秋の大和路探訪 其の五

 

香具山は 畝傍雄々しと 耳成と 相あらそひき 神代より かくなるらし 

いにしへも 然なれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき    「万葉集巻一」 中大兄皇子

 

久米寺〜橿原神宮〜大和三山・畝傍山(うねびやま)〜神武天皇畝傍山東北陵〜藤原宮跡〜おふさ観音(観音寺)

藤原時代のロマンの里、万葉の大和三山に囲まれた藤原宮跡めぐり・・・藤原宮

今から約1300年前の持統8年(694年)、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都された藤原京の中心が、藤原宮で和銅3年(710年)、平城京に遷都される迄の16年間、持統、文武、元明天皇の三代が治めた日本の都でした。北を二条大路、南を六条大路、東と西を各々、二坊大路で囲み、南北906.8m×東西925.4mで、約84haの広さで、内部に中軸線上に北〜内裏、南辺に大極殿院と大極殿、その南には朝堂院が広がり、両脇に計12の殿堂が配置されました。更に、南に控えの場がある朝集殿、朱雀門へと通じました。大極殿は天皇が執務の際、出御する建物です。当時の日本では最大の建物で、正面45m×側面21mで9間×4間の瓦葺き四面廂付建物でした。高さは基檀を含めて約25mを超える高さに復元でき、8階建てのビルに相当します。朝堂院は東西に六棟の殿堂が並び、その間に各種儀式に伴う餐宴を催す広場が設けられました。殿堂は全て瓦葺きの礎石建物です。儀式の場に相応しく、朱塗り柱の中国風建物が軒を連ねていたと思われます。内裏は、その中心部に、溜池がある為に、殆ど不明ですが、周辺域の調査で、全て桧皮(ひわだ)葺きの掘立柱建物で、中枢施設の両翼に、国の各行政を司る官衛(官庁)が広がっていたと推察されます。官衛地区は、伽入回廊と濠で区切られ、主要部分に門が開かれました。現在、東側にある役所群を東方官衛、西側の役所群を西方官衛ブロックと縦横に走る通路が確認されています。西方官衛では、コの字形に配置された建物群と、そこに配された正面18間×側面3間の長大な掘立柱建物が発見されました。藤原京の16年間は、大宝(たいほう)元年(701年)の大宝律令制定に伴う行政機構の改革があったと推測されています。藤原宮外郭は、掘立柱塀の大垣と各辺3ケ所ずつ開く宮城門に囲まれ、大垣の内外に内濠、外濠が並行し、外濠の外側には広い空間地である外周帯が巡っていました。門は合計12ケ所設けられ、出土木簡などから「猪使門(いつかいもん)」、「海犬養門(あまいぬかいもん)」と名付けられた事が分かりました。藤原宮造営は、持統4年(690年)が文献上の初見ですが、宮より先に京の都市区画が施工されていた事が宮域内の先行条坊の発見によって判明しました。

特別名勝・大和三山

畝傍山(うねびやま:199m)

耳成山(みみなしやま:139m)

天香具山(あめのかぐやま:152m)

大和三山は、奈良盆地の畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)、天香具山(あめのかぐやま)の三山の総称です。三山は、正三角形に位置し、いずれも標高200mに満たない低山ですが、秀麗な山姿で、古来、人々に愛でられ、多くの歌に詠まれました。畝傍山を女性に見立て、耳成山と天香久山を男性に見立てた、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が詠んだ三山妻争いをしたという万葉歌でも知られます。耳成山は平地に突き出た山で、標高139mの円錐形の優雅な姿は三山でもとりわけ美しく、畝傍山は三山で一番高く、標高199mで尾根が波打った姿は、眺める方向によって様々な姿を見せ、山頂からの見晴らしいです。標高152mの天香具山は、丘に近い山ですが、三山中、最も神聖視されました。三山は、国の特別名勝に指定されています。

橿原神宮前行き急行で・・・桃山御陵前駅 宇治川 広大な巨椋池干拓田
郡山と言えば金魚養殖池 橿原神宮前駅 橿原観光案内図
久米寺

寺伝によると、7世紀後半、推古天皇の勅願の元、聖徳太子の弟・来目(くめ)皇子の創建と伝えますが、吉野竜門寺に籠もって神通力を会得し、空中を飛行中に吉野川で洗濯をしている若い女性の脛を見て、目がくらみ墜落してまった久米仙人の創建との一説もあります。金堂、観音堂など境内の建物の殆どは、江戸時代のものですが、建物を支える礎石や瓦などから7世紀後半には存在した古刹と思われています。ツツジとアジサイが有名な花の寺です。本尊・薬師如来は眼病に霊験あらたかと伝え、久米仙人の歯と髪を植えたと伝える久米仙人坐像も本堂に安置されています。桃山様式の多宝塔(重要文化財)は万治2年(1659年)、京都の仁和寺(にんなじ)から移築したものです。

橿原神宮前駅 久米寺 煌びやかな露座の黄金仏と石仏
手入れが行き届いた清々しい境内・・・参拝していると、ご親切な住職の奥様?に久米寺の由緒書きを頂戴しました。<m(_ _)m>
久米寺由緒書き 仁和寺から移築された多宝塔(重文) 多宝塔由緒書き
薬師如来石 本堂・・・合掌 三寶荒神社
橿原神宮

畝傍山(うねびやま)の南東山麓の杜に広がる神域は50万uにも及び、「日本書紀」の「神武天皇は畝傍山東南の橿原宮で即位した・・・」という記述に基づき、明治22年(1889年)、神武天皇が即位された宮跡に創建されました。本殿(重要文化財)は京都御所の賢所(かしこどころ)、拝殿は同じく神嘉殿(しんかでん)が明治天皇から寄進(移築)されました。本殿は、安政2年(1855年)の建造で、現在は重要文化財に指定されています。畝傍山東南の広大な神域は、深い緑と四季折々の花に覆われ素木(しらき)造りの壮大な社殿に第一代・神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛皇后(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神とします。

久米寺参道 橿原神宮と畝傍山(うねびやま) 文華殿(織田家屋形 重要文化財:江戸期)
織田家旧柳本藩邸の表向御殿を移築、復元 手水 素木建、切妻造桧皮葺の八脚門の南神門
丹精込めて育てられた見事な菊花が多数展示されています・・・見事なぁ〜 (@^▽^@)
広大な境内と畝傍山(うねびやま) 外拝殿 内拝殿、本殿は改修中@外拝殿・・・参拝
橿原神宮参道 畝傍山(うねびやま)へ 大和三山・畝傍山説明書き
山頂へテチテチ・・・ 畝傍山口神社跡
礎石 三等三角点(点名:畝傍山 199.2m)
大津皇子の悲話を今に伝える二上山(にじょうざん)

雄岳(517m)と雌岳(472.2m)が並ぶように聳える美しい山を二上山と呼び金剛生駒国定公園に指定されています。雄岳の山頂に天武天皇の皇子だった大津皇子が眠っています。大津皇子は男らしい容貌で大人物の器、文武にも優れ、いずれは皇位に就くと目されましたが、天武帝の没後、皇位継承争いによって義母の皇太后(天武帝皇后で後の持統天皇)と子・草壁皇子らによって謀反の疑いをかけられて処刑され、24年の若き生涯を閉じました。しかし、皇太后の悲願空しく、3年後に病弱な草壁皇子も皇位に就く事なく他界、翌年の690年、皇太后は即位(持統天皇)しました。草壁皇子の死は大津皇子の祟りと恐れた持統天皇は、即座に大津皇子の墓を二上山に移し葬ったと伝えます。・・・伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)として仕える姉・大伯皇女(おおくのひめみこ)は「我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて あかとき露に わが立ち濡れし・・・私の弟を大和へ帰すというので、夜が更けて、暁まで立ち尽し、私は露に濡れてしまいました。」と別離の哀愁を詠みました。後に、二上山に大津皇子が移葬された時、「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我(あ)が見む・・・現世に留まる人である私は、明日から、二上山を我が弟として見る事にします。」と詠みました。・・・因みに大津皇子は天武帝皇后・鸕  野(うの)の姉・大田皇女と天武帝の間に大伯皇女(おおくのひめみこ)の弟として生まれましたが、病弱な母・大田は幼い姉弟を残して早くに病死しました。大田皇女、鸕  野(うの)姉妹は天智天皇の皇女と伝えます。

金剛山、葛城山の稜線 o(>w<)〇゛ 大津皇子が眠る二上山(雄岳 517m:右端) 大和三山・耳成山(みみなしやま)
岩肌がむき出しで急峻な下山道。。。( ̄▽ ̄;)!! 畝傍山を下山・・・ 旧日本海軍の軍艦の錨だとか・・・
左は空母・翔鶴のマスト?と「空母・翔鶴の碑」、右はゼロ戦と「甲種飛行学生の碑」@若桜友苑 旧日本海軍の戦闘機や特殊潜航艇絵図鑑
神武天皇畝傍山東北陵(じんむてんのう うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

「日本書紀」によると、初代天皇・神武天皇は、日向(宮崎県)地方〜瀬戸内海を東進し、難波(大阪府)に上陸しましたが、生駒の豪族・長髄彦(ながすねひこ)に阻まれて、熊野へ南下しました。八咫鳥(やたがらす)というカラスに導かれて吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺勢力をしたがえて、宿敵の長髄彦を討伐して大和地方を平定しました。神武暦660年1月1日(太陽暦:2月11日 建国記念日)、橿原宮で初代天皇に即位したと伝えます。神代と人代を結ぶ存在といわれる神武天皇ですが、その御陵は長い間、不明でした。江戸期後半の文久3年(1863年)にようやく確定されたと伝えます。畝傍山北東麓にある御陵は、正しくは畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と言います。周囲は約100m、高さ5.5mの八稜円形で、広い植え込みがあり、幅約16mの周濠を廻らせています。

初代天皇・神武天皇が祀られている神武天皇畝傍山東北陵(じんむてんのう うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
神武天皇畝傍山東北陵 大和ワラシベ軍団がいませんがな?!( ̄▽ ̄;)!!  飛鳥(あすか)川
特別史跡・藤原宮跡

大和三山のほぼ中央に、持統8年(694年)、日本初の本格的な都市として遷都したのが藤原京でした。天武天皇が計画し、皇后の持統天皇が完成させ持統、文武、元明天皇の三代に亘る宮跡で中国の都を模して街路が碁盤の目状に区割りされました。最近の調査研究で都の範囲が東西約5.3km、南北約4.8kmの広域で平城京を凌ぐ規模だった事が判明しました。その中心である藤原宮には、内裏(だいり)や、国家儀式の場である大極殿(だいごくでん)などがあり、広大な宮跡は特別史跡として保存されてます。宮跡からは北に耳成山(みみなしやま)、東に香久山(かぐやま)、西に畝傍山(うねびやま)の大和三山が望めます。

広大な藤原宮跡 朱雀大路跡、朱雀門跡 大極殿方面@朱雀門跡
万葉の歌碑 大和ワラシベ軍団じゃ〜 寝てますがな!( ̄▽ ̄;)!!  朱雀大路?(≧Σ≦)プッ 大極殿跡へテチテチ・・・
藤原宮説明書き えぇなぁ〜 (@^▽^@)
お〜 大和花さくや姫ちゃんズの襲来じゃ〜。。。(;^◇^ゞ
秋のたそがれの大和三山(左から畝傍山、耳成山、天香具山)・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@)
お〜 大和おいで(穂まねき)軍団の襲来じゃ〜。。。(;^◇^ゞ
朝堂院、大極殿跡 藤原宮大極殿跡の解説
天香具山〜朝堂院跡、朱雀大路〜畝傍山(うねびやま) @大極殿跡・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@)
藤原宮大極殿跡 藤原宮を後に。。。 渡り鳥が飛来する醍醐池と耳成(みみなし)山
おふさ観音(観音寺)

正しくは、観音寺と号する高野山真言宗別格本山です。弘法大師を宗祖とする宗旨で、おふさ観音という通称名は、江戸時代に土地の娘「おふさ」が、この地で観音様を奉り始めたのが後にお寺に発展した事に由来します。本尊は十一面観音で、元来、身体健康を授けて下さると伝え、近年は開運厄除け、子授け、ボケ封じなど様々な願掛けの祈祷所で、大和ぼけ封じ霊場会、大和七福神霊場会、 大和十三仏霊場会の札所です。

おふさ観音へ・・・ おふさ観音(観音寺)は「花まんだらのお寺」、「イングリッシュローズのお寺」と呼ばれます。。。
鉢植え、地植えされた約1,000種類(約1,500株)のバラとハーブで境内が埋まります・・・ バラとハーブの駒札
スッポンもいるそうな (@_@;)・・・亀の池 池泉回遊式庭園の円空庭 仏足石
イングリッシュローズに囲まれる本堂・・・合掌 時間の都合で。。。近鉄・大和八木駅へ JR桜井線・畝傍(うねび)駅
近鉄・大和八木駅 京都行き急行 桃山御陵前駅

Tourist  2006.11.06(M)

 

参考資料  久米寺畧縁起

「奈良 橿原」 (社)橿原市観光協会

「ぶらり沿線散歩 飛鳥」 近畿日本鉄道

るるぶ情報版 「奈良大和路'06」 JTBパブリッシング

るるぶ情報版 「京都 奈良'07」 JTBパブリッシング

「奈良を歩こう」 JR西日本

etc

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