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割り拝殿 |
伏見名水・不二の水 |
いちの木さん(旗塚) |
北朝ゆかりの元、伏見七福神の一・西福寺(寿老人/健康と長寿の神) |
浄土宗本派の寺で如意山光厳院と号し光厳天皇所縁の寺と伝えます。天皇は南北朝騒乱期の北朝方の天皇として最も辛酸をなめられたが延文2年(1357年)、河内の金剛寺の幽閉所から帰洛され伏見の奥(大亀谷敦賀)に閉居し世俗を一切絶ち禅門に帰依されたと伝わります。「玉くしげ
あげてしみれば 今朝よりも 身にも袖にも
涙落として」とは、その頃の詠歌であるとされます。次いで丹波国山国村(北桑田郡京北町)の常照寺に移り貞治3年(1364年)7月7日に崩御されました。光厳院は文禄年間、豊臣秀吉が伏見築城に際し現在地に移転し寺名を西福寺と改名し教誉上人を中興開山とします。本堂に本尊・阿弥陀如来像を安置し、他に光厳天皇画像、位牌を安置した小堂(光厳院)があります。 |
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本殿 |
北朝所縁の元、伏見七福神の一・西福寺 |
導石 |
田中常憲(つねのり)歌碑 |
田中常憲(つねのり)は明治6年(1873年)、鹿児島に生まれ16才で教壇に立ち、福知山、桃山中学校長などを歴任した教育者ですが歌を落合直文に師事し歌人としても知られました。晩年は当寺の畔に閑居し昭和35年(1960年)に88才で没しました。歌碑には「ふかくさの
野辺の雲雀(ひばり)よ 春たたば
わが墳の上の 雲にきてなけ」と刻まれています。 |
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田中常憲歌碑 |
本堂 |
・・・ |
即成就院跡(そくじょうずいんあと) |
平安時代後期、関白・藤原頼道の子・橘俊綱が桃山丘陵に豪壮な山荘を構えました。俊綱没後、山荘内の持仏堂を伏見寺とし、後に即成就院と称しました。「伏見山寺宮近廻地図大概」には中世にはこの辺り一帯を即成就院村と称し伏見殿、大光明寺、蔵光庵などの寺院が描かれており付近には庶民の家屋も点在していました。伏見山荘は後に白河天皇に寄進され皇室領となりやがて伏見宮家に伝領されこの間にも即成就院も何度か建替えられましたが、応仁の乱で完全に荒廃し文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見山荘跡地辺りに伏見城を築城する事となり当地に移転する事となり明治5年(1872年)迄あった即成就院跡です。現在、即成就院は方安寺と共に泉涌寺(せんにゅうじ)に遷され、その名跡を残しています。即成就院(そくじょうずいん)跡地には那須与一の墓所と称する方墳や与一誕生井と称する古井戸がありますが、これは下野国の那須荘をこの寺領として寄進した事による付会した伝説です。 |
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即成就院跡 |
那須与一の墓と伝える石塔 |
記念山へ・・・ |
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記念山ロッジ跡? |
石碑 |
春日?鬼瓦??(^^ゞヘッ |
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記念山からの市内俯瞰o(*^▽^*)o |
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明智光秀が羽柴秀吉との天王山の決戦に敗れて小栗栖へ抜けた道・・・ |
光秀もここから眺めた?・・・稲荷山遠望 |
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光秀はこの先の小栗栖で襲撃されて落命・・ |
大岩ゴルフセンターのショートホール・・やや打ち下ろしの150yard前後?8番アイアンかな(^_-)-☆ |
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激坂終了!\(●⌒∇⌒●)/ |
市内俯瞰o(*^▽^*)oあはっ♪ |
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ヤッホ〜\(●⌒∇⌒●)/ |
大岩山山頂にある電波塔 |
大岩神社 |
創祀は定かでなく大岩、小岩と呼ぶ2つの神石からなり男神、女神として奉祀したのが起こりで社伝によれば「男女二人の神がそれぞれが胸の病気にかかった際に、互いの献身的な看病によって病を治した事から、胸や心の病を治癒する霊験があるとされます。 |
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伏見桃山ゴルフコース(パブリック) |
大岩神社(大岩山々頂:標高182m) |
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お塚 |
本殿 |
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大岩(男神石) |
小岩(女神石) |
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大岩神社をあとに・・・ |
キララくんでつo(*^▽^*)oあはっ♪ |
激坂のダウンヒル〜\(●⌒∇⌒●)/ |
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大岩神社参道・・・路端の小川は七瀬川 |
瑞光寺(元政庵) |
瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡) |
当地は極楽寺の薬師堂跡と伝え、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われます。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものである。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努めた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。 |
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こま札 |
茅葺の詫びな山門 |
境内 |
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三十番神祠(番神塚(藤原塚)跡) |
茅葺の庵の風情を醸し出している本堂 |
石峰寺 |
ぬりこべ地蔵尊 |
明治3年(1870)の深草村絵図には、この場所は「ヌリコベ墓」と記されており、江戸時代から信仰があったようです。由来は、歯の痛みを封じ込める意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になったとも言われます。現在も歯の治癒を願って参詣者は絶えません。 |
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歯痛封じに霊験があるという「ぬりこべ地蔵尊」 |
キララくん(*^-^*) |
面白いチュッチュ狐像?
(^◇^;) |
伏見稲荷大社 |
欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦伊侶具(はたのいろぐ)によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊侶具との200年足らずの脈絡については、ほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。 |
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千本鳥居とキツネさん |
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権殿 |
石灯篭(鎌倉期) |
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神供水井 |
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稲荷神遣いのキツネさん |
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社殿 |
豊臣秀吉が造営した楼門(重文:桃山期) |
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伏見稲荷大社表参道 |
伏見稲荷大社神幸道(裏参道) |
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ゲッツ☆⌒(*^∇゜)v |
整備された七瀬川 |
近鉄京都線 |