はんなり雅な古都迷走案内「東風コチ吹かば・・・」

 

東風コチ吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主アルジなしとて 春な忘れそ (大鏡)菅原道真

 

八条ケ池、長岡天満宮〜松尾大社〜広沢池、遍照山、遍照寺跡〜北野天満宮〜西本願寺〜新撰組不動堂村屯所跡

 

ぐるっと自転車で京都タイムトリップ「洛南、西、中遍」

京都市は大まかに洛東、洛西、洛南、洛北、洛中エリアに分別されます。世界文化遺産に登録され、修学旅行などで一度は訪れるような有名社寺、他の社寺など時期を変えて再訪すると新しい風情や魅力に出会えます。国指定文化財始め、素晴らしい文化財など見るべきものが数多く、いくら時間があっても足りません。古都・京都を効率よく周る事を考えるも良し、風情を堪能しながら周って再訪するも良し・・・今回、効率良く風情を堪能しながら一気に周ろうと思いましたが、残念ながら拝観時間の都合などで再訪する事となり、毎度ながら?続編コラムになりまつた。(^◇^;)

伏見名物・酒蔵と菜の花ですが、刈り取られています!!! (_ _;) 寒風が無茶強い!!!( ̄▽ ̄;)!!@羽束師橋
菅原道真が大宰府へ流された草津の湊 JR京都線通過・・・ 一文橋(小畑川)
八条ケ池(長岡天満宮)

八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島ツツジ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田候の寄進と伝えます。

西国街道 阪急・長岡天神駅 八条ヶ池
長岡天満宮

一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。

水上橋 長岡天満宮 時代劇でお馴染みのロケーション@八条池
霧島ツツジで知られる参道 乙訓八景『八条ヶ池と霧島ツツジの長岡天満宮』で知られますが、梅も えぇなぁ〜(@^▽^@)
菅原道真歌碑 拝殿 梅林@長岡公園
Wonderful! Beautiful!! o(^o^)o(・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! 日本米じゃ!(・_・)☆ヾ(^^; なんでやねん!!
菅原道真は梅をこよなく愛し左遷の折に「東風コチ吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主アルジなしとて 春な忘れそ」と詠みました。
桜?と思いましたが・・・サクラバイ (^◇^;) 菜の花
物集女(もづめ)車塚古墳

全長約45mの古墳時代後期(6世紀中葉)の東を正面とする前方後円墳で淳和天皇の霊柩車を納めた所と伝わります。俗に大道塚ともいい、道路建設の為に前方部の一部が削られましたが、ほぼ完全な形で残っています。後円部は直径約31m・高さ約9m、前方部は幅38m・高さ8mの規模で埴輪、須恵器、土師器、馬具、刀剣類、装身具など数多く出土しました。

物集女車塚古墳
世界文化遺産・西芳寺(苔寺)

臨済宗系単立寺院で洪隠山(こういんざん)と号し通称は苔寺。創建に関しては不詳ですが、当地にあった最福寺谷ガ堂の一院、西芳寺の名を継承したと思われます。摂津大守・大江師員(もろかず)が建久年間(1190〜99年)に再建したものを、子孫の親秀(ちかひで)が歴応2年(1339年)、夢窓国師を請うじて再興、名も西芳寺と改めたと伝えます。以来、寺運は隆盛に趣き、伽藍の結構と庭園の美は隣国にまで宣伝されました。足利義満・義政も来遊し林泉の美を賞したが、義政は東山殿を造営する時、当寺の庭園に範を求めたと伝えます。応仁の乱や洪水の為に荒廃し、庭園も苔が生えるまま放置された。これが苔寺の起こりです。近年、堂宇を整備し面目を一新したが、庭園は昔のままです。

今も機能する石室の排水溝 世界文化遺産・西芳寺(苔寺)
西芳寺(苔寺)東門 西芳寺川上流へ・・・@京都一周トレイル西山コース
かぐや姫竹御殿・・・竹取物語「かぐや姫」伝説

松尾界隈は古来、名竹の産地で日本最古の物語とされる「竹取物語」(平安時代、作者不詳)も当地で発祥したと伝わり「今は昔、竹取の翁がいた。山野に入って竹を取ってはいろいろなことに使っていた。その翁の名は、さぬきの造(みやっこ)といった・・・・ある時、この翁がいつものように山にはいると1本の光り輝く竹を見つけて切ると中から美しい女の子が現れ、かぐや姫と名付けられる・・・」の一説で始まる「かぐや姫」に因んで当地に住んだ竹工名人・長野清助翁が昭和25年(1950年)7月1日の金閣寺焼失に胸を痛め日本の竹文化、竹工技術保存の為に27年もの年月をかけて金閣寺を模して建てたのが、かぐや姫竹御殿です。

チェーンで仕切られ車両行き止まり! (>_<) 京都一周トレイル「西山No.51(道標)」 かぐや姫竹御殿
鈴虫寺(華厳寺:けごんじ)

鈴虫寺として有名ですが正式には妙徳山と号し元は華厳宗でしたが今は臨済宗永源寺派の寺です。寺内に多くの鈴虫がいて、季節に関係なく一年中鳴いている事から俗に鈴虫寺と言われます。江戸中期の亨保8年(1723年)、鳳潭上人(ほうたんしょうにん)が開創しました。上人は承応3年(1654年)、富山県小矢部市に生まれ12歳にて上洛、比叡山延暦寺で修行し華厳宗の再興に力を注いだ学僧として知られ入学、開運、良縁祈願のお守りに人気があり本堂には本尊・大日如来坐像、鳳潭上人坐像を安置し堂前に掲げる「華厳寺」の扁額は黄檗隠元の筆、左右の聯(れん)は鳳潭の筆によるものです

かぐや姫竹御殿駒札 鈴虫寺(華厳寺) 平治、元弘、応仁、元亀の乱戦火所縁の地
延朗堂

堂は方一間単層の小堂で堂内に延朗上人坐像を安置します。延朗上人は八幡太郎源義家4世の孫と伝わり、叡山で天台密教を極め安元2年(1176年)、当地に来住し松尾山寺(奈良朝末期寺院)の旧知に最福寺谷ヶ堂を建立しました。源義経は丹波国篠村(亀岡市篠町)を寺領に寄せ頼朝もこれにならいました。延朗の弟子・勝月は葉室山(衣笠山)に一宇を建て延朗の廟所とし西山峰ヶ堂法花山寺と号しました。建武元弘の乱に兵火にかかり明徳の乱では山名満幸の軍勢2000騎が丹波より進駐し、ここから桂川を渡って都中に攻め入った事があり中世以降は兵馬の冒すところとなり両寺共に早くに哀徴しました。桂、松尾付近の諸寺には当寺の旧仏とされる仏像が分散所蔵され桂上野町の観世寺が安置する地蔵立像も峰ヶ堂の遺仏と伝えます。

延朗堂 座禅石 唐櫃(からと)越え道標石
月読(つきよみ)神社

天月神命(あめのつきのかみ)を祭神とする松尾大社の境外摂社ですが延喜式内社に記されている葛野坐月読(かどのにいますよみ)神社で京都有数の古社です。日本書紀には顕宗天皇3年(487年)、 阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が任那(みまな)から帰朝の時、月の神から託宣を受けた旨を天皇に奏上したので朝廷は葛野郡歌荒樔田(うたのあらすだ/桂川左岸の有栖川)の地を与え社が創建されたが度々水害を被むるので平安初期の斎衡3年(856年)3月に現地に移されました。かって天月神命(あめのつきのかみ)は長崎県壱岐郡に鎮座したとされ天月神命を壱岐氏が移し祀ったとされ壱岐氏は壱岐、対馬を本貫とし諸国を繁行し山城国では月読、松尾両社の禰宜(ねぎ)となり子孫代々、亀卜(きぼく)に長じ卜部(うらべ)として神祇官に仕えました。古来、痘瘡の神として朝野の崇敬篤く延喜の制では名神大社となり4度の官幣に預かり葛野郡中、第一位に位し木嶋神と並んでその古さを誇っています。本殿右奥にある玉垣内の月延石(つきのべのいし)は安産石ともいわれ社伝によると神功皇后が新羅征伐時にこの石で腹を撫でて心身の安泰を得られた故に安産祈願の信仰があります。月読社の傍にあるから月の辺(べ)石で月延べ石に転じ係る伝説が生じたとされます。

月読神社 駒札 社殿
松尾大社

大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと/中津島姫命(なかつしまひめのみこと))を祭神とする旧棺幣大社で京都最古の神社の一です。文武天皇の大宝元年(701年)、秦忌寸都里(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し社殿を造営しその女・知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させたのが当社の起源で代々秦氏が奉祀しました。平安遷都後、賀茂社と供に王城鎮護神となり賀茂の厳霊、松尾の猛霊と東西並び称されました。大山咋神(おおやまくいのかみ)は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の父神とされ賀茂社とは姻戚関係にあり延喜の制には名神大社となり二十二社の制には第四に班し中世を通して上七社の一に列せられる有数の大社です。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来歴代の行幸、行啓すこぶる多く中世以降は酒造の神として崇敬が篤く氏子地域は京都市の1/3にも及びます

妊婦さんが跨いだと伝える月延石(安産石) 松尾大社 楼門
駒札 撫で亀さん 拝殿
本殿 亀と鯉@神使いの庭 相生の松
神泉「亀の井」 霊亀の滝と瀧御前社(四大神三宮社) 嵐山
渡月橋 嵐電・嵐山駅
時折、雪も散らつく強い寒風!?( ̄▽ ̄;)!! こんな冬日和は、駅の足湯ですな〜!!!たまりませぇぇ〜ん!!!(@^▽^@) @駅の足湯
天龍寺 丸太町通りを東進・・・ 遍照寺山(朝原山:千代原山)と広沢池
遍照山、遍照寺跡

遍照山・・・昔、朝原山(ちょうはらやま:千代原山)とも呼ばれ山は円錐形で全山松樹に覆われ、山の中腹に寛朝僧正が座禅に用いた座禅石や天に昇ったという登天松があり広沢池に映る山容も素晴らしいです。遍照寺跡・・寛朝僧正は早くから当地に広沢山荘を構えていましたが永祚元年(989年)10月、山荘を寺とし遍照寺と号しました。池の畔には釣り殿、月見堂などがあり池中の観音島へ橋を架けたとされかかる大寺でしたが惜しくも早くに荒廃し今は池南に旧名を留めるだけです

観音島 広沢池観音石仏 遍照寺観音堂@観音島
広沢池と北嵯峨の里 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 遍照寺駒札
北嵯峨の里 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 遍照寺山(朝原山:ちょうはらやま 千代原山)@広沢池 きぬかけの道を疾走中・・・o(*^▽^*)o
弁慶足型池 お〜、雪が散らつく冬日和に桜が満開じゃ〜 (@^▽^@) @宇多野病院
世界文化遺産・仁和寺 嵐電北野白梅町線・妙心寺駅 妙心寺
京都市電北野線記念碑

明治27年(1894年)に創立された京都電気鉄道株式会社(京電)のチンチン電車は、明治28年(1895年)2月1日、日本で初めての路面電車として伏見線(塩小路高倉〜伏見油掛)を走らせました。同年9月24日、京都駅附近の七条を起点として東(木屋町通)と西(西洞院から堀川通)から北上し、堀川下立売で合流して北野天満宮に至る北野線が開通しましたが、昭和36年(1961年)7月31日に廃線になりました。

京都市電北野線記念碑 北野天満宮@今出川通り 初雪の日に神が降臨すると伝える影向松
北野天満宮

菅原道真を祭神とする旧官幣中社で北野神社、北野天神とも呼ばれ境内には50種約2000本の梅が植えられ例年2月初旬〜梅苑が公開されます。創建はすこぶる古く、天慶5年(942年)に神霊を勧請し天満天神として崇めたのに始まり藤原師輔(もろすけ)は神殿を造営し神宝を献じ永延元年(987年)、一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得て二十二社の幣例に加えられました。道真は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍しました。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸多く、奉幣祈願の絶える事なく江戸時代には文道の大祖・風月の本主と崇められ全国各地に神霊を勧請し分社が建立され「北野の天神さん」と親しまれ「東寺の弘法さん」と共に市民に崇敬されています。

参道沿いの梅花 (@^▽^@) 道真母・伴氏を祀る伴氏社(ともうじのやしろ)
観音寺 蜘蛛塚と金売橘(吉)次の墓?五輪石塔
蜘蛛塚、忌明(いみあけ)塔

蜘蛛塚・・・石灯篭の残欠火袋を言い、蜘蛛塚は一に山伏塚とも言い、元、七本松通一条上ル清和院の西門前にあって隆然たる墳丘をなしていました。源頼光を悩ませた蜘蛛の棲息していた所と言われ江戸時代には塚の傍で舞台を設け、時々猿楽などを演じると開演期間中に必ず、雨が降るので塚の祟りだと噂されたと伝えます。「京都坊目誌」によれば明治31年に塚を破却したところ石仏や墓標、石塔、石灯篭の破損したものが出土し考証に資すべきものはなかった。ここにある火袋はその時の遺物を移したものと言われます。五輪石塔三基は、元、北野の東、馬喰町の民家裏にあった無名古墳のもので、金売橘(吉)次の墓との説がありますが、信ずるに足るようなものではないです。忌明塔・・・高さ2mに及ぶ巨大な五輪石塔(鎌倉期)で、元は伴氏社(ともうじのやしろ)にあったものを明治4年にここへ移しました。菅公御母大伴氏の廟とも言い、一説には山名氏清塔とも言われ諸説多くして何れにも定め難い。忌明の塔と言うのは昔、父母を亡くした人が49日の喪に服し忌明けの50日目に、この塔に詣る風習があったからで既に室町時代頃から行われていました。尚、忌明塔としては石清水八幡宮、寺町革堂、東山知恩院にもあります。

駒札 忌明(いみあけ)塔 文道の大祖・風月の本主の額を掲げる楼門
参道 散り初めのしだれ梅 (@^▽^@)
太閤井戸 豊公北野大茶湯の跡 天満宮と言えば牛さん・・・撫で牛さんでつ
中門(三光門/重文:桃山期)

後西天皇御宸筆による「天満宮」の勅額を掲げる中門は慶長12年(1607年)11月13日に建立された桃山風の装飾彫刻を施した四脚唐門で梁間に日輪、月輪、三日月の三光を彫刻するので三光門とも呼ばれます。日、月、星が門に彫られているので三光門という説がありますが平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあったので旧大極殿が天満宮の真南に位置し、帝が当宮を遥拝されるにあたり三光門真上に北極星が瞬いていたと伝え星は刻まれていません。本殿は朝廷や将軍家が造営修繕に当たりました。

鼻穴(笑くぼ)に小石を乗せて、落ちずに乗った石を財布に入れると縁起良しと云う大黒組灯籠 豊臣秀頼が再建した中門(三光門)
「平家物語」ゆかりの綱灯籠

渡辺綱が、寄進したと伝える鎌倉時代中期の灯籠。綱灯篭には、次のような伝説がある。「平家物語」(屋代本)剣巻に、渡辺綱が夜更けに主の使いで道を急いでいた時、一条戻り橋で、美しい女御に出会った。女御に夜も更けたので送って欲しいと頼まれ一緒に馬に乗せた。ところが五条渡し場辺りで美しい女御は、たちまち恐ろしい鬼女となり、綱の髻をつかんで空中に舞い上がった。綱はとっさに刀を抜き、髻をつかんでいる鬼女の腕を切り落とした。そのまま空中に放り出された綱が落下したのが、北野天満宮回廊の屋根上・・・命拾いをした綱は、道真公の御加護として石灯籠を寄進したと記されます。

天満宮やなぁ〜 (@^▽^@) 綱灯篭 檜皮葺の本殿(国宝:桃山期)
本殿(国宝:桃山期)

慶長12年(1607年)、豊臣秀頼が造営したもので、この時に作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉等も現存しています。この社殿造営は、豊臣秀吉の遺志であったと伝えます。古来、神社祭祀は庭上で行われていたので、壮大な殿内で祭典を執行する当宮現社殿の出現は神社建築史上画期的なものとされます。八棟造と称され総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く大威容は、造営当時の豪華絢爛な桃山文化を伝えます。

「八棟造:やつむねづくり」と呼ばれる社殿 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
京都最古の花街・上七軒(かみしちけん)

祇園を初め幾つかの花街がありますが、上七軒は最も古く、室町時代に北野天満宮造営に使った残木で七軒の水茶屋を建てたのが起こりと伝えます。豊臣秀吉が北野で大茶湯をした時、七軒茶屋に立ち寄ったところ、お茶屋の者が御手洗団子(みたらしだんご)を献じたので、その賞とて山城一円の茶屋株(遊女屋)の特許を与えたと伝えます。江戸時代、北野天満宮の参拝者を対象とし大いに栄えましたが、後に遊女屋渡世の者が内野五番町に出店を出すに及んで漸次、芸妓を主とするに至りました。特に西陣を近くに控えているので顧客は、専ら西陣の機業家を主とし、他の花街と比して比較的地味、古風が特色です。昭和35年に於いてお茶屋は32軒、芸妓は40名弱でした。今でも10軒のお茶屋と飲食店が軒を連ねて往時の面影が残っています。毎年春(4/15〜4/25)には「北野をどり」、秋には「寿会」が上七軒歌舞練場(北野会館)で催されます。

名物・おやき(やきもち)・・・売り切れもあるようですが10ヶゲット!美味でごじゃります〜(@^▽^@) 京都最古の花街・上七軒
京都最古の花街・上七軒 「北野をどり」、「寿会」が催される上七軒歌舞練場(北野会館)
晴明神社

平安時代中期の陰陽師・安部晴明を祭神とし倉稲魂命(うがのみたま)を合祀します。安倍晴明は平安時代中期、花山天皇、一条天皇に仕えた陰陽師で物事の吉凶を占うなど両天皇、藤原道長に重宝され活躍しました。天文学に通じ暦算、ト占、推歩の術を極め一条天皇の御代に天文博士となりました。かって、花山天皇が密に宮中を逃れ出て山科花山の元慶寺で出家された時、晴明は自宅で天の星座の急変を知り、天子位の去るの象であると急ぎ参内し伝えたと言います。また、式神(職神)を自由に駆使して人を驚かせたなど伝説が多く残ります。当地は安部晴明の屋敷跡と伝え、寛弘2年(1005年)、晴明が74才で没した2年後の寛弘4年(1007年)、一条天皇の勅願により屋敷跡に晴明神社を創建され安部神道は、朝廷の庇護を受け子孫は永く栄えました。境内には晴明の念持力で湧出したと伝える晴明井があり、病気の治癒平癒にご利益があると言われます。境内、社殿などに魔除けの力があるという晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)があしらわれています。今年も晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)の御符シールをゲットしまつた・・・今年も、お守りくだされ〜晴明さまっ!!!σ(^◇^;) 宜しゅう頼んます!!!

晴明神社 ミニチュア版一条戻橋と式神像 駒札
晴明神社(安部晴明屋敷跡) 千利休聚楽屋敷跡
晴明桔梗紋形(五芒星、セーマン)の晴明井 駒札 厄除桃
晴明の由緒 晴明と渡辺綱 晴明桔梗紋(五芒星)が刻された拝殿
一条戻橋

名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜、この橋の畔で容貌美しい女御に出会ったが、川面に映る鬼女の形相によって正体を知り遂に鬼女の片腕を斬り落とした・・・これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避け、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと云われます。

一条戻橋 駒札 京都市電(旧京電)・北野線の中立売橋梁
史跡「伊藤仁斎古義堂跡、並びに書庫」 二条城通過・・・ 新撰組屯所ゆかりの太鼓楼(西本願寺)
新撰組屯所だった世界文化遺産・西本願寺

西本願寺・・・浄土真宗本願寺派の大本山で正しくは本派本願寺と号します。親鸞上人の末女覚信尼が亡父の遺骨を奉じて東山大谷に廟宇を創建し上人の御影を安置して御影堂と称したのが、起こりで戦国乱世に会して各地を転々として天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により現在地に移り、慶長年間、大谷派分立があったが大きな動揺もなくその後300余年間宗門体制維持に努めました。特に幕末の動乱、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)後の仏教界の指導的立場にありました。元和3年(1617年)の火災で諸堂を焼失しましたが、伏見城、聚楽第から豊臣秀吉所縁の建造物が移築され、華麗な桃山文化を偲ばせます。唐門(伏見城遺構:日暮門/国宝:桃山期)は、伏見城から移築され御影堂(重要文化財)は、親鸞聖人の荼毘(だび)の灰を漆に混ぜて塗ったと伝えられる坐像を安置するが、現在屋根などを大改修中です。天井や障壁画の絢爛な装飾で知られる書院(国宝)には203畳の対面所、虎渓(こけい)の庭(史跡・特別名勝)、天正9年(1581年)建立の日本最古の能舞台(国宝)がなどがあります。新撰組屯所・・・元冶2年(1865年)〜寺の北集会所、太鼓楼などを新撰組が慶応3年(1867年)6月15日まで屯所として使用しました。新撰組は、蛤御門の変で惨敗して西本願寺に逃げ込んだ長州兵を広如上人が、法衣を着せて逃がそうとした事に立腹、会津藩兵と共に西本願寺を焼き払おうとしましたが、一橋卿の仲裁と隊士が130名を越え壬生の屯所が手狭だった事もあり、元冶2年(1865年)、本堂の北にあった600畳の北集会所、太鼓楼などを占拠し壬生屯所から移転しました。西本願寺と長州藩との関係も牽制した一石二鳥の屯所移転とされ、北集会所(現在は姫路市(亀山)本徳寺に)、太鼓楼が屯所となり殺生を禁じた寺院内では拷問、切腹、斬首に加え境内では、剣術、大砲の訓練、実弾射撃までもが行われ隊士の体力をつける為に鶏、豚を飼い悪臭が漂い屠殺される家畜の声が寺中に響くなど参拝の門信徒、僧侶らを震撼させ困り果てた西本願寺は、会津藩公用方に改善要望を再三に出していました。江戸時代末期に姫路市の(亀山)本徳寺が火災で焼失した為、西本願寺から屯所跡(北集会所)などを移築、柱には刀傷などが多数残っています。明治維新後、新撰組結成時からの隊士・島田魁が本願寺の守衛を勤めて太鼓番をしていたと伝えます。

世界文化遺産・西本願寺(阿弥陀堂門) 阿弥陀堂(総御堂/重要文化財:江戸期) 改修工事中の御影堂(重文:江戸期)
新撰組不動堂村屯所

新撰組が西本願寺から不動堂村へ屯所を移転したのは、近藤らが幕府直参になった5日後の慶応3年(1867年)6月15日で移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」中井貴一が演じた主人公)が西本願寺との交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担する事になったと伝わります。不動堂村屯所は興正寺の下屋敷ともいわれ屯所の広さは1万uの大名屋敷並の規模を持ち、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の部屋、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋を構え大風呂は一度に30人が入れたそうです。ここに居たのは慶応3年(1867年)6月15日〜屯所が伏見奉行所へ移される同年12月12日までの半年足らずでした。近藤勇の妾宅が屯所近くの堀川通塩小路上ル辺りにあったとされます

興正寺 新撰組不動堂村屯所跡
解説碑 新快速通過・・・JR京都線(東海道本線) はるか通過・・・
オーシャンアロー通過・・・ 鴨川通過・・・@京都南大橋
伏見桃山城遠望 油小路通り 酒蔵@新高瀬川
Tourist  2007.03.12(M)

 

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