上醍醐チャリテチ探訪

 

しきみつむ 山の往来 道かへて 春は桜の 花やたづねん (続門集)法眼顕恵

 

大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)陵六地蔵尊(大善寺)醍醐寺〜上醍醐〜太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡〜善願寺(腹帯地蔵尊)

 

世界文化遺産・醍醐寺

醍醐山全体、広大な境内を有する真言宗醍醐寺派の本山です。創建は、貞観年間(859〜877年)、理源大師が世俗を離れ真の仏を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立した事に始まり醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山麓の下醍醐に分かれています。五重塔は、天暦5年(951年)に完成した京都府内で最古の建造物です。五重塔以外の建物は、応仁の乱により殆どが焼失し、豊臣、徳川両家によって、現在の伽藍に整備されました。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が豪華な花見の宴を開催しました。上醍醐、下醍醐合わせて8万坪の境内には、約2000本の桜があり、毎年4月の第2日曜日に太開花見行列が行われます。

大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)陵・・・徳川家康が創立した伏見学校(円光寺)跡愚庵旧栖宅跡

大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)陵・・・室町時代初期、この辺りに北朝の御願寺として七堂伽藍を完備した大光明寺がありました。文和年間(1352〜55年)、後伏見天皇の皇后・広義門院藤原寧子(やすこ)の発願で夢窓疎石(むそうそせき)を開山し建立された臨済宗の寺であったが応永8年(1401年)、失火で消失しました。伏見城築城時に相国寺に移転し現在は、光明天皇、崇光天皇の陵墓と崇光天皇の孫の治仁(はるひと)親王の陵が東西に並んでいます。この辺りは、徳川家康が慶長6年(1602年)、指月の丘(土俗月光)に「伏見学校(円光寺)」を創立。伏見学校(円光寺)があったとされる月橋禅院の後丘辺りで大光明寺御陵参道〜東北(参道横)辺り。円光寺は、寛文7年(1667年)に一乗寺に移りました。愚庵旧栖宅跡・・・明治時代の優れた万葉調の歌人で本名は、天田五郎といい、安政元年(1854年)、福島県生まれ。戊辰戦争で一家離散し父母を求め全国を20余年放浪した。山岡鉄舟との縁で一時、清水次郎長の養子になりましたが、明治17年(1884年)、次郎長が入獄した時に、次郎長の潔白を明かす為に「東海遊侠伝・一名次郎長物語」を書きました。これが次郎長を世に知らせる事となりましたが、次郎長の元を去り明治20年(1887年)、一乗寺村の林丘寺で出家、鉄眼と称しました。

大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)陵・・・徳川家康が創立した伏見学校(円光寺)跡 愚庵旧栖宅跡

三夜荘跡、六地蔵尊(大善寺)

三夜荘跡・・・明治初年頃、信徒の寄進により大谷光尊上人が建てた真宗西本願寺派の別荘。元は、伏見城の月見台のあった所と云われ、秀吉は、ここからの月の美を「一輪は山、一輪は水、一輪は杯中にあり一夜にして三夜の勝を兼ねている。」と賞賛した所以から三夜荘と名付けられたと伝わるが、一説に本多三弥の屋敷跡からとも伝える。六地蔵尊(大善寺)・・・地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたと伝えます。

三夜荘跡(伏見城月見台跡) 六地蔵尊(大善寺) 地蔵堂、観音堂
本堂 小栗栖、醍醐一言寺道標石 山科川沿いの遊歩道を醍醐山へチャリチャリ

醍醐寺、唐門(勅使門 国宝:桃山期)

醍醐寺・・・真言宗を学んだ理源大師が山中で修行を積もうと、貞観16年(874年)、笠取山々上に草庵を建てた事に始まり山岳信仰の拠点となり薬師堂・五大堂などが次々と建ち、上醍醐が形成されました。延喜7年(907年)、醍醐天皇の帰依によって朝廷の保護を受ける御願寺(ごがんじ)となり、朱雀・村上天皇の帰依により発展を遂げ、山麓にも伽藍を広げ金堂(こんどう)の前身となる釈迦堂が延長4年(926年)、五重塔が天暦5年(951年)に落成し醍醐寺は、山の上(上醍醐)と下(下醍醐)に伽藍を連ねる大寺院となりました。唐門(勅使門 国宝:桃山期)・・・門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門が唐門(勅使門)です。大胆な意匠は、桃山時代の気風を今に伝え、庭園全体を眺めることのできる表書院(おもてしょいん)と共に国宝です。

醍醐寺西総門 西総門〜仁王門への参道 唐門(勅使門 国宝:桃山期)

仁王門(重要文化財:桃山期)

仁王門(西大門)と金剛力士像は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により再建されました。重要文化財(桃山期)です。

仁王門(西大門 重要文化財:桃山期) 上醍醐登山道口 水掛不動尊

女人堂と水掛不動尊(上醍醐登山道口)、花見山(太閤秀吉の醍醐の花見)

女人堂と水掛不動尊・・・上醍醐の登り口に女人堂があります。「女人禁制」であった頃は女性が入れるのはここ迄で、ここから上醍醐寺に向かって参拝しました。その前に水掛不動尊(手水場:左から不動明王、聖宝理源大師:醍醐寺開山、弥勒菩薩、役行者(えきのぎょうじゃ)神変大菩薩:修験道開祖、地蔵菩薩)がありその傍に「御千度石」と刻まれた小さな石碑があり、この石碑と女人堂の間を千回往復すると、山上の上醍醐寺に参拝した事になり功徳を得られたと伝えます花見山(太閤秀吉の醍醐の花見)・・・上醍醐に至る途中にあり檜山とも呼ばれ頂上の平坦地を千畳敷と呼び慶長3年(1598年)3月、豊臣秀吉が花見の宴を行った所で桜木は花見宴の為に秀吉が近隣諸国の近江、山城、河内、大和から取り寄せた桜約700本を植え林間に亭を設け数奇屋を建て一代の栄華を誇ったと伝わり当日用いた百雙(ひゃくそう)屏風などが醍醐寺に残されており当時の花見宴の豪華さが偲ばれます。

女人堂 上醍醐(西国11番札所)登り口 太閤秀吉が「醍醐の花見」を催した花見山
解説 上醍醐への急な山道をテチテチ。。。(^O^; 暑うぅ〜
道中の中間地点にある不動の滝・・ 霊木・桐生の杉
紐ちゃんと遭遇!分かるかな? ( ̄▽ ̄;)!! 急な山道をテチテチ。。。(^O^; 暑うぅ〜 不動明王

町石卒都婆(ちょういしそとば:鎌倉期)と丁標石(ちょうしるべいし)

平安末期以降、多くの参詣者の道案内の為に一町の距離間隔で建立されされたのが町石卒都婆で石表面には梵字と相当する金剛界の諸尊名が刻まれています。又、丁標石は一丁(約100m)間隔で建立され、上醍醐寺入り口迄、19の丁標石がありましたので約2kmの道程となります。これらの石卒塔婆を「町丁石卒塔婆」と言います。当山の町丁石卒塔婆は鎌倉時代に建立されました。さすがに上部の笠石が破損しているものが多かったです。

山道から見える上醍醐(左:如意輪堂、右:開山堂) 町丁石卒都婆(右)と十九丁標石

醍醐水

聖宝理源大師が紫雲に導かれて笠取山(俗に醍醐山)に登り、「醍醐味なるかな」の法水に出会ったと伝えます・・・今も「醍醐水閼伽井」に湧く「醍醐水」の醍醐味とは乳酪蘇中の微妙なるチーズ風味とも云われます。仏教では教えが深まった状態にも例えられ長い時をかけて心澄し到達する悟りの究極点が醍醐味と言われる。

霊泉・醍醐水・・・残念ながら10月以降まで調整中の為、飲めませんでした! (>_<) 解説

清瀧(せいりょう)宮 (国宝:室町期)

清瀧宮拝殿は醍醐寺の鎮守社として寛治2年(1088年)に創建されたが、応永17年(1410年)に焼失し永享6年(1434年)に再建された懸造(かけづくり)の宮殿風建物で国宝に指定されています。本殿は昭和32年(1957年)に再建されました。

清瀧宮拝殿(国宝:室町期) 解説

准胝(じゅんてい)観音堂

西国第十一番札所で本尊の秘仏とされる准胝観音像が安置されている。この准胝観音像は聖宝理源大師が醍醐水の傍に立っている柏の木で2体の観音像を刻み准胝堂と如意輪堂に安置したと伝えられ、求児や安産の霊尊としての信仰が篤く、醍醐天皇は皇后・隠子(おんし)に皇子がなく祈願した所たちまちに後の朱雀、村上天皇が生まれたと伝えます。

清瀧宮本殿 横尾大明神 准胝(じゅんてい)観音堂

薬師堂(国宝:藤原期)

延喜7年(907年)の建立し保安2年(1121年)に再建され国宝に指定されています本尊の「薬師如来坐像」及び「両脇侍像」が祀られていたが、2000年秋に、保管などの理由から下醍醐寺霊宝館に移されました。「薬師如来坐像」、「両脇侍像」は理源大師が延喜7年(907年)に弟子に造らせたと伝わり国宝に指定されています。

解説 理源大師像が安置される薬師堂(国宝) 解説

五大堂

延喜7年(907年)、醍醐天皇の勅願により朝敵降伏祈願の為に建立され「平の将門の乱」に際し調伏修法を行った時に不動明王の瞼頭に血が現れたと伝わります。後、何回かの火災に遭いその度に再建を繰り返したといわれ、現在の建物は昭和7年(1932年)に焼失し昭和13年(1938年)に再建されたものです。五大堂前には醍醐寺1世主観賢僧正像、醍醐寺開山理源大師像、役の行者神変大菩薩像があります。堂内には木造の五大明王像(不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が祀られ重要文化財に指定されています。

五大堂 主観賢僧正、理源大師、役の行者大菩薩像 如意輪堂(重要文化財:桃山期)

如意輪堂(重要文化財:桃山期)

慶長11年(1606年)に建てられた舞台造りの建築物で五間三間、単層、屋根は入母屋造、こけら葺きで懸崖造りとなっており、堂内には如意輪観音像が安置されています。

如意輪堂(重要文化財:桃山期) 解説 宇治、山城方面俯瞰 霞んでますがな!`s(・'・;) 
醍醐山々頂、醍醐山三角点(450m) 白山大権現

開山堂(重要文化財:桃山)、上醍醐陵

開山堂・・・醍醐寺の開山、聖宝・理源大師を奉安したお堂である。最初は御影堂(みえどう)といい、延喜11年(911年)、理源大師の弟子、醍醐寺第一世、観賢座主によって建立されたが、後に焼失し鎌倉時代に再建されたものの荒廃し失われ現在のお堂は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼によって再建されたものである。建物は雄大な桃山時代の特徴をよく表わしており、山上最大のお堂で堂内には、中央に開山聖宝理源大師像、左に弘法大師像、右に醍醐寺第一世座主・観賢僧正像が安置されています上醍醐陵・・・白河天皇皇女媞 子(ていし)、令子内親王と生母・藤原賢子(白河帝中宮)を葬送した場所で元々上醍醐の子院・円光院があったが明治の修陵にあたり寺は撤去され御陵は南面する小円墳です。

開山堂(重要文化財:桃山期) 解説 上醍醐陵
下山開始。。。(^O^; 暑うぅ〜 音羽大王神 霊木・桐生の杉
僧侶に教えて頂いた湧き水(自己責任で) 不動の滝 花見山(檜山々頂:千畳敷)
女人堂 水掛不動尊の水で汗を拭って お待ち〜 キララちゃん、さぁ急いで帰ろう〜!

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡、善願寺(腹帯地蔵尊)

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡・・・太田垣蓮月は、本名を誠といい、夫・子供・養父に先立たれ、33歳で出家し蓮月尼と称した。孤独を求めて岡崎、西賀茂等転々と住まいを移りましたが、ここもその一つで歌を詠み陶器を焼いて静かに余生を送ったと伝えます善願寺(腹帯地蔵尊)・・・近江国・坂本の聖衆来迎寺(地蔵教院)の末寺として創建。長保年間(999〜1003年)、恵心僧都源心を招き当地で再興されました。地蔵菩薩坐像(腹帯地蔵)は、重要文化財で鎌倉時代の作と伝わります。寺伝によれば、平重衝(しげひら)が生まれる時、安産を祈願の為に建立されたと伝わる。安産祈願の信仰がある。境内には、樹齢千年を下らないといわれる栢の木に先の住職によって彫られた不動明王があります。昔、この木から幽霊が出て街道を行く人々を怖がらせたと伝えます。

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡 善願寺(腹帯地蔵尊)

Tourist  2006.9.4(M)

 

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