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私用(治療)を済ませて・・・@京阪丹波橋駅 |
京阪深草駅 |
琵琶湖疎水 |
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茶碗子の水 |
駒札 |
瑞光寺(元政庵) |
瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡) |
当地は極楽寺の薬師堂跡と伝え、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われます。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものです。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努めた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。
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茅葺の山門、本堂など境内の風情は深草一風情があると言われる瑞光寺 |
宝塔寺(ほうとうじ) |
深草山鶴林院と号する日蓮宗妙顕寺派の寺で縁起は藤原氏の極楽寺に迄遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院でしたが突如、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝えます。徳治2年(1307年)、日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして、日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門(重要文化財:室町期)、本堂(京都府指定文化財:桃山期)、多宝塔(重要文化財:室町期)は文化財を有します。
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宝塔寺総門(四脚門:重要文化財) |
駒札 |
日像荼毘処 |
多宝塔(重要文化財室町期) |
境内に日蓮、日朗、日像三代の遺骨を納めた多宝塔が、ある事から宝塔寺と言います。応仁の乱で荒廃しましたが、天正18年(1590年)、日銀上人によって再興されました。京都市内に現存する最古の多宝塔で重要文化財(室町期)に指定されています。
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仁王門 |
多宝塔(重要文化財) |
本堂 |
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客殿 |
七面社参道 |
日像上人廟 |
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七面社参道 |
七面社 |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
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七面社俯瞰 |
里山の風情 |
京都市深草墓園 |
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えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
石峰寺 |
石峰寺は百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将・源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝わります。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって建立された禅道場です。江戸中期、創建時は諸堂も有する大寺院でしたが、大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみです。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生〜涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現し諸菩薩、羅漢を一山に安置しています。長年の風雨を得て丸み、苔寂びて風化に伴う表情や姿態に一段と趣きを深めています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝えます。
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石峰寺参道 |
赤門(竜宮造り) |
鈴鹿野風呂の歌碑 |
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一に南天寺とも言われる石峰寺・・・えぇなぁ〜
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干し柿・・・えぇなぁ〜
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本堂 |
本尊・薬師如来像 |
石仏群(五百羅漢) |
本堂背後の山中にあり石造釈迦如来像を中心に十大弟子、五百羅漢、禽獣鳥魚(きんじゅうちょうぎょ)などを配し釈迦の誕生〜涅槃(ねはん)迄の一代を表しています。この石仏群は伊藤若沖が下絵を描き作らせたと伝えます。江戸時代の作ですが、その表情はいずれも奇抜軽妙、洒落味があって微笑ましく洛西五智山の石仏と供に京都市石仏群の双璧と称されます。
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赤門(竜宮造り) |
釈迦誕生 |
出山釈迦 |
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十八羅漢 |
説法(釈迦・文殊・普賢) |
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托鉢修行、諸羅漢坐禅窟 |
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釈迦涅槃(ねはん)の場 |
賽(さい)の河原 |
参道と石仏(羅漢)群 |
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ナニカ?
(;^◇^ゞ |
耒迎諸菩薩 |
ドモッ!生まれたての釈迦どすえ〜
(;^◇^ゞ |
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ひとつ・・・宜しゅうに頼んまっさ
(;^◇^ゞ |
千と千尋の顔なし?
(;^◇^ゞ 顔ありますけど(爆) |
卒塔婆石塔 |
伊藤若沖(じゃくちゅう) |
境内に墓地があり、墓石表面には「斗米庵若中居士墓」と記しその右には貫名海屋(ぬきなかいをく)の撰文による筆塚があります。若中は江戸時代中期の画家で錦小路の青果問屋「桝屋」の長男として生まれましたが幼少より画を好み、狩野派の画を学び中国の古蹟を真似、光琳の図案風の筆致を取り入れて人物山水花鳥画を描きました。特に鶏画を得意とし絵を求める人は白米一斗を謝礼としたので「斗米庵」と称されました。市井の生活を嫌い晩年は深草に閑居し清貧の中で画筆に親しみ寛政12年(1800年)、9月10日、85歳で没しました。
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えぇなぁ〜
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伊藤若沖墓所 |
ぬりこべ地蔵尊 |
明治3年(1870年)の深草村絵図に、この場所は「ヌリコベ墓」と記されており、江戸時代から信仰があったようです。由来は、歯の痛みを封じ込める意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になったとも伝えます。現在も歯の治癒を願って参詣者は絶えません。
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境内 |
伏見俯瞰@赤門 |
ぬりこべ地蔵尊 |
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参拝しました・・・合掌 |
ウォーキング稲荷歴史案内図 |
珍しい和合狐? |
伏見稲荷大社 |
欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。
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上ノ殿 |
千本鳥居 |
千本鳥居は義経千本桜「鳥居前」の舞台 |
歌舞伎演目で特に人気の高い「義経千本桜」二段の口「鳥居前」の鳥居とは稲荷大社の千本鳥居を指しています。主役は義経ではなく滅び行く平家の武将達を描いています。義経が静に形見として「初音の鼓」を与えた後、静を助ける佐藤忠信が登場しますが実は狐が忠信に変化していました。狐(忠信)は鼓の皮に使われた狐の子である事を明かし親を慕う子の心を思った義経は狐に初音の鼓を与えました。
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幽邃で幻想的な朱の世界・・・千本鳥居 |
命婦社(みょうぶしゃ:奥の院奉拝所)、おもかる石 |
命婦社(みょうぶしゃ:奥の院奉拝所)・・・本殿の東方、千本鳥居を抜けたお山への上り口、通称「命婦谷」にあり一に「奥の院」の名で知られています。この奥の院奉拝所はお山を遥拝する所で、稲荷山三ケ峰は、この社殿の背後に位置しています。参道は左右二本あってその両側には鳥居が林立し、あたかもトンネルの有様で「千本鳥居」と称され稲荷大社の名勝となっています。おもかる石・・・灯篭の前で願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難しとする一種の神占石です。
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奥社奉拝所(命婦社) |
稲荷大神(御神石) |
おもかる石 |
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千本鳥居 |
稲荷と言えば・・・神使い(眷属)の狐さま |
参拝しました・・・ |
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本殿(内拝殿) |
拝殿 |
豊臣秀吉が造営した楼門(重文:桃山期) |
土人形、郷土玩具の原型・伏見人形 |
伏見人形は、稲荷人形、深草人形、伏見焼、深草焼、稲荷焼とも言われ、日本各地の土人形・郷土玩具の原型となったのです。伏見深草には古来(5世紀中頃〜7世紀前半)、土器が造られ、土師部(はじべ:埴輪や土器を造る職人)が、奈良の菅原から移住した記録があり遺跡も発掘されました。深草は、良質の土が採れたので、土師部は、ここに定住し、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見城建造時には、播州(兵庫県)などから瓦を造る人々が深草に移り住みました。これらの人々の生業が、伏見人形の起こりに大きな影響を与えたと伝えます。往時(江戸時代の文化文政年間(1804〜1829年)には50軒の窯元と小売商約15軒ありましたが、現在、伏見稲荷大社周辺の窯元は二軒になりました。
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稲荷大社社殿 |
伏見稲荷大社神幸道(裏参道) |
伏見人形窯元「丹嘉」 |
田中神社(稲荷神社境外摂社) |
和泉式部が稲荷に詣で、田中明神附近で時雨にあい困っている時に、田を刈っていた一人の童が「あを(雨具)」を貸してくれました。帰りには晴れていたので、その「あを」を返しました。その翌日、童が式部の所へ艶文を持って来た時、哀れと思い部屋へ招き入れたと言う話が残っています。
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伏見人形 |
田中神社(稲荷神社境外摂社) |
えぇなぁ〜
(@^▽^@)@東福寺 |
東福寺 |
臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万u)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として藤原忠平が建立した法性寺(ほっしょうじ)に関白・九条道家(藤原道家)が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の一字づつを採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で法堂は未だ再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は応永年間(1394〜1428年)の再建で禅宗寺院三門中では、最古です。
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三面大黒天(桂昌院) |
東福寺(六波羅門
重文:鎌倉期) |
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手前から三門(国宝:室町期)、仏殿 |
禅宗三門では最古の三門(国宝:室町期) |
京都最古の浴室(重要文化財:室町期) |
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駒札 |
五社明神(成就宮) |
比良明神(天狗)を祀る魔王石、十三重石塔(重要文化財:吉野期) |
五社明神(成就宮)境内にあり、現在は東福寺鎮守ですが、元は法性寺の鎮守と伝えます。十三重石塔(重文:吉野期)は、かって「比良山明神塔」と呼ばれ、傍にある魔王石と一対とされます。東福寺を建立しようとした九条道家が病になった時、藤原家先祖という比良の魔王(比良明神:天狗)が家来の女御に降臨し、道家に祟っている怨霊の鎮め方を魔王に教えられ病が完治し、道家が当寺建立の決心をした時に比良明神のお告げで十三重石塔を建立したと伝えます。
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十三重石塔(重文:吉野期)と藤原家先祖の天狗(比良明神)を祀る魔王石 |
仏殿 |
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通天橋、臥雲橋と共に東福寺三名橋と言われる偃月橋(重要文化財:桃山期) |
即宗院(そくそういん) |
嘉慶元年(1387年)、薩摩藩六代藩主・島津氏久が、剛中玄柔(東福寺第五十四世住持)を開山として建立した島津家の菩提寺で、氏久の法名「齢岳立久即宗院」から寺名としました。当初、山内成就院の南にありましたが、永禄12年(1569年)に火災で焼失し慶長18年(1613年)頃に現在地に移ったのは、島津義久の施入と伝えます。
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即宗院 |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
駒札 |
庭園 |
室町時代の作庭と伝え、もとの庭園は、都林泉名勝図会に登載される貴重な名園で今に至るまでよく保存され寝殿造系庭園の原型を留め、植込み石、苔、池などを配置した和らいだ自然景観で優美繊細の秀でた作庭と言われます。
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つくばい |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
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えぇなぁ〜
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月輪殿の滝跡(石組み) |
えぇなぁ〜
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えぇなぁ〜
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西郷隆盛密議の地駒札 |
手水鉢、餅撞石臼、鬼瓦など |
えぇなぁ〜
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えぇなぁ〜
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西郷自ら建碑の指揮を執った維新史跡 |
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駒札 |
鳥羽伏見戦で戦死した薩摩藩士顕彰碑 |
西郷隆盛の自筆になる「東征戦亡之碑」 |
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えぇなぁ〜
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えぇなぁ〜
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通天橋@臥雲橋(がうんきょう) |
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元新撰組参謀・伊東甲子太郎ら御陵衛士墓 |
泉涌寺総門 |
即成院(泉涌寺七福神めぐり第1番
福禄寿) |
即成院(そくじょういん)
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光明山と号する真言宗泉涌寺派の寺で正暦3年(992年)、恵心僧都が伏見に建立した光明院を始まりとし本尊・阿弥陀如来像を始め二十五菩薩座像が安置され、境内には那須与一の墓と伝えられる石造宝塔があります。寛治年間(1087〜94年)、関白・藤原頼通の第三子・橘俊綱が、荘厳な山荘(伏見殿)造営にあたり当院を持佛堂として傍に移設、伏見寺または即成就院と呼ばれていた。文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治に至り、廃佛毀
釈の法難に遭い廃寺となり、本尊諸尊は当院の本山である泉涌寺の仮堂に移された。その後本寺である法安寺である合併、更に明治35年(1902年)、泉涌寺総門の現在地で再興され即成院と呼ばれます。
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本堂 |
今熊野観音寺参道口 |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
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一ノ橋川に架かる鳥居橋 |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所・今熊野観音寺 |
真言宗泉涌寺派に属し西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所で創建は定かでありませんが寺伝によれば平安時代、斉衡年間に山本左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したと伝わります。一説には弘法大師が熊野権現の化身の老翁から一体の観音像を授けられて創立したのが起こりとも伝えます。後白河法皇が新熊野(いまくまの)社を創建された時に当寺を新那智山と称された。本殿背後の墓地には慈円僧正、藤原忠通、長家の墓とされる見事な石造宝塔三基(鎌倉期)があります。
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えぇなぁ〜
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子まもり大師と観音寺(泉涌寺七福神めぐり第3番
恵比寿神) |
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えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
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日本医学の発展に貢献した人を祀る医聖堂 |
観音寺俯瞰 |
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大師堂 |
本堂 |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
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えぇなぁ〜
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泉涌寺 |
泉涌寺(せんにゅうじ) |
真言宗泉涌寺派の大本山で東山(とうざん)または、泉山(せんざん)と号する皇室の香華院(菩提所)です。寺伝によると当寺は鎌倉時代の建暦元年(1211年)、宋国から帰朝した俊芿
(しゅんじょう)律師が当地で久しく荒廃していた仙遊寺地を得、伽藍を建立しました。この時、境内に新しい清泉が湧出したので寺名を泉涌寺と改めたと伝えます。二世・湛海(たんかい)も師の衣鉢を継いで二度も入宋し宋文化を吸収する上に大きな貢献をしました。文明2年(1470年)の兵火によって全山焼失し天正、慶長頃から漸次復興に努めました。仏殿や舎利殿は寛文9年(1669年)、後水尾天皇の院宣によって再建されました。当寺の伽藍が一見、禅宗的な雰囲気に感じるのは宋寺の規模によって建てられたからで当寺安置の諸仏像も多分に宋風彫刻が見られるのは、これが為です。仁治3年(1242年)、四条天皇の月輪陵が寺内に営まれてより歴代天皇の御陵所となり、後水尾天皇から孝明天皇に至る多くの天皇、皇妃が葬られました。故に境内は常に清浄され他寺院に見られぬ尊厳さと品格さが漂っています。
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楊貴妃観音堂(泉涌寺七福神めぐり番外
楊貴妃観音) |
仏殿への参道 |
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浴室 |
徳川家綱が再建した仏殿(重文:江戸期) |
清少納言歌碑、泉涌寺水屋形 |
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清少納言歌碑 |
駒札 |
今も清泉が湧き出る泉涌寺水屋形 |
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舎利殿 |
泉涌寺と謡曲「舎利」駒札 |
月輪陵 |
霊明殿、月輪陵 |
月輪陵・・・当寺が歴代の御陵域になったのは、四条天皇の月輪陵が仁治3年(1242年)に初めて寺内に営まれてからで以来、後水尾天皇〜仁孝天皇に至るまでの天皇、皇后、親王など二十五陵五灰塚九御墓の後月輪陵が営まれました。その墓石は主に天皇は九重層塔、后妃は無縫塔、親王は宝筐印塔を以って標されています。霊明殿・・・現在の霊明殿は明治17年(1884年)に明治天皇によって再建されたもので入母屋檜皮葺き、外観は宸殿風です。内部は内陣、中陣、外陣に分かれ、特に内陣は五室の宮殿になっています。天智天皇以来の歴代皇族の尊牌が奉祀され皇室との縁深く、内部の荘厳具は明治天皇以降の皇族から寄進されたものです。
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月輪陵 |
四条天皇像、歴代天皇、皇妃の尊牌を祀る内裏より移築した霊明殿 |
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御座所 |
本坊 |
手前から舎利殿、仏殿 |
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えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
悲田院(泉涌寺七福神めぐり第6番
毘沙門天) |
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洛中俯瞰@悲田院・・・愛宕山〜北山〜比叡山、東山も一望!のはずが・・・雨に煙ってますがな!
( ̄▽ ̄;)!! |
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泉涌寺七福神めぐり第6番
毘沙門天 |
京阪東福寺駅 |
京阪伏見桃山駅 |
Tourist
2006.11.27(M) |