伏見の神奈備山チャリ探訪

 

ふかくさの 野辺の雲雀(ひばり)よ 春たたば わが墳の上の 雲にきてなけ 田中常憲

 

大黒寺⇒藤森神社⇒記念山⇒大岩神社⇒瑞光寺(元政庵)⇒伏見稲荷大社

 

大黒寺(大黒天/開運・出世の神)

大黒寺の創建は不明ですが真如法親王の開基による名刹で当初は円通山長福寺と号しました。江戸時代の元和元年(1615年)、薩摩藩主・島津義弘が伏見奉行・山口駿河守に懇請し薩摩藩の祈祷所となりました。本尊は五穀豊穣の神で出世開運を授けると云われる大変にありがたい大黒天です。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負(ゆきえ)の墓所があります。

大黒寺(大黒天/開運・出世の神) 平田靱負(ゆきえ)顕彰碑と伏見義民遺髪塔 おさすり大黒天

伏見名水・金運清水

本堂 平田靱負の墓所
寺田屋騒動と薩摩九烈士墓所

文久2年(1862年)4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組(薩摩藩急進派)21名、真木和泉守ら10名、田中河内介ら5名の36名が集結。島津久光の君命を受けた薩摩鎮撫使9名が藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず斬り合いとなりました。鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切 腹)を出し、この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、 遺骸を丁寧に白木綿で包み大黒寺に埋葬した。更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています。

薩摩九烈士の墓所と墓碑(右手前端) 酒蔵 大石良雄(内蔵助)ゆかりの撞木町遊郭跡
藤森神社

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。

墨染発電所(インクライン跡) 疎水右岸を北上 藤森神社
額は今も近藤勇によって外されたまま 祭礼では駈馬、騎射が行われる参道(馬場) 伏見義民・焼塩屋権兵衛碑
伏見義民一揆(天明義民一揆)、蒙古塚、かえし石(力石)、石川五右衛門ゆかりの水鉢台石(手水舎)

伏見義民一揆(天明義民一揆)・・・安永7年(1779年)11月、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)は着任後間もなく、その地位を利用して暴政を振舞うになりました。その為に数万もの伏見住民を窮地に陥れる結果となり、こうした町民を救おうと立ち上がったのが町年寄・文珠九助初め焼塩屋權兵衛ら7人の義民でした。彼等は江戸幕府に命がけの直訴に及び悪奉行を失墜させました。奉行罷免後、權兵衛は京都東町奉行所の再吟味による尋問に遭い、遂に天明7年(1788年)11月4日、獄中にて病臥し非業の最後を遂げました。蒙古塚・・・一に「七塚」とも呼び蒙古の将兵の首を埋めた所と云われ神功皇后が兵器を埋納した所とも伝わります。「かえし石」は別に「力石」とも呼ばれ、大・中・小の三つの餅型の石が積まれています。江戸時代より藤森祭の京都所司代巡検時に当社の神人が拝殿より鳥居迄この石を転がす行事があったとか祭りに集まった力自慢が力試しに石を抱き上げたとも伝えます。水鉢台石(手水舎)・・・手水舎の水鉢の台石は宇治浮島にある十三重塔の上から五番目の石を石川五右衛門が盗みここへ持ち運んだと伝わり現在も十三重塔を見るとその部分だけ色が違っているとか・・・

蒙古塚 かえし石 水鉢と五右衛門が盗んだという台石
新撰組局長・近藤勇も信仰したと伝える・・・いちの木さん(旗塚)

旗塚の上に、いちいの木があり今は枯れた株となっているだけですが、 かっては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛などの治癒にご利益があり新撰組局長・近藤勇も 「いちの木さん」を信仰し、足しげく通っていたと伝えます。 旗塚の「旗」は 「秦」につながると云う説もあります。 平安遷都以前に当地を治めていたのは 紀氏一族で産土神(うぶずながみ)として深草山々頂に雷神を祀ていたのが最初で、やがて新羅系渡来人の秦氏の勢力が大きくなり守護神として真幡寸(まはたき) 神社と称するようになり神護景雲年間(767〜769年)頃の事で社地も現在地に定まりました。「旗塚」、纛旗(とうき)の埋納説などは秦氏に因んでの伝説です。

割り拝殿 伏見名水・不二の水 いちの木さん(旗塚)
北朝ゆかりの元、伏見七福神の一・西福寺(寿老人/健康と長寿の神)

浄土宗本派の寺で如意山光厳院と号し光厳天皇所縁の寺と伝えます。天皇は南北朝騒乱期の北朝方の天皇として最も辛酸をなめられたが延文2年(1357年)、河内の金剛寺の幽閉所から帰洛され伏見の奥(大亀谷敦賀)に閉居し世俗を一切絶ち禅門に帰依されたと伝わります。「玉くしげ あげてしみれば 今朝よりも 身にも袖にも 涙落として」とは、その頃の詠歌であるとされます。次いで丹波国山国村(北桑田郡京北町)の常照寺に移り貞治3年(1364年)7月7日に崩御されました。光厳院は文禄年間、豊臣秀吉が伏見築城に際し現在地に移転し寺名を西福寺と改名し教誉上人を中興開山とします。本堂に本尊・阿弥陀如来像を安置し、他に光厳天皇画像、位牌を安置した小堂(光厳院)があります。

本殿 北朝所縁の元、伏見七福神の一・西福寺 導石
田中常憲(つねのり)歌碑

田中常憲(つねのり)は明治6年(1873年)、鹿児島に生まれ16才で教壇に立ち、福知山、桃山中学校長などを歴任した教育者ですが歌を落合直文に師事し歌人としても知られました。晩年は当寺の畔に閑居し昭和35年(1960年)に88才で没しました。歌碑には「ふかくさの 野辺の雲雀(ひばり)よ 春たたば わが墳の上の 雲にきてなけ」と刻まれています。

田中常憲歌碑 本堂 ・・・
即成就院跡(そくじょうずいんあと)

平安時代後期、関白・藤原頼道の子・橘俊綱が桃山丘陵に豪壮な山荘を構えました。俊綱没後、山荘内の持仏堂を伏見寺とし、後に即成就院と称しました。「伏見山寺宮近廻地図大概」には中世にはこの辺り一帯を即成就院村と称し伏見殿、大光明寺、蔵光庵などの寺院が描かれており付近には庶民の家屋も点在していました。伏見山荘は後に白河天皇に寄進され皇室領となりやがて伏見宮家に伝領されこの間にも即成就院も何度か建替えられましたが、応仁の乱で完全に荒廃し文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見山荘跡地辺りに伏見城を築城する事となり当地に移転する事となり明治5年(1872年)迄あった即成就院跡です。現在、即成就院は方安寺と共に泉涌寺(せんにゅうじ)に遷され、その名跡を残しています。即成就院(そくじょうずいん)跡地には那須与一の墓所と称する方墳や与一誕生井と称する古井戸がありますが、これは下野国の那須荘をこの寺領として寄進した事による付会した伝説です。

即成就院跡 那須与一の墓と伝える石塔 記念山へ・・・
記念山ロッジ跡? 石碑 春日?鬼瓦??(^^ゞヘッ
記念山からの市内俯瞰o(*^▽^*)o
明智光秀が羽柴秀吉との天王山の決戦に敗れて小栗栖へ抜けた道・・・ 光秀もここから眺めた?・・・稲荷山遠望
光秀はこの先の小栗栖で襲撃されて落命・・ 大岩ゴルフセンターのショートホール・・やや打ち下ろしの150yard前後?8番アイアンかな(^_-)-☆
激坂終了!\(●⌒∇⌒●)/ 市内俯瞰o(*^▽^*)oあはっ♪
ヤッホ〜\(●⌒∇⌒●)/ 大岩山山頂にある電波塔
大岩神社

創祀は定かでなく大岩、小岩と呼ぶ2つの神石からなり男神、女神として奉祀したのが起こりで社伝によれば「男女二人の神がそれぞれが胸の病気にかかった際に、互いの献身的な看病によって病を治した事から、胸や心の病を治癒する霊験があるとされます。

伏見桃山ゴルフコース(パブリック) 大岩神社(大岩山々頂:標高182m)
お塚 本殿
大岩(男神石) 小岩(女神石)
大岩神社をあとに・・・ キララくんでつo(*^▽^*)oあはっ♪ 激坂のダウンヒル〜\(●⌒∇⌒●)/
大岩神社参道・・・路端の小川は七瀬川 瑞光寺(元政庵)
瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

当地は極楽寺の薬師堂跡と伝え、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われます。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものである。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努めた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

こま札 茅葺の詫びな山門 境内
三十番神祠(番神塚(藤原塚)跡) 茅葺の庵の風情を醸し出している本堂 石峰寺
ぬりこべ地蔵尊

明治3年(1870)の深草村絵図には、この場所は「ヌリコベ墓」と記されており、江戸時代から信仰があったようです。由来は、歯の痛みを封じ込める意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になったとも言われます。現在も歯の治癒を願って参詣者は絶えません。

歯痛封じに霊験があるという「ぬりこべ地蔵尊」 キララくん(*^-^*) 面白いチュッチュ狐像? (^◇^;)
伏見稲荷大社

欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦伊侶具(はたのいろぐ)によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊侶具との200年足らずの脈絡については、ほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。

千本鳥居とキツネさん ・・・
・・・ 権殿 石灯篭(鎌倉期)
神供水井 ・・・ 稲荷神遣いのキツネさん
社殿 豊臣秀吉が造営した楼門(重文:桃山期)
伏見稲荷大社表参道 伏見稲荷大社神幸道(裏参道)
ゲッツ☆⌒(*^∇゜)v 整備された七瀬川

近鉄京都線

Torist.2009.10.20(M)

 

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