はんなり雅な古都迷走案内「名をきけば・・・」

 

名をきけば かげだに見えじ みどろ池 すむ水鳥の あるぞあやしき (家集)和泉式部

 

東福寺〜宮川町〜建仁寺〜祇園社(八坂神社)〜南禅寺〜熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社〜哲学の道〜吉田神社〜知恩寺〜下鴨神社〜深泥池〜上加茂神社

 

天然記念物・深泥池(みどろがいけ:みぞろがいけ)と鬼伝説

深泥池・・・加茂の東、鞍馬街道畔にあり三方を山に囲まれ美度呂池、洫呂(みぞろ)池、泥濘(ぬかるみ:でいねい)池とも記され早くから正史に現れ淳和天皇は、当地で水禽の遊猟をされた事がある。僧・行基が当地で修法をした時、弥勒菩薩が池上に現れた俗に御菩薩池(みぞろいけ)とも言われます。池は周囲約1.8km、水深最深部1.8m内外に過ぎないと言われますが水底は泥土の堆積が厚いので深さ3.6mを越える所もあり池名はこれに因んだと伝えます。池中には、氷河期の生き残りと言われる水生植物を始め、昆虫、魚類、野鳥等が共存し、学術的にも貴重な池です。 昭和2年(1927年)、国の天然記念物に指定され、昭和63年(1988年)に生物群集全体に対象が広げられました。豆塚、桝塚・・・深泥池付近に散在する古墳の一と思われる豆塚は磨滅塚とも記し池の東北隅、桝塚は池の西200m山麓と伝えますが所在を明らかにしません。「京都民族史」によると都の北に鬼が暴れて困っていたところ、鬼の会話を密に聞く人があって、鬼は貴船谷より地下道を通って池畔から這い出す事が分かった。それで鬼の嫌う豆を出口の穴に投げ込み塞いだら鬼が出なくなったと伝えます。節分に当地に豆を捨てにくる風習があったと伝えます。

JR奈良線・稲荷駅 国鉄最古の建築物・ランプ小屋 稲荷大社
阿保(あぼ)親王

平城天皇の第一皇子。母は葛井道依の娘藤子で桓武天皇の孫にあたり、妃は桓武天皇の皇女・伊都内親王。在原行平、在原業平などの父。弘仁元年(810年)、「薬子の変」に連座して大宰権帥に左遷され、弘仁15年(824年)に平城上皇が亡くなった後、嵯峨天皇によって入京を許される。その後、上野国、上総国の太守や治部卿、兵部卿、弾正尹等を歴任。天長3年(826年)、行平以下の子供等に在原姓を賜わり臣籍降下させる。だがこうした配慮にもかかわらず、嵯峨天皇が宮廷内の権力を固める中、嫡流の地位を失ったとは言え、桓武天皇の嫡系の孫である阿保親王の動向は注目の対象でした。ついに橘逸勢らから「承和の変」の計画を相談されるが、親王は与せずに、逸勢の従姉妹・皇太后・橘嘉智子に密書にて判断を委ねた。変の直後に急死した為、橘逸勢らの祟りによって殺されたと噂されたと伝える。

阿保(あぼ)親王塚 東福寺塔頭・正覚庵(筆寺) 境内
東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万u)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として藤原忠平が建立した法性寺(ほっしょうじ)に関白・九条道家(藤原道家)が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の一字づつを採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で法堂は未だ再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は応永年間(1394〜1428年)の再建で禅宗寺院三門中最古です。

廃筆の労を謝する塚を築いた筆塚 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 禅宗三門では最古の三門(国宝:室町期)
禅宗寺院便所の古形式を伝える珍しい遺構の東司(重文・室町期) 解説
仏殿 京都最古の浴室(重文・室町期) 境内
Beautiful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! 通天橋@臥雲橋(がうんきょう)
瀧尾神社

「源平盛衰記」にその名を残す事から、創建は平安期とされます。元、洛東聾ノ谷にあり、武鶏(たけう)の社と称され、応仁元年(1467年)に兵火にかかった為に移転し多景(たけ)の社として再建されました。後の天正14年(1586年)、豊臣秀吉が東山に方広寺大仏殿を建立するにあたり、現在地に移されました。宝永年間(1704〜11年)に社殿を修理し、瀧尾神社と改称して今日に至っています。

伏水第二橋遺構 瀧尾神社には、牛若丸所縁の遥向石があったのですが・・・(((・・ )( ・・)))・・・ない?!
春の風物詩?鴨川縁の桜と水鳥そして・・・ブルちゃん!(爆) ブルちゃんのズーム、いっとこか! (^_^ゞ
宮川町

松原橋を渡った鴨川の東岸に沿って南北に連なる京都市に於ける花街の一で格子づくりのお茶屋が軒を連ね他の花街に見られぬ風情を呈しています。江戸初期の寛延年間(1748〜50年)、鴨川の積地を開き町地とし北の1丁目〜南の8丁目に至る道路を設けこれを宮川筋と呼びました。宮川とは、四条より五条に至る間の鴨川を称したもので毎年7月10日の夜、四条大橋上に於いて祇園祭の「神輿:みこし洗い」の式に橋下の水を汲んで祓いを行う事から宮川という名が起こりました。

Beautiful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! 花街・宮川町と言えば・・・京おどり 平重盛(一説に教盛)の館門を移築した勅使門
日本最古の禅宗本山寺院・・・建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山です。開山・栄西禅師は鎌倉時代の建仁2年(1202年)、源頼家(開基)の帰依を得、中国の百丈山の殿舎を模して建立したのが起こりで土御門天皇は勅願寺とされ、当時の年号によって建仁寺の号を賜りました。創建当時は天台、真言宗の旧仏教勢力が強く天台、真言、禅の三宗兼学を建前とし比叡山の末寺という形で止観院、真言院を設けたが大覚禅師(蘭渓道隆)の時に禅宗のみの寺に改めました。以来、武家の信仰を集め足利義満が五山制度を設けると当寺は第三位となったが中世の兵乱にしばしば罹災しました。天正年間(1573〜1592年)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺の恵瓊(えけい)によって復興されましたが仏殿は未だに再建に至らず法堂(はっとう)との兼用になっています。

明和2年(1765年)に創建された法堂(はっとう) 寛永5年(1628年)に創建された浴室 茶碑
建仁寺をあとに・・・ 祇園と言えば・・・花見小路
祇園新地(甲部)歌舞練場

京都には、五つの花街(かがい)がありますが、その一つの祇園甲部の芸妓さんや舞妓さんの踊りの練習場として建てられたもので、客席はおよそ1,200席ほどあります。毎年春に「都をどり」が開催される事で有名です。同じように花街の一つである先斗町には先斗町歌舞練場があり、「鴨川をどり」が例年開催されます。

祇園新地(甲部)歌舞練場 仮名手本忠臣蔵でも知られる一力亭 祇園の町並み
祇園の桜と言えば・・・白川の桜
祇園の町並み 狸を祀った辰巳大明神 巽橋(たつみばし)
祇園社(八坂神社)

創建は甚だ古く、諸説多く明らかでないが、斉明天皇2年(656年)2月、我が国に来朝した高麗の調進副・伊利之使王(いりしのおおきみ:八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま)に祀る素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊を移し、子孫代々当社の祀官として奉仕したと伝える事から初め、八坂氏の氏神として創祀されたと思われます。天智天皇の御世、社号を感神(かんじん)院と名付けられ、以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改める迄、この社号を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と号し、朱雀天皇の承平4年(934年)に、傍らに薬師堂を創建し観慶寺と号し、別に祇園寺とも呼んだ為に甚だ紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴するに及び中世には、感神院は延暦寺の別院となり、祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地になりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬篤く、延喜式外社ではあるが、二十二社の内に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及んだが、明治の神仏分離令にあたり寺院を廃し神社のみ残った旧官幣大社です。

祇園らしい風情 八坂神社 境内
本殿 円山公園と言えば・・・しだれ桜
国内最大級の知恩院山門 知恩院七不思議の一・瓜生石 青蓮院門跡
王朝絵巻の再現・・・平安神宮

明治28年(1895年)、平安遷都1100年を記念し桓武天皇、孝明天皇を祭神として創建された旧官幣社で京都市民の氏神として崇敬されています。社殿は大内裏の約2/3に縮小して模造されているのが特徴で平安京創建当時を偲ばせています。応天門は五間三戸、入母屋造り、丹塗りの勾欄を廻らした二層楼門で大極殿(拝殿)は入母屋造り、屋根は碧瓦葺とし棟の両端に燦然たる金色の鵄尾(しび)を載せ中央身屋(もや)の四周に廂間(ひさしのま)を備えます。大内裏八省院の正殿大極殿を模したとされ52本の朱塗りの円柱が整然と列立する様は壮観で本殿は東西に並ぶ二棟の社殿からなり右に桓武天皇、左に孝明天皇を祀り檜の白木造りで四周に透塀を廻らせています。

高さが24.4mもある日本最大級の大鳥居 平安神宮 蕾み膨らむ?しだれ桜@南禅寺参道
南禅寺、三門(重要文化財:江戸期)

南禅寺・・・臨済宗南禅寺派の大本山で正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺と号します。文永元年(1264年)、亀山上皇が母・大宮院の御所として造営した離宮禅林寺殿を正応4年(1291年)、離宮を大明国師(無関普門)に寄進し禅林禅寺としたのが開基と伝え、建武元年(1334年)、後醍醐天皇は大徳寺と当寺を五山(天竜、相国、建仁、東福、万寿)の上位に列しました。中世には叡山の僧徒の焼き討ちや応仁の兵火に焼亡し廃絶に帰せんとしたが豊臣秀吉、徳川家康の庇護により復興に及びました。家康の厚い信任を得た塔中・金地院の住持・以心崇伝(いしんすうでん)に負うところが大きく多くの文化財を今に伝えます。三門・・・寛永5年(1628年)、藤堂高虎が寄進した巨大な楼門で天下の大盗賊の石川五右衛門が住まいしたと伝えますが三門は石川五右衛門の死後、約30年後に建てられました。

南禅寺 石川五右衛門で有名な三門(重文:江戸期) 永観堂
熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社

社伝によると永歴元年(1160年)、後白河法皇が近くの永観堂の守護神として熊野権現を勧請して建立した若王子の鎮守社で社名は天照大神の別称の若一王子に因んで社名とされました。以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、 寛正6年(1465年)3月、足利義正により花見の宴が催されました。後の応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され社殿及び境内が整備された現在の社殿は昭和54年(1979年)、一社相殿に改築されたもので以前は本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていました。

熊野若王子神社 境内 桜苑へチャリチャリ・・・
山歩きをされていた地元の方?に薦められて登って来た桜苑 (^∧^)・・・Wonderful! Beautiful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
河津桜でしょうか?この日見た桜で最高!!!正に「男は男気!花は桜木!!」・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@) 市内俯瞰@桜苑
哲学の道

大正時代、京都帝国大学(京都大学)の哲学者・西田幾太郎や経済学者・河上肇などが散策しながら思索にふけった事に因んで命名されたと伝えます。北は銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋から琵琶湖疏水分線に沿って南は若王子橋までの全長約1.8kmの散策路として市民や観光客に親しまれています。春は桜の名所としても知られ見事な桜並木は日本画家・橋本関雪画伯の夫人が絵画が売れた時、桜の苗木を買い当時、荒れていた小道沿いに植樹され現在の見事な桜並木道に至るとも伝え「日本の道百選」にも選ばれています。

桜並木が美しい哲学の道をチャリチャリ・・・疎水分線は京都では珍しく南から北へ流れます。 桜、さくら、サクラ・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@)
吉田神社

社伝によると、清和天皇貞観元年4月(859年)中納言・藤原山蔭(やまかげ)が春日の四神を勧請し平安京の鎮護社として吉田山に創建される。爾来永延元年(987年)、一条天皇の行幸を始め正暦2年(991年)に大社の一に列せられ、堀河天皇嘉承元年(1107年)四度官幣に預る等、皇室の崇敬極めて厚く、殊に神職吉田兼倶が吉田神道を創設し、後土御門天皇文明16年(1484年)、斎場所・大元宮(だいげんぐう)を造営してより益々隆盛し、神道界の絶大なる権威を保持し現在に至ります。建御賀知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いはいぬしのみこと)天之子八根命(あめのこやねのみこと)比売神(ひめがみ)の四座を祭神とします

哲学の道@銀閣寺橋 吉田神社@今出川通 吉田山々頂も行っとこか!(^_^ゞ
大文字山@山頂公園 吉田山三等三角点(105.12m) 吉田神社斎場所・大元宮の桜
日本中の神を一度に参拝できる大元宮 吉田神社境内
本宮 吉田神社 旧街道脇にある二体の大日如来坐像
子安観世音(阿弥陀如来座像:鎌倉時代)

白川村(北白川)の入口にあたる辻に大きな石仏の阿弥陀如来坐像祀られています。地元では、「子安観音」、「安産地蔵」として信仰されています。豊臣秀吉が、この地を通りかかった時、この石仏を気に入り聚楽第に運ばせました。すると夜になると石仏が不気味なうめき声をあげるので、この地に返されたと伝え、一に「太閤の石仏」とも呼ばれます。

お待たせ〜@今出川通 太閤の石仏とも呼ぶ子安観世音@今出川通 知恩寺
知恩寺

長徳山功徳院(ちょうとくざんくどくいん)と号する浄土宗鎮西派四ヶ本山の一で百万遍(ひゃくまんべん)と通称する。慈覚大師円仁の開創と伝え加茂の神宮寺として烏丸通今出川上る付近にあった天台別院で丈六の釈迦如来像を安置していた事から「今出川の釈迦堂」、「加茂の河原屋」とも称した。法然上人は加茂社を崇敬するあまり、当寺を念仏道場とした。それを法然の弟子・源智上人は平重盛の孫、備中守師盛卿子息、平家滅亡後に法然上人の弟子となり、上人滅後、法然の御影を安置し、その恩志に報いる志から徳院知恩寺と寺名を改めた。俗に百万遍(ひゃくまんべん)と言うのは、元弘元年(1331年)8月、第8世・善阿上人の時、天下に疫病が流行し、上人が勅命により参内し、禁中に於いて、修法を行い一、七日を期して唱名百萬遍に及んだところ、疫病が忽ち止み、後醍醐天皇から、弘法大師御作、利剣の名号並びに百萬遍の号を賜わったと伝えます。以後、世に災疫ある毎に祈願の勅命を受け、天下泰平祈願の念仏を修したから百万遍念仏道場会うとも称されました。創建以来、160年旧地にあったが足利義満が相国寺の建立にあたり、一条油小路の北に移り、更に応仁・永正の兵火で罹災し、江戸初期の寛文2年(1662年)、第39世・光誉満霊上人によって再興され今日に至ります。釈迦堂前にある見える経石は平重盛が平家一門の後生安楽の為、宋国へ砂金を贈った返礼として宋国より九州宗像大社へ贈られたものを江戸時代に模刻したもので市内に現存する阿弥陀石二基の内の貴重な一です。

境内 平重盛ゆかりの阿弥陀石(模刻) 加茂川(左)、高野川合流地@加茂大橋
河合神社

鎮座の年代は、不詳であるが神武天皇の御代から遠くない時代と伝えられ下賀茂神社の第一摂社で延喜式に記された古社です。古来、鴨河合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそやけ)神社が社名と伝えます。鴨河合というのは、古来の地名の事で天安2年(858年)、名神大社に列せられ寛仁元年(1017年)に神階正二位、元暦2年(1185年)には正一位に叙されました。社殿は延宝7年(1679年)、式年遷宮の際のものを修復しました。祭神は神武帝の生母の玉依姫命(たまよりひめのみこと)で玉依姫命は安産、育児、縁結びなどの女性の守護神として信仰されています。「方丈記」著者の鴨長明はこの河合神社の禰宜の家に生まれたが、諸事情によって禰宜を継ぐことができなかった。この事から強い厭世感を抱くようになり、やがて「方丈記」を書くにいたったと伝えられます。

世界文化遺産・下鴨神社 参道 河合神社四脚中門
伏見日野で鴨長明が住まいした方丈 駒札 幣殿、本殿
史跡・糺の森(ただすのもり)

糺の森は、高野川と鴨川が合流する三角州地帯の森林を総称します。かつて、約495万u(約150万坪)の原生林でしたが中世の戦乱や明治4年の上知令によって現在の約12万4千u、東京ドームの約3倍に縮小されました。現在、全域を国の史跡として保存されています。旧山代原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林で、ケヤキ、ムク、エノキなど約40種、樹齢200年〜600年の樹木約600本が生い茂り樹林の間には奈良の小川、瀬見の小川、泉川、御手洗(みたらし)川の清流があり市民の憩いの場として古くから親しまれています。源氏物語、枕草子を始め数々の物語や詩歌管弦に謳われた名所旧跡です。

幽邃な史跡・糺の森 神木とリアディーラー不調のキララ! (^_^ゞ ナラ林を流れる奈良の小川と御手洗
手水舎(御手洗:みたらし)

説明札によると手水舎を御手洗(みたらし)と呼び、糾(ただす)の語源として直澄(ただす)と名付けています。手洗石は神話伝承から舟形の磐座(いわくら)石で、左側の樋には糾の森の主と呼ばれていた樹齢600年のケヤキが使われています。覆屋(おおいや)は伝承の記録をもとに再現した透塀(すきへい)です。京都三大祭の一、葵祭の主役・斎王代(さいおうだい)の斎王代禊之儀(みそぎのぎ)が行われる御手洗池は御手洗社(井上社)前にあります。

樹齢600年のケヤキと舟形磐座(いわくら)石 駒札 下鴨神社参道
世界文化遺産・下鴨神社(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ)

正しくは賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称し祭神は上加茂神社の祭神・別雷命(わけいかづちのみこと)を生んだ玉依姫命(たまよりひめのみこと)と祖父・加茂建角身命(かもたけつぬのみこと)を祀る加茂氏の氏神社です。地勢によって上加茂神社を上社と言うのに対し当社は下社と言いますが行幸、斎王、式年造営などは同日に行われます。両社を称して加茂神社と言います。鎮座地は糺の森の中にあって朱の鳥居や楼門が緑に映えて一しお目立ち、桧皮葺の典雅な社殿と相俟って王朝時代さながらの景観を呈しています。本殿(国宝:江戸期)は三間社、流造り、桧皮葺で上加茂神社本殿と同形式からなる流れ造りの典型で文久3年(1863年)の再建です。他に幣殿を始め55棟からなる多々の社殿(重文:江戸期)は何れも寛永5年(1628年)の造替ですが全体に古式を留め、昔の貴族住宅を偲ばせています。境内には摂社、末社が多く中でも三井神社は「山城国風土記」に記された蓼倉里三身(たでくらのさとみ)社とあるのは当社とされます。井雲井於(いづものいのえ)神社は一に比良木社とも呼ばれ下鴨の地主神ですが厄除けの神としも崇敬され願いが叶うとお礼に柊を献ずる慣わしがあります。御手洗社は井上社とも言い井泉の神瀬織津姫を祀り社前の池で御手洗会、夏越の祓が行われます。河合神社は本社より南、糺の森中に鎮座する摂社の一で玉依姫命と上下加茂社の苗裔(びょうえい)神を祀る延喜式内の大社です。

楼門(重要文化財:江戸期) 境内(舞殿) 輪橋(そりばし)と光琳の梅(御手洗川)
御手洗社(井上社)と御手洗池 駒札 本殿(国宝:江戸期)
楼門と楼門廻廊(共に重要文化財:江戸期) 幽邃な史跡・糺の森 都富士と称される比叡山と高野川
ズームいっとこか! (^_^ゞ 桜並木と疎水分水路 五山の送り火「妙法」の「妙」@松ヶ崎西山
天然記念物・深泥池(みどろがいけ:みぞろがいけ)

加茂の東、鞍馬街道畔にあり三方を山に囲まれ美度呂池、洫呂(みぞろ)池、泥濘池とも記され早くから正史に現れています。周囲はおよそ1.5km、面積は約9haで、池中に浮島が存在します。 氷河期の生き残りとされる水生植物を始め、昆虫、魚類、野鳥等が共存し、学術的にも貴重な池です。 昭和2年(1927年)、国の天然記念物に指定され、昭和63年(1988年)に生物群集全体に対象が広げられました。

幽邃な雰囲気を醸し出している国指定天然記念物・深泥池(みぞろがいけ:みどろがいけ)・・・池をの〜んびり眺めながら ( ̄。 ̄)c[]~~~
水質は、良いようです。。。 深泥池をあとに・・・ 明神川守護神の藤木社、楠は樹齢約500年
社家の家並みと明神川 上加茂神社(二の鳥居)
世界文化遺産・上加茂神社(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ)

正しくは加茂別雷(かもわけづち)神社と称し加茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祭神とします。下鴨の加茂御祖(みおや)神社を下加茂(鴨)神社と称するのに対して当社は上加茂神社と称し両社を併せて加茂神社と称します。『山城国風土記』の逸文によると日向国より当地に来住した加茂建角身命(たけつぬみのみこと)は伊可古夜日女(いかこやひめ)をめとって玉依日子(たまよりひこ)と玉依日売(たまよりのひめ)をもうけました。ある日、玉依日売が瀬見の小川(加茂川)で丹塗の矢とは乙訓郡にいます火雷命(ほのいかづちのみこと)である伝々と記しています。別雷といい、火雷といい、雷神は農作に必要な水を給与する神として古代農民から崇敬されました。この崇敬の心を神話化したのが『加茂伝記』です。従って両社の創建は、すこぶる古く欽明天皇の時代には既に現在の葵祭である加茂祭が存していたと伝えます。平安遷都には王城の守護神とされ伊勢神宮に次ぐ崇敬を得、歴代の皇女が斎王として奉仕されました。延喜の制には名神大社に列し多くの神領が寄進され中世には山城国一ノ宮として社運は隆盛を極めました。本殿(国宝)は三間社、流造り、檜皮葺。権殿(国宝)と東西相並び他の四十棟(重文)とともに世界文化遺産に登録されています。664,000uに及ぶ広大な神域内には幾多の檜皮葺の典雅な社殿が建ち並び、王朝時代さながらの景観を呈しています。

御手洗(みたらし)の手水石は舟形の磐座石 楼門(重要文化財:江戸期) 本殿(国宝:江戸期)@中門
楢(なら)ノ小川 立砂と細殿 御所桜
斎王桜 競馬会(くらべうまえ)神事がある参道(馬場) やきもちの店が閉まってますがな! (T_T)
鴨川沿いの遊歩道へ・・・ 紅しだれ桜で知られる半木(なからぎ)の桜並木道
半木(なからぎ)の桜並木道 鴨川沿いをチャリチャリと南下・・・
見事に咲き誇るユキヤナギ 三条大橋 四条大橋
五条大橋 鴨川縁の桜並木
七条大橋 鴨川を浚渫するガリガリくん?!ブルちゃん! (^_^ゞ オーシャンアロー@JR東海道本線
巨大ロウソク!!!京都のシンボル・京都タワー

新幹線@塩小路跨線橋

夕陽に照らされる京の玄関口の京都駅

夕陽に輝く鉄路・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@)

キララのリアディーラーのメンテ終了!!!! m(_ _)m

想定外のナイトランになりました・・・@R1 (^_^ゞ

Tourist  2007.03.26(M)

 

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新撰組

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