五里五里のふるさと・城陽チャリ探訪

 

山背の 久世の鷺坂 神代より 春は萌りつつ 秋は散りけり (万葉集) 柿本人麻呂

 

与杼(淀)神社〜室城(むろき)神社〜流れ橋(上津屋橋)〜花の小径〜大蓮寺〜荒見神社〜水度(みと)神社〜久世神社〜平井神社

 

五里五里の故里(ふるさと)・・・城陽市

城陽市は、京都から五里(20km)、奈良から五里に位置し、五里五里の里と呼ばれ、古い歴史の物語る古墳や史跡、社寺、特産物や産業等が南山城地域の特色を見せています。豊かな水と温暖な気候に恵まれた街です。豊富な地下水を利用したハナショウブ、カキツバタ、カラーなどの栽培、良質な地下水は、まろやかな味で魅了する地酒を生み出しています。京都府一の面積を誇る梅林、栗より上手いと言われる寺田イモ、木津川の浜で栽培される茶は碾茶(てんちゃ:抹茶)に加工され全国へ。全国一の生産量を誇る金銀糸やイチジクなどが特産品です。

伏見百景の酒蔵@東高瀬川 アザミと、おけいはん特急@東高瀬川 東高瀬川、宇治川合流地点
第2京阪国道@宇治川右岸堤防道 R1号線@宇治川右岸堤防 疾走するおけいはん特急
千両松慰霊碑(新撰組隊士の幽霊伝説)、淀小橋旧跡

千両松慰霊碑(戊辰役東軍戦死者:新撰組隊士ら)埋骨地・・・慶応4年(1868年)1月5日、土方歳三率いる新撰組ら東軍(幕府軍)と鳥羽方面から攻めてくる西軍(薩長軍)で淀堤上は大激戦となった。最初は、新撰組などの活躍で優勢だったが、砲兵隊や騎兵隊などの援軍で西軍が、盛り返し東軍は、敗退。同盟であった淀城への入城も拒まれた為に淀堤の戦いで東軍は、戦死者が続出。新撰組幹部・井上源三郎、戦死。副長助勤・山崎烝も重傷を負った。(慶応4年(1868年)1月10日、幕府軍々艦・富士山丸で江戸へ向かう途中、死去し和歌山沖で水葬。)・・・千両松には、激戦で戦死した新撰組隊士と幕臣の慰霊碑が、建てられていました。が、競馬場拡張工事の為に小さな碑が削られました。それから事故が多発し毎晩、誠の旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元に戻せ!」と現れた・・・工事関係者は、慰霊碑の管理寺・妙教寺に依頼し盛大に供養を行いました。そして工事終了後、元の場所に碑を戻し墓を整備した。以来、幽霊は出没しなくなったと伝えます。・・・当時、西軍の戦死者は、手厚く埋葬されたが東軍の戦死者は、野ざらし状態だったとか。地元のお寺や村人達が、鳥羽伏見の戦いで廃墟と化した住居の廃材などで東軍の戦死者達を火葬し手厚く埋葬したとも伝えます。下鳥羽、淀界隈の寺院などに慰霊碑、塚、墓、埋骨地、記録文書などが多数ある由縁です。淀小橋旧跡・・・昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だった事から「千両松」と呼ばれました。千両松の激戦で敗れた幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。

JRA淀競馬場 千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 豊臣秀吉の時代に架けられた淀小橋旧跡
与杼(淀)神社

豊玉姫命・高皇産霊(たかみむすび)神・速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年〜63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。

淀本町商店街 与杼(淀)神社 境内
淀城

享保8年(1723年)5月、春日の局(かすがのつぼね:徳川3代将軍・家光の乳母、大奥総取締役)の子孫である稲葉丹後守正知が城主となって〜明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。天正17年(1589年)、豊臣秀吉は、側室・茶々(淀殿)の産所として弟・豊臣秀長の淀城を修築させました。4ヶ月後に長男・鶴丸を出産したが、鶴丸は3歳で病死しました。文禄4年(1595年)、秀吉は淀城を廃して築城中の伏見城へ建物を移し元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は、伏見城を廃城とし松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まった時、淀城主・稲葉正邦は板倉勝静と共に老中職で、淀城は幕府軍の重要拠点の一つでした。この時、正邦は江戸にあり城の留守は家老・田辺権太夫が守っていました。1月5日、富ノ森、千両松の戦いで敗走した幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は体勢を立て直すべく淀城に入ろうとしましたが、家老は薩長軍の要請を受け幕府軍に対して門を閉ざし彼らを城内に入れませんでした。幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は仕方なく淀小橋、淀大橋を焼き払い橋本へ敗走します。藤堂藩、淀藩の背信が鳥羽伏見の戦敗を決定づけた一要因とされる所以です。淀城は薩長軍に開城しますが、家老・田辺権田夫は幕府軍兵数人が城内に入った責任を取って弟と共に切腹しました。淀君ゆかりの淀城は、この淀城跡公園から北東へ約500m行った妙教寺辺りで淀古城と言われます。

本殿 淀城跡石垣
淀城の三等三角点(点名:淀城標高:17.53m) 淀城跡碑
京阪・淀駅 京街道(大坂街道)を淀大橋へ 淀大橋
久御山町役場 木津川堤防へ 室城神社
室城(むろき)神社

素盞嗚命(すさのおのみこと)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)など三神を祀る下津屋の産土神です。寛永7年(1630年)、木津川の洪水に遭って社殿、社記と共に流出し詳細は明らかでありません。「神社覈録(かくろく)」によると室城とは室樹の事を言い当社は、この地区を開拓した豪族・榎室連(えむろのむらじ)の祖を祀った神社であると思われます。榎室連とは水主(みぬし:みずし)氏と共に天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖とし、この地方の開発に努めた古代豪族の一です。かって、聖徳太子が山城国へ巡行の時、久世郡水主郷の水主古麻呂の家に立ち寄られ、門前の大きな榎樹が室の如く生い茂っているのを見て「これでおそらく雨も漏るまい」と感嘆され榎室連(えむろのむらじ)という姓を賜ったと伝えます。「延喜式」に記す「久世郡室城神社」は当社と言われるが、一説に久津川(城陽市)の平井神社、又は宇治白川の白山神社とも言われ不詳です。境内には本殿以下拝殿、末社(住吉社)がありますが何れも近年の再建です。

境内 本殿 第2京阪国道@木津川右岸堤防
流れ橋(上津屋橋)

木津川に架かる全長356m、幅3mの日本最長級の木造橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成16年(2004年)9月20日までに増水で16回の被災(流失)しました。

時代劇でも知られる木津川に架かる全長356m、幅3mの日本最長級の木造橋・流れ橋(上津屋橋:こうづやばし)
折角なので流れ橋(上津屋橋:こうづやばし)を久御山側から八幡側へ一往復 (; ̄ー ̄A えぇなぁ〜 (@^▽^@)
木津川の流れを見ながら木津川右岸堤防をチャリチャリ・・・しかし、暑うぅ〜 (; ̄ー ̄A
淀姫さんの祠(ほこら)

生レ口(うまれぐち)樋門の近くに旧生レ口樋門跡記念碑と共に奈島地域の水難除けとして大切に祀られているのが「淀姫さんの祠」です。

近鉄京都線木津川鉄橋 旧生レ口樋門跡記念碑、淀姫さんの祠(右) カキツバタの群生
見事に咲くカキツバタ えぇなぁ〜 (@^▽^@)・・・「いずれがアヤメか?カキツバタ??」 ハナショウブ、カキツバタ、アヤメの見分けは難しい?!
ビニールハウスで育成されているハナショウブ 花の小径(こみち) えぇなぁ〜 (@^▽^@)
見事に咲いているカキツバタ (@^▽^@) ハナショウブ、アヤメ、カキツバタはアヤメ科、アヤメ属、漢字で書けば花菖蒲、菖蒲(アヤメ) (>_<)
カキツバタの他にも美しく咲く撫子(ナデシコ)、カレンジェラ(金盞花の原種)?などの花々 今もご利益がある「雨乞い地蔵さん」
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
キララとカキツバタ (@^0^@) えぇなぁ〜 (@^▽^@)
豊富な地下水を利用したカラーの栽培 (@^0^@)
大蓮寺・・・甘藷(サツマイモ)元祖の地

故あって琉球鬼界ヶ島に流され享保元年(1716年)に赦免され帰国に際し密に甘藷(サツマイモ)の苗を持ち帰り青木昆陽より十数年も早く寺田の地で栽培に成功したと伝えられる島利兵衛の墓所があり墓石はサツマイモを模っています。この辺りは寺田イモの産地として名をはせました。

大蓮寺 解説 甘藷翁利兵衛墓所(甘藷元祖の碑)
本堂 古い町風情を醸しだす山背(やましろ)古道 旧長池郵便局舎
長池の駅碑 荒見神社 解説
荒見神社

平安中期に編されて「延喜式」神名帳に記されている名社です。本殿は慶長9年(1604年)の再建で三間流造、檜皮葺き、丹塗りの美しい神殿で桃山時代の建築様式を伝え重要文化財に指定されています。

境内 出ました!大吉っ!!!o(^-'o)♪☆(o^-^)o〜♪ 本殿(重要文化財:桃山期)
夜叉婆さん伝説の地・・・「夜叉と寺田庄司の伝説」

むかし、寺田に寺田庄司とよぶ人があった。その娘は幾度も結婚したが不幸にも不縁ばかりであったので、ついに尼僧となり観音寺の観音菩薩に仕えて一生を終わった。世人は、この女性を「夜叉」とあだ名をしたという。夜叉とはインドの鬼神で顔かたちがきわめて悪く、しかも猛悪な神とされ仏教では毘沙門天の拳属とされている。この女性が夜叉神のような醜怪な顔であったかは定かでないが彼女の死後、観音堂の前を嫁入りの行列が通ると崇るといい、そこを避けて通ると伝えられる。この夜叉の石塔は、明治13年(1880年)まで寺田の観音寺の東南の隅にあったが、この年、明治天皇が大和畝傍御陵へ参詣されるにあたり、旧奈良街道の整備が行われ、当時無住となっていた観音寺が撤去され夜叉の石搭も移転したと伝えます。(中島敏景氏談)城陽町史より

R24号線をチャリチャリ。。。暑うぅ〜"A^^; 一の鳥居(水度神社) 夜叉婆さんのムクノキ(夜叉婆さん伝説の地)
解説 玉池(夜叉婆さん伝説の地) 新緑が爽やかな参道(水度神社)
水度(みと)神社

旧奈良街道から神社へ至る約600mの参道は昔ながらの見事な松並木道になっています。祭神は、天照国照天火明命(あまてるくにてるあめのほのあかりのみこと)、高皇産霊神(たかみむすび)、和多都美(わだつみ)神を祀り農耕、水防の神とされます。創祀年代は不詳ですが貞観元年(859年)には従五位下の神位を授けられ延喜の制には小社となっているのでその古さが偲ばれます。平安初期の文献にも記され本殿は文安5年(1448年)の建築で一間社流造、檜皮葺きで正面に千鳥破風を付け側面を二間にした変化に富んだ本殿です。

参道途中にある踏み切り(JR奈良線) 二の鳥居(水度神社) キララを担ぎいで上がる参道の石段 (^_^;
境内 本殿(重文:室町期) 鴻ノ巣山への散策路(山背古道) p(^^)q
展望台からの眺望・・・眼下に山城盆地、木津川、遠くは六甲山、生駒山、愛宕山、比叡山などが一望 えぇなぁ〜 \(^○^)/
鴻ノ巣山々頂展望台(117,9m) 桜見ヶ丘へ 桜見ヶ丘
花しょうぶ池へ 花しょうぶ池・・・咲いてません! (×_×;) 水度神社へ下山開始! p(^^)q
史跡・正道官衙(しょうどうかんが)遺蹟

奈良時代の久世郡衙(ぐんが:役所)跡と推定され小さな古墳、竪穴式住居などが見つかった複合遺蹟で遺蹟公園として遺構の一部が復元されています。

水度神社へ下山完了!!! (^。^) 正道官衙(しょうどうかんが)遺蹟
正道官衙(しょうどうかんが)遺蹟 久世神社 参道途中をJR奈良線の電車が通過・・・
久世神社(久世廃寺跡)、久世鷺(さぎ)坂旧跡

久世神社(久世廃寺跡)・・・旧久世村の産土神で創祀年代は不詳ですが日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とし本殿は室町末期に建築されました。一間社流造、檜皮葺きで笹竜胆の唐草模様の透かし彫りは見事です。近年、神社境内背後地より奈良時代後期の平瓦や鉄釘を発掘し早くから当地に寺院が建立されていた事が実証されました。久世鷺(さぎ)坂旧跡・・・鷺坂は旧奈良街道にあたり坂の中程に久世鷺坂旧跡碑があります。「万葉集」巻九雑歌に「鷺坂にして作れる歌」と題して詠まれるなど古来、和歌の名所とされ源氏物語に出てくる玉鬘(たまかずら)も通ったとされます。

境内 拝殿、本殿(重文:室町期) 久世鷺坂跡碑
平川廃寺

奈良時代に建立された寺で西に塔、東に金堂のある法隆寺式の伽藍配置をとっていました。寺域は東西約172m、南北約115mと推定されます。

平川廃寺 解説
平川廃寺碑 近鉄・久津川駅 平井神社
平井神社

素戔鳴命(すさのうのみこと)、八十猛命(やそたけるのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の三神を祭神とします。本殿は一間流造で象鼻を彫刻した海老紅梁で身社と向拝をつなぎ中央に蟇股が置かれ桃山時代の意匠を伝えます。江戸時代は平川村の産土神で牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)という社名でした。平井神社境内脇に真言宗の蓮開寺があり、創建年代は不詳ですが享保18年(1733年)には存在し宮寺とも言われていました平川村の祈祷所で当寺の僧侶が神社の管理人的な役割も果していた神仏習合が一般的でした。明治の神仏分離令により全国の宮寺は廃止され僧侶も不在となりましたが、平川では地区全体で蓮開寺を守り続けています。又、蜻蛉日記に登場する「久世の三宅」だとも伝わります。三宅とは穀物を収めた倉庫の事で作者の道綱の母は日暮れになったので此処で夜明けを待ったと記されています。

割拝殿 本殿(京都府登録文化財:桃山期) 蓮開寺
解説 すげぇ〜 (@@;) 空高く舞い上がる連凧 ヽ(*^^*)ノ @木津川右岸堤防
男山、天王山 田園風景 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 第2京阪国道側道を快走ing・・・(^-^;
久御山JCT 第2京阪国道側道を快走ing・・・O(^◇^)O
第2京阪国道京都南大橋(宇治川) アイスクリームなど大量にゲット! (^▽^;)

Tourist  2007.05.14(M)

 

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