕府)への直訴が決議されました。裏山の墓地には日本初の人体解剖を行い、その成果を「蔵志」として著した山脇東洋の墓所があります。後深草陵・・・現在、その所を明らかにせず、円空上人廟(真宗院北方)のある丘陵地と伝えます。清和天皇の女御・藤原高子(二条后)の墓所と伝え、仁明天皇陵の後(北方)にあたるので後深草陵と言われます。一説に、「延喜式」巻21(諸陵寮)に記されている陵の兆域から現在の深草鞍ヶ谷山中とされ、今の円空廟の地より更に東の山中にあるのではとも推定されています。

東方薬師如来石像 深草の里山風情 のどかやなぁ〜 (@^▽^@) 山脇東洋の墓、御堂の丘陵(伝・後深草陵)
嘉祥寺(かしょうじ)

嘉祥寺は天台宗の寺院で、本堂に歓喜天、別名は 聖天を祀ることから「深草聖天」とも称され往時は七僧を置き、朝廷の御願を修する寺院であったと伝わり、貞観3年には西の院、清和天皇の御代には嘉祥寺西院でもって貞観寺を建立、その後の光考天皇の頃には五種の塔を建てたと記録が残るほど、南北に500mにも及ぶ境内を有する大きな寺院であったと伝わりますが「応仁の乱」により堂宇は殆どが焼滅し荒廃してしまいました。現在の嘉祥寺は江戸時代の寛文2年(1662年)に、大僧正空心が、安楽行院の再興にあたり、 聖天像を祀る堂宇を建立し、安楽行院嘉祥寺 と号したことに始まります。 境内にある大きな石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔と伝えます。

本堂 嘉祥寺駒札 境内
十二帝供養塔 本堂 瑞光寺(元政庵)
瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

当地は極楽寺の薬師堂跡と伝わり、元政(1623〜68年)は、彦根藩士でしたが出家、詩人として有名になりました。明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号しました。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われています。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものです。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努めらた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は元政の遺志を尊重し、それを辞退したと伝えます。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

瑞光寺(元政庵)山門 茅葺の本堂 日本最古の鉄道遺蹟・ランプ小屋
伏見稲荷大社、楼門(重要文化財:桃山期)

伏見稲荷大社・・・欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦伊侶具(はたのいろぐ)によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊侶具との200年足らずの脈絡については、ほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝わります。楼門(重要文化財:桃山期)・・・天正17年(1589年)、豊臣秀吉の造営とされています。秀吉の母・大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加すると記した「大病平癒の願文」が伝来し神社の楼門規模としては最も大きいものに属します。昭和49年(1974年)12月14日に解体修理されました。

伏見稲荷大社表参道 楼門
本殿(重要文化財:室町期)

応仁2年(1468年)、応仁の乱により、境内の殿舎堂塔の全てが焼亡し、やがて仮殿の復興があったようですが、その後諸国へ勧進が行われ明応8年(1499年)に再建されました。社殿建築としては大型に属し、装飾、特に「懸魚」の金覆輪や「垂木鼻」の飾金具、前拝に付けられた「蟇股:かえるまた」等の意匠に安土桃山時代の気風、豪放にして優華な趣があります。

拝殿 本殿 伏見稲荷大社参拝案内図
命婦社(みょうぶしゃ:白狐社)、上ノ殿(右) 稲荷山参道へ・・・ 以外に知られていない斎場(神苑)
千本鳥居は義経千本桜「鳥居前」の舞台

歌舞伎演目で特に人気の高い「義経千本桜」二段の口「鳥居前」の鳥居とは稲荷大社の千本鳥居を指しています。主役は義経ではなく滅び行く平家の武将達を描いています。義経が静に形見として「初音の鼓」を与えた後、静を助ける佐藤忠信が登場しますが実は狐が忠信に変化していました。狐(忠信)は鼓の皮に使われた狐の子である事を明かし親を慕う子の心を思った義経は狐に初音の鼓を与えました。

千本鳥居 千本鳥居は幻想的、神秘的な朱の世界を醸し出しています・・・
命婦社(みょうぶしゃ:奥の院奉拝所)、おもかる石

命婦社(みょうぶしゃ:奥の院奉拝所)・・・本殿の東方、千本鳥居を抜けたお山への上り口、通称「命婦谷」にあり一に「奥の院」の名で知られます。奥の院奉拝所は、お山を遥拝する所で稲荷山三ケ峰は、この社殿の背後に位置します。参道は左右二本あって、両側に鳥居が林立し、あたかもトンネルの有様で「千本鳥居」と称され稲荷大社の名勝となっています。おもかる石・・・灯篭の前で願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、その時に感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難しとする一種の神占石です。

神石 おもかる石
膝松さん(根上りの松)

枯れた松の根で左右二股になっていて、この木股をくぐると神経痛、腰痛、肩コリなどが治ると言われ奇妙大明神とも言います。

奥社奉拝所(命婦社) 稲荷山案内図(本殿〜四つ辻) 膝松さん(根上りの松)
熊鷹社、新池(谺ケ池:こだまがいけ)

お鳥居、神具店・竹屋前の熊鷹社にある池は新池、谺ケ池(こだまがいけ)との別称があります。行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりが、つかめるという伝承があります。

幻想的やなぁ〜 (@^▽^@) 今年も熊鷹社にお鳥居を奉祀しまつた・・・参拝 ∧(-.-)
新池(谺ケ池:こだまがいけ) 間もなく四つ辻 参道からの眺め・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@)
田中社神蹟(荒神峰)

権太夫大神と崇められています。この神蹟の後方にまわると景観が開けます。ここでは四つ辻で見えなかった京都市内中心部〜以北の絶景を拝む事ができます。

四つ辻からの伏見の絶景 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 荒神峰(田中社神蹟)への急な石段
権太夫大神と崇められている荒神峰(田中社神蹟) 参拝 ∧(-.-) 荒神峰からの眺め・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@)
四つ辻より市内の絶景が拝める荒神峰からの眺め O(^◇^)O ふぉ〜
三ノ峰(下之社神蹟)

白菊大神と崇められています。明治20年代の半ば頃、改修工事がなされたらしく、ここから変形神獣鏡が出土しました。

稲荷大社本殿も見えまつ。。。@荒神峰 周り(反時計周り)でお山めぐりへ・・・ 白菊大神と崇められる三ノ峰(下之社神蹟)
奴祢鳥居(ぬねとりい:間ノ峰(荷田社神蹟)、二ノ峰(中之社神蹟)

奴祢鳥居(ぬねとりい:間ノ峰(荷田社神蹟)・・・伊勢大神と崇められています。神域入り口に建つ石鳥居は、奴祢鳥居(ぬねとりい)と称し、額束の両側に合掌状の破風扠首束(さすつか)をはめた特異な形をしています。二ノ峰(中之社神蹟)・・・青木大神と崇められています。ニ神ニ獣鏡(渡来品)1面、変形四獣鏡(国産品)1面が当時の玉垣より東へ10mの所から出土し京都国立博物館に出陳されています。

鳥居の形が珍しい間ノ峰(荷田社神蹟) 青木大神と崇められている二ノ峰(中之社神蹟)

一ノ峰(上之社神蹟)

稲荷山の最高峰(標高233m)、ここを末広大神と崇める信仰があります。勾玉が出土し石室は海石で石棺らしきものがあると伝えます。稲荷山には幾つかの塚がありますがここでの塚は古墳を意味しています。親塚を建てた以前から続く信仰らしく、神蹟改修を示す親塚裏面に(明治10年6月、燈明講奉納・末広社)という刻字が見出せます。

稲荷山山頂に鎮座する一ノ峰(上之社神蹟) 説明パネル 一ノ峰は、末広大神と崇められています。
稲荷参道から外れて稲荷山三等三角点へ・・・ 白滝(白蛇)社神蹟
三角点への山道 稲荷山では珍しい地蔵石仏 稲荷社神蹟
将軍菩薩 稲荷山三等三角点(標高:239.3m)に着きました。ここは西野山で山科区です・・・
稲荷参道へ・・・ 稲荷参道合流地点
200段の石段

清少納言が、枕草子で大変に苦しい思いをしたと書いている急勾配な石段で釼石(長者社神蹟)〜一ノ峰(上之社神蹟)迄を一気に約200段の石段を登りますが、今回は、逆に一気に下ります。(^∀^ヾへへ ※知っとく情報!お山は右回り(反時計回り)で巡拝された方が楽に巡れます。(^-^)v

清少納言が「枕草子」に苦しい思いをしたと記した200段の石段 ( ̄▽ ̄;)!! 御釼社(長者社神蹟)
御釼社(長者社神蹟)

謡曲「小鍛治」の舞台とされ三条小鍛冶宗近が勅命を受け御剣を打つが、その努力精進が神に通じ稲荷明神が狐の化身となって現れ、宗近の相い打ちをつとめ見事な宝剣を完成させるという話で、その時の名剣を鍛えるのに用いたのが、御身体の岩だと伝えられる。力鍛冶、刃物業者の信仰が篤い社です。この社は、狛犬で狐ではありません。一対の狛犬は、石造で文久3年(1863年)とあり山中現存の石造で最古と言われています。別名を長者社と言い加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祭神とします。神殿の後に大きな岩石があり、この岩(釼石)がご神体です。

謡曲「小鍛治」の舞台とされる御釼社(長者社)と社殿の裏上に鎮座する釼石(長者社神蹟) おせき社、薬力社
大石良雄(内蔵助)が山科の隠棲宅から伏見撞木町の遊郭「よろずや」へ通った山道と伝えます・・・くらちゃん、お達者のようで。。。(^∀^ヾ
稲荷山から大石良雄(内蔵助)隠棲の旧跡へ山道を下山・・・急坂でスリップ厳禁!更に帰りは上る予定なので憂鬱?! ( ̄▽ ̄;)!!
大石之滝通過・・・ 山科の町並みが見えてきました。。。 大石神社を目指して新幹線を通過?! ( ̄ω ̄;)!
ん?新幹線??新大石道を北上して五条通り(R1号線)に到達!これって道間違ってますがな!!ゲゲッ!!!北上じゃなくて南下せなあきません!!!! ( ノ ̄∇ ̄)ノワオォ〜
急ぎ新大石道を南下してようやく新十条トンネル工事現場を通過。。。 どうにか・・・大石神社に到着! ( ̄▽ ̄;)!!
大石神社

昭和10年(1935年)、浪曲家・吉田大和之烝(奈良丸)の特志によって大石良雄(内蔵助:くらのすけ)を祭神として建立された神社(旧府社)で本殿以下、拝殿、神饌所、社務所、宝物殿には、大石始め赤穂義士ゆかりの品が所蔵されており、映画・忠臣蔵に出演した木村拓也など俳優の写真やポスターなども展示されています。天野屋利兵衛を祀った義人社もあります。

境内 駒札 本殿
大石良雄(よしお:内蔵助(くらのすけ)

元禄15年(1703年)12月14日未明、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の無念をはらそうと、家老・大石良雄(よしお:内蔵助(くらのすけ)ら赤穂義士47人は討入りを果たしました。忠臣蔵で世に知られる大石良雄は、討入りまでの一年有余、山科の地に住居を構えました。山科には、大石良雄旧居跡や義士の遺髪を供養している瑞光院(ずいこういん)など赤穂義士ゆかりの史跡が伝わり、山科では毎年12月14日に山科義士祭が開催されます。

参拝 ∧(-.-) 大石良雄(よしお:内蔵助(くらのすけ) 忠臣蔵を物語る絵パネル
大石が隠棲していた山科の里・岩屋寺へ・・・ 大石良雄の遺髪塚(大石良雄旧跡) 岩屋寺
岩屋寺(大石寺)

一に大石寺とも言われ神遊山と号する曹洞宗の寺です。創建年代を明らかにしませんが、山科神社の神宮寺として建立されたと推察されています。中古久しく荒廃していましたが、明暦元年(1655年)に再興され寛永年間、浅野家の縁戚にあたる浅野長祚(ながい:京都町奉行)の助力によって堂宇を修営したと伝えます。赤穂浪士・大石良雄の隠棲地とて知られ本堂には大石の念持仏と伝える不動明王を本尊とし木像堂には浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)を始め47士像を安置し境内には大石良雄の遺髪塚(大石良雄旧跡)があります。

駒札 大石自作の弁財天が祀られる弁財天社 本堂
桜の見頃時は、さぞ美しかろう・・・ 大石良雄旧跡碑 再び稲荷山へ・・・
大石之滝・・・残念ながら荒廃しています! ( ̄▽ ̄;)!! 急坂でつ。。。 ( ̄▽ ̄;)!!
大石内蔵助が、この山道を伏見撞木町の遊郭「よろずや」へ通ったと伝えますが・・・結構、きつい上り坂やなぁ〜 ( ̄▽ ̄;)!!
おせき社

風邪、咳にご利益があると言われ葉書にしたためた祈願文が山積みになっています。セキは関所を意味し山頂の一の峰と山科に通じる山道の分岐点にある所から「お関稲荷」と言われたのが関を風邪、咳に附会した信仰になりました。

上り坂のピーク 約20分で稲荷社参道に合流。。。 おせき社
薬力社(薬力の滝)

薬の世話にならずに健康に生活をできる事(無病息災)を祈願する社で薬力の滝は稲荷山で一番奥の行場でここからの流は、清明滝の下流で御膳谷からの流と合流し清滝となり、白滝からの流を合流し御壺滝、五社滝となり最後に東福寺通天橋の下を流れる三の橋川となります。

力の滝、薬力社 四つ辻へ・・・

御膳谷奉拝所

御前谷とも記され、稲荷山三ヶ峰の北背後にあたり、往古はここに神饗殿(みあえどの)と御竈殿(みかまどの)があって三ヶ峰に、神供をした所と伝えます。

御膳谷奉拝所 駒札 御膳谷奉拝所

眼力社

眼科信仰があり眼の病気の完治など眼科にご利益があると言われている社です。狐の口から出ている水に人気があります。ちなみにこの水は、湧き水をパイプで通水しているそうです。

眼力社 お山めぐりで人気のある狐の手水 大杉社
四つ辻 四つ辻からの眺め O(^◇^)O ふぉ〜
お産婆稲荷

昔、狐がここでよくお産をしたといわれ狐は稲荷神の神使いとされお産も大変に軽く狐の安産にあやかるべく安産を願う者は、社前の燃え残りのローソクを持ち帰ると陣痛がローソクの短さで済むと言われます。

鳥居から見える眺め・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@) 安産を祈願するお産場稲荷
大八嶋社

元々、山上の田中社神蹟(荒神峰)にあったものを、中世になってここへ移したと伝えます。社殿が無く大八嶋大神石碑があるだけです。

かっては灌漑池だった八嶋池 社殿がない大八嶋社 下山しまつた・・・
境内 キララちゃん、長らく待たせてすまんの〜 (;^_^ゞ
伏見稲荷大社神幸道(裏参道)

おみくじ煎餅、きつね煎餅を発祥の店でゲット!

ポテト、芋かりんともゲット! (@^▽^@)

Tourist  2007.01.22(M)

 

今迄の稲荷山探訪の集大成としてマニアックな稲荷山詣(お山めぐり)を敢行しました。お山めぐりルートから外れて稲荷山三角点を探訪し、おせき社、薬力社にある大石良雄(内蔵助:くらのすけ)が伏見撞木町にあった遊郭「よろずや」へ通ったと伝える山道で山科の大石が隠棲していた旧跡、大石神社も探訪しましたが、山科へ下山してから何故か?新大石道を北進してしまい、新幹線を越えて五条通り(R1号線)に出てしまいました・・・(>_<) すぐに今来た、新大石道を南進する事約20分、無事に大石神社を参拝し、続いて岩屋寺(大石寺)へ・・・その後、再び下山した山道の急坂を上っておせき社、薬力社へ戻り、お山めぐりをして下山しました。 今回のお山めぐり(稲荷山)〜稲荷山三角点〜おせき社、薬力社〜大石隠棲の旧跡〜お山めぐり(稲荷山)のルートは、幽邃で神秘的な稲荷山を体験できますが、お山めぐりルートを外れると出会う人もなく、特に山科側〜おせき社、薬力社の上りは中々の急坂で、倒木など荒れ道なのであまりオススメできませんが、ウォーキングしてみたいなと思われる方は、スリップなどにも十分注意してウォーキングしてください・・・<m(_ _)m>

 

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