晩秋の東山々麓わびさびを歩く

 

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ 法然

 

建仁寺〜八坂神社〜知恩院〜青蓮院門跡〜粟田神社〜出世恵美須神社〜南禅寺〜永観堂〜法然院〜金戒光明寺〜吉田神社

足利義政が確立した東山文化のわびさびな晩秋を訪ねて・・・東山山麓

古都・京都の代表的な「わびさび」の世界は京都独自の世界を醸し出しています。臨済宗々祖・栄西禅師が中国からお茶文化を日本に伝えるなど、鎌倉時代に禅宗が普及しました。室町中期に慈照寺銀閣を創建した足利義政によって確立された東山文化は「わびさび」の文化です。京都五山の第一の南禅寺は石川五右衛門が「絶景かなぁ、絶景かなぁ〜」と感嘆した山門が誇り高くどっしりとした姿で出迎えます。境内にはレンガ造りの水路閣もあり中世と近代文明が混在する世界です。永観堂は「永観遅し!」で知られる見返り阿弥陀や紅葉でも有名です。銀閣寺橋〜若王子(にゃくおうじ)橋まで琵琶湖疏水分線に沿って続く約1.8kmの哲学の道は、昭和初期に哲学者・西田幾多郎や経済学者・河上肇が毎日、思索にふけりながら散歩をしていた事に因んで名付けられました。法然院は幽玄で鬱蒼とした木々に囲まれた静寂な世界で今でもムササビを見る事ができます。以外に観光客が少ない新撰組発祥の地と伝える金戒光明寺は自分だけの京都を発見するには、絶好の場所。極楽浄土をイメージして創建された真如堂は、現世の中の極楽を感じる事ができます。そして「鬼やらい:節分神事」で有名な吉田神社など、東山々麓の錦秋を訪ねました。

お〜懐かしの1900系ですがな! o(>w<)〇゛ おけいはんK特急で四条へ@京阪丹波橋駅 吉例顔見世興行@南座
まねき・・・大人気の中村勘三郎見っけ! 織田信長の弟・織田有楽斎(長益)の墓がある正伝永源院

日本最古の禅宗本山寺院・・・建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山です。開山・栄西禅師は鎌倉時代の建仁2年(1202年)、源頼家(開基)の帰依を得、中国の百丈山の殿舎を模して建立したのが起こりで土御門天皇は勅願寺とされ、当時の年号によって建仁寺の号を賜りました。創建当時は天台、真言宗の旧仏教勢力が強く天台、真言、禅の三宗兼学を建前とし比叡山の末寺という形で止観院、真言院を設けたが大覚禅師(蘭渓道隆)の時に禅宗のみの寺に改めました。以来、武家の信仰を集め足利義満が五山制度を設けると当寺は第三位となったが中世の兵乱にしばしば罹災しました。天正年間(1573〜1592年)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺の恵瓊(えけい)によって復興されましたが仏殿は未だに再建に至らず法堂(はっとう)との兼用になっています。

駒札 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 平重盛(一説に教盛)の館門を移築した勅使門
寛永5年(1628年)に創建された浴室 山門 境内

法堂「拈華堂」(ねんげどう:仏殿兼用)

明和2年(1765年)に上棟された法堂(はっとう/拈華堂:ねんげどう)は、未だ再建に至らずの仏殿兼用する五間四間、一重、裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築で正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。法堂の天井に平成14年(2002年)、創建800年を記念して小泉淳作画伯筆の「双龍図」が描かれました

栄西禅師墓所の開山堂山門 明和2年(1765年)に創建された法堂(はっとう) 茶碑

祇園新地(甲部)歌舞練場

京都には、五つの花街(かがい)がありますが、その一つの祇園甲部の芸妓さんや舞妓さんの踊りの練習場として建てられたもので、客席はおよそ1,200席ほどあります。毎年春に「都をどり」が開催される事で有名です。同じように花街の一つである先斗町には先斗町歌舞練場があり、「鴨川をどり」が例年開催されます。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 庫裏(裡:本坊) 祇園新地(甲部)歌舞練場
祇園新地(甲部)歌舞練場 祇園と言えば・・・花見小路

一力亭

仮名手本忠臣蔵にも登場する伝統のあるお茶屋で暖簾の文字は万とも読め元は万亭という屋号でしたが、いつしか万の字を二分し一力亭と名乗るようになったと伝えます。文久3年(1863年)、禁門の変で功績のあった近藤勇ら浪士隊は新撰組を拝命し市中取締を命ぜられ、この年、一力亭で行われた諸般周旋方会議に出席し公武合体論を論じました。一力亭は一見さんお断りの店で入店するには常連さんの紹介が必要です。

一力亭 四条通り 八坂神社

祇園社(八坂神社

創建は甚だ古く、諸説多く明らかでないが、斉明天皇2年(656年)2月、我が国に来朝した高麗の調進副・伊利之使王(いりしのおおきみ:八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま)に祀る素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊を移し、子孫代々当社の祀官として奉仕したと伝える事から初め、八坂氏の氏神として創祀されたと思われます。天智天皇の御世、社号を感神(かんじん)院と名付けられ、以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改める迄、この社号を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と号し、朱雀天皇の承平4年(934年)に、傍らに薬師堂を創建し観慶寺と号し、別に祇園寺とも呼んだ為に甚だ紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴するに及び中世には、感神院は延暦寺の別院となり、祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地になりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬篤く、延喜式外社ではあるが、二十二社の内に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及んだが、明治の神仏分離令にあたり寺院を廃し神社のみ残った旧官幣大社です

境内 本殿 円山公園
円山公園と言えば・・・枝垂れ桜 説明碑 祇園小唄発祥碑
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
「煙草王」と呼ばれた明治の実業家・村井吉兵衛が建てた長楽館(喫茶、レディースホテル) えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)

浄土宗々祖・法然上人と浄土宗大本山・知恩院

承安5年(1175年)、法然上人が浄土宗の拠点として創建した浄土宗の大本山です。徳川家の帰依が深く江戸時代に寺域が拡大し中でも国内最大級の大きさを誇る三門は再建にあたった徳川二代・秀忠の権威が偲ばれます。「左甚五郎の忘れ傘」、「鶯張りの廊下」、「瓜生石」など知恩院七不思議なども知られます。又、寺伝によると法然上人は、13歳で比叡山に登って剃髪授戒し天台の学問を修めます。初め、円明房善弘と名乗りますが、久安6年(1150年)、18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空となり、叡空の元で勉学に励み、「智恵第一の法然房」と評されるほどになりました。以後、法然上人は遁世の求道生活に入ります。専修念仏(せんじゅねんぶつ)に確信を持つと比叡山を下り、やがて吉水の禅房(知恩院御影堂の近く)に移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。法然上人の教えは、多くの人々の心を捉え、時の摂政・九条兼実など貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れたり、また、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。更に上人の弟子・住蓮、安楽が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、建永2年(1207年)、上人は四国流罪の憂き目にあいます。建暦元年(1211年)に帰京できましたが、吉水の旧房は荒れ果て、今の知恩院勢至堂のある場所、大谷の禅房に住みました。翌年、病床についた法然上人は、弟子・源智上人の願いを受け、念仏の肝要を一筆書きに「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と認めました。これが「一枚起請文」です。そして建暦2年(1212年)正月25日、法然上人は80歳で入寂しました。門弟達は房の傍らに上人の墳墓を造りましたが、15年後、叡山の僧兵により墳墓が破却されそうになった為、弟子達は亡骸を西山粟生野(光明寺)に移し、荼毘にふしました。その後、文暦元年(1234)、源智上人は、荒れるがままの墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建て、知恩院大谷寺と号し、法然上人を開山第一世と仰ぎました。知恩院の名は、遺弟達が上人報恩の為に行った知恩講に由来します。豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受け、元和5年(1619年)に二代・秀忠が建立した我が国最大の楼門を始め、歴史的価値の高い壮大な大伽藍が完成しました。徳川家康は、京都での有事に戦用城郭に転用すべく政策上、徳川幕府は庇護を惜しまなかったと伝えます。

龍馬と慎太郎も燃えとるぜよ! 徳川秀忠が再建した国内最大級の山門 城郭の雰囲気・・・男坂
知恩院境内案内図 多宝塔 阿弥陀堂
御影堂(本堂) 知恩院七不思議案内図

知恩院七不思議・忘れ傘

御影堂正面の軒裏に、傘が少し見えます。当時、左甚五郎が魔除けに置いたという説と、知恩院第32代・雄誉霊巌上人が御影堂を建立する時、この辺りに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので上人に新しい棲居を用意して欲しいと依頼し、お礼にこの傘を置いて知恩院を守る事を約束したという説が伝えられます。傘は雨が降る時に差すもので、火災から守るとして今日も信じられています。

七不思議の一・左甚五郎の忘れ傘 経蔵 女阪
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 親鸞上人御廟跡・・・崇奏院 境内
花園天皇十楽院上御陵山門 えぇなぁ〜 (@^▽^@)

青蓮院門跡

天台宗の京都五ヶ室門跡の一に数えられ、格式の高い寺とされます。五ヶ室とは、青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡の五ケ寺です。寺伝によると比叡山延暦寺を伝教大師最澄が開基した際、諸堂の他に僧侶の住まいする坊を幾つか建てました。その一に青蓮坊があり、それが当院の始まりと伝えます。第三代門主・慈鎮和尚は四度天台座主を務め、その宗風は日本仏教界を風靡しました。当時まだ新興宗教であった浄土宗々祖・法然上人、浄土真宗々祖・親鸞上人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護しました。天明8年(1788年)、大火によって御所が炎上した時、後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難された事から粟田御所とも呼ばれました。

花園天皇十楽院上御陵 蓮院門跡 蓮院門跡境内案内図
四脚門 親鸞植髪堂 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 市民憩いの場「あおくすの庭」

粟田神社(あわたじんじゃ)

粟田神社(あわたじんじゃ)は京の七口の一つ、粟田口の華頂山麓に鎮座し古来、粟田天王と称し八坂神社と同じく素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る事から感神院新宮とも呼ばれたが明治初年に今の社名に改めました。創祀については諸説があり室町中期の明応年間に卜部(うらべ)兼倶の勧請するところで粟田青蓮院宮の鎮守社として崇敬されてきました。今の社殿は文政年間、光格天皇の叡旨によって再建されました。毎年10月の祭礼では、祇園祭の山鉾の原型といわれる高さ6〜7mの剣鉾数基が町内を練り歩きます。粟田焼(京焼)もここで発祥したとされます

粟田神社 駒札 えぇなぁ〜 (@^▽^@)

牛若丸(義経)ゆかりの出世恵美須神社

源義経が牛若丸と称した頃、金売吉次に伴われ奥州へ下向する際に源氏再興を祈願した恵美須神で出世恵美須または門出恵美須と称されました。元は日ノ岡夷谷に祀られていましたが、約500年前に山崩れにより土砂とともに流されてきた所が現在の鎮座地と伝え夷町という地名が残っています。御神体は日本最古の寄木造の恵美須神像で伝教大師(最澄:さいちょう)の作と伝え

洛中俯瞰 牛若丸ゆかりの出世恵恵美須社 駒札
境内 本殿 佛光寺本廟
山門 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 刀工・三条小鍛冶古跡
駒札 親鸞上人御廟堂 本堂

蹴上インクライン

第1、第2琵琶湖疎水が合流する蹴上の船留から岡崎動物園前の船留まで1/15という急勾配でこの間約600mだけ斜面にレールを敷き運輪船を乗せた四輪付き船台の鋼索を電力で上下に動かしました。この斜面をインクラインと言います

蹴上インクライン(傾斜鉄道) 南禅寺

南禅寺、三門(重要文化財:江戸期)

南禅寺・・・臨済宗南禅寺派の大本山で正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺と号します。文永元年(1264年)、亀山上皇が母・大宮院の御所として造営した離宮禅林寺殿を正応4年(1291年)、離宮を大明国師(無関普門)に寄進し禅林禅寺としたのが開基と伝え、建武元年(1334年)、後醍醐天皇は大徳寺と当寺を五山(天竜、相国、建仁、東福、万寿)の上位に列しました。中世には叡山の僧徒の焼き討ちや応仁の兵火に焼亡し廃絶に帰せんとしたが豊臣秀吉、徳川家康の庇護により復興に及びました。家康の厚い信任を得た塔中・金地院の住持・以心崇伝(いしんすうでん)に負うところが大きく多くの文化財を今に伝えます。三門・・・寛永5年(1628年)、藤堂高虎が寄進した巨大な楼門で天下の大盗賊の石川五右衛門が住まいしたと伝えますが三門は石川五右衛門の死後、約30年後に建てられました。

石川五右衛門で有名な三門(重文:江戸期) えぇなぁ〜 (@^▽^@)

南禅寺水道橋(水路閣)

明治22年(1889年)、蹴上に発電所が建設され明治24年(1891年)に送電を開始しました。明治31年(1908年)、水力発電の増強、水道用水確保の為に第2琵琶湖疎水の工事が始まり、明治35年(1912年)に完成しました。同時期に蹴上浄水場も建設され赤レンガのアーチ型の水道橋は、橋上部に疎水分線が流れ上水道の水源として利用されています

仏堂(本堂) 南禅寺水道橋(水路閣)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)

観堂

正しくは、聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山禅林寺派の総本山です。斎衡2年(855年)、弘法大師の高弟・真紹(しんしょう)僧都が仁明天皇の聖恩に報いる為に平安朝前期の文人・藤原関雄の山荘を関雄亡き後、寺院とし貞観5年(863年)に禅林寺と名を賜ったのが起こりです。その後、衰徴したが平安時代末期の承暦年間(1077〜1081年)、 盛んに念仏を広めた永観律師が住持となり念仏道場を開き、寺を中興し中興開山と呼ばれ寺名も永観堂と呼ばれるようになりました。鎌倉時代中期に浄土宗西山禅林寺派の本山の基礎を固めました。その後、応仁の乱に焼亡し久しく荒廃しましたが、明応6年(1497年)、後土御門天皇の勅によって諸堂が再建され現在の伽藍が整えられました。本尊の阿弥陀如来立像は、首を左に見返った世にも珍しい優美な尊像で「見返りの弥陀」と言われ永観律師が念仏行道をしている時、阿弥陀仏が先に立って共に念仏行道を始めたのに驚き躊躇している永観律師に振り返り「永観遅し」と言われたと伝える京都六阿弥陀仏の一です。寺宝は、長谷川等伯筆の金地諸色「竹虎図」八面、「松に水禽図」など八面の襖絵等を所蔵します。東山随一の紅葉の名所とも言われ全山が錦に染まる晩秋の頃は、美しい景観を楽しめます。

永観堂 中門 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
大玄関 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 阿弥陀堂
葉を持つと三福を自然に備わる三鈷の松 駒札 えぇ〜音色でつ!水禽窟
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 勅使門と盛砂 駒札
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
永観堂、洛中俯瞰。。。日想観!!! o(>w<)〇゛
永観堂、洛中俯瞰案内図 日想観とは? 多宝塔
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
多宝塔 えぇなぁ〜 (@^▽^@)

熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社

社伝によると永歴元年(1160年)、後白河法皇が近くの永観堂の守護神として熊野権現を勧請して建立した若王子の鎮守社で社名は天照大神の別称の若一王子に因んで社名とされました。以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、 寛正6年(1465年)3月、足利義正により花見の宴が催されました。後の応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され社殿及び境内が整備された現在の社殿は昭和54年(1979年)、一社相殿に改築されたもので以前は本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていました。

熊野若王子神社 御堂屋根の宝形 本殿

大豊神社

平安時代初期の仁和年間に創建と伝えます。神社背後には森と山が迫り「注意!サルが出没します!」と書かれています。この辺り一帯を椿ケ峰と呼び、 元は大豊神社も椿ケ峰天神と称し、椿ケ峰をご神体としましたが平安中期に当地に移り、大豊大明神の神号を賜ったと伝えます。 幾度かの火災で今は本殿、拝殿、末社を残すのみです。末社には狛ネズミ、狛猿、狛鳶 (こまとび)などが珍しいです。

えぇなぁ〜 (@^▽^@)@琵琶湖疏水分線 大豊神社
境内 狛ねずみ@末社・大国社 愛宕社の狛鳶(こまとび:左)、日吉社の狛猿
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 本殿 コンビニ探しでルートから大きく外れて岡崎神社
境内 本殿 再び哲学の道( ̄▽ ̄;)!!

法然院

寺伝によると、鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖・法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽、住蓮と共に、念佛三昧の別行を修し、6時礼讃を唱えました。建永元(1206年)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸中に、院の女房・松虫、鈴虫が安楽、住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽、住蓮は死罪となり、その後、草庵は久しく荒廃しました。江戸時代初期の延宝8年(1680年)、知恩院第38世萬無和尚は、法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立する事を発願、弟子・忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれました。浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28(1953年)、浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至ります。

冷泉天皇桜本御陵 法然院駒札 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 苔むした侘びな山門

白砂壇(びゃくさだん)

山門を入ると、参道の両側に白い盛り砂があります。水を表わす砂壇の間を通る事によって心身を清めて浄域に入るという事を意味します。

白砂壇(びゃくさだん) 本堂へ・・・ えぇなぁ〜 (@^▽^@)
方丈 25菩薩を象徴する25の生花を散華する本堂 えぇなぁ〜 (@^▽^@)

新撰組発祥の地・黒谷 金戒光明寺(会津藩主松平肥後守・京都守護職本陣旧跡)

浄土宗鎮西派四ヶ本山の一で紫雲山と号し世に黒谷と称します。元延暦寺の白河禅房があったが法然上人に付与されたので承安5年(1175年)、西塔黒谷より移り念仏道場としたのが当寺の起こり。その後、上人は洛東吉水に移ったが此処の草庵を捨てず叡山黒谷と共に相往来し説法に務めたので世人から新黒谷と称され、後に黒谷と称しました。五世・恵(えがい)の時、寺としての伽藍が整備され浄土宗の興隆によって大寺となり後光厳天皇より金戒の二字を賜り、後小松天皇より浄土真宗最初門の勅額を賜りました。応仁の乱など度々の兵火に罹災したが、その都度、公武の庇護によって再建され今日に至ります。徳川家康は、京都での有事を想定し二条城(将軍宿舎)の他に浄土宗総本山・知恩院と金戒光明寺の二ヶ寺を戦用城郭に転用する予定でした。約四万坪の大寺域に一千名の軍兵が駐屯でき、本陣も戦国時代の野戦と違い野宿ではなく宿舎が必要で黒谷には大小52もの宿坊があり駐屯の為に大方丈、宿坊25ヶ寺を寄宿の為に明け渡したという文書が残っています。知恩院共々、丘上に広大な寺域が広がり、石垣、階段、そして山門や三重塔など重厚な造りの伽藍が城壁、城門、物見櫓など城郭にも見えます。

金戒光明寺 撮影が行われていまつ・・・( ̄▽ ̄;)!! 文殊塔(三重塔)参道

京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)と新撰組

文久2年(1862年)、徳川幕府は京都の治安維持を目的で京都守護職を新設しました。同8月1日、会津藩主・松平容保(かたもり)は14代将軍・徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられ役料5万石、金3万両を与えられました。京都守護職に任命され幾度か固辞をしたが、藩祖・保科正之(三代将軍・家光の異母弟)の家訓(かきん)に順じ容保が守護職拝命を決意し家老・西郷頼母(たのも)、田中土佐らは、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。松平容保は家臣1000名を率いて同12月24日、三条大橋に到着し京都所司代、京都町奉行所などの出迎えを受け本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、会津藩兵の行軍が一里余りも続いたとされ、町衆も両側に列をなし大歓迎したと伝わります。幕府は文久2年、14代将軍・家茂上洛警備の為、浪士組を結成し文久3年(1863年)2月8日、江戸小石川伝通院に集合した240余名の浪士組は中山道を通り京都へ出発、同23日、京都の壬生へ到着、清河八郎が尊王攘夷を表明した事で200余名は江戸へ帰る事となりましたが清河と意見を異にした近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らは京都残留を希望し近藤らは京都残留の嘆願書を守護職に提出し3月10日、老中・板倉勝静は京都守護職・松平容保に浪士差配を命じました。同12日、京都守護職御預かりとなり同16日、近藤、土方、芹沢らは黒谷で松平容保に拝謁が叶い、8月18日の政変(七卿落ち)の時に武家伝奏より新撰組の命名と共に市中警護を拝命した事で当寺が新撰組発祥の地とされる所以です

文殊塔(三重塔) 平敦盛を討った熊谷直美鎧掛けの松 駒札

会津藩殉難者墓地

約300坪の敷地に会津藩殉難者墓地があり文久2年〜慶応3年の5年間に亡くなった237柱と鳥羽伏見の戦いの戦死者115柱を祀る慰霊碑があります。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台上に22柱が3カ所に分祀されています。松平家が神道であった為、7割ほどの人々が神霊として葬られています。侠客の会津小鉄の墓もあります。会津小鉄は本名を上阪(こうさか) 仙吉といい、会津藩・松平容保が京都守護職在職中、家業は口入れ屋として新撰組の密偵として活躍をしたが鳥羽伏見の戦いで会津藩が政略的に朝敵の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽、伏見の路上に野ざらしに放置されていたのを子分200余名を動員して収容し近くの寺院で荼毘に付し回向供養したとされ、以後も容保の恩義に報いる為に黒谷会津墓地を西雲院住職と共に死守し、清掃や整備の奉仕を続けたと伝えます。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 会津藩殉難者墓地 御影堂(京都守護職・松平容保本陣旧跡)

真如堂

正しくは、真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)と号する天台宗の寺院で世に真如堂と言われます。真如堂辺りは、古来、神楽岡と呼れ、仏法有縁真正極楽の霊地とされました。当地に寺を開基したのが、戒算(かいさん)上人です。戒算上人は比叡山延暦寺の僧で、永観2年(984年)に延暦寺常行堂にあった阿陀如来像を、神楽岡の東に位置する東三条院藤原詮子(藤原道長の姉)の離宮に移して安置したのが真如堂の起源と伝えます。

真如堂 駒札 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
光秀重臣、春日の局の父・斉藤利三墓所

えぇなぁ〜 (@^▽^@)

三重塔 本堂 後一条天皇菩提樹御陵
大文字山が燃えとるぜよ! o(>w<)〇゛ 竹中稲荷神社
本殿 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 吉田山三等三角点(105.12m)

吉田神社

社伝によると、清和天皇貞観元年4月(859年)中納言・藤原山蔭(やまかげ)が春日の四神を勧請し平安京の鎮護社として吉田山に創建される。爾来永延元年(987年)、一条天皇の行幸を始め正暦2年(991年)に大社の一に列せられ、堀河天皇嘉承元年(1107年)四度官幣に預る等、皇室の崇敬極めて厚く、殊に神職吉田兼倶が吉田神道を創設し、後土御門天皇文明16年(1484年)、斎場所・大元宮(だいげんぐう)を造営してより益々隆盛し、神道界の絶大なる権威を保持し現在に至ります。建御賀知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命( (いはいぬしのみこと)、天之子八根命 (あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)の四座を祭神とします。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 境内 本宮
日本中の神を一度に参拝できる大元宮・・・閉門されてますがな! ( ̄▽ ̄;)!! えぇなぁ〜 (@^▽^@)
吉田神社 京都大学 おけいはんK特急@出町柳駅
おけいはんK特急・ダブルデッカー(二階建車両)

京阪丹波橋駅

Tourist  2006.12.04(M)

 

関連サイト

錦秋の伏見界隈を歩く・・・

錦秋の伏見界隈を歩く・・・ 洛雅記TOPへ戻る 東山々麓「わび、さび」チャリ探訪

きらら坂ウォーキング大比叡散策

きらら坂ウォーキング大比叡散策

三条大橋〜逢坂山峠越え

三条大橋〜逢坂山峠越え

桃山、山科・・・洛東探訪

桃山、山科・・・洛東探訪 新撰組幕末回廊散策その3 新撰組幕末回廊散策その3

新撰組幕末回廊散策その4

新撰組幕末回廊散策その4    

 

戻る 洛雅記2006年探訪コラム

 

inserted by FC2 system