京街道をゆく・・・伏見宿、淀宿、八幡、橋本チャリ探訪

 

行く雲の うき田の杜の 村時雨 過ぎぬと見れば 紅葉してけり  源 兼氏

 

西岸寺(油懸地蔵尊)〜金井戸神社(三栖神社)〜三栖閘門、伏見港〜妙教寺〜与杼(淀)神社、淀城跡〜涼森神社〜橋本

 

京街道と伏見、淀、枚方(ひらかた)、守口宿

文禄3年(1594年)、伏見と大阪に城を構えた豊臣秀吉は双方の城下町を最短で結ぶ為、文録3年(1594年)〜慶長元年(1596)にかけて淀川沿いに淀堤(文禄堤)を構築し堤防上に道を築いて京街道(大阪街道)が誕生しました。元和5年(1619年)に大阪が徳川幕府直轄になり大阪城(京橋口)北の京橋を起点とし京都の鳥羽口と伏見の京橋を終点としていた京街道は経済的地位が高まった大阪を重視して、三条大橋を終点としていた東海道に直結され京街道は東海道となりました。この街道は参勤交代で江戸へ向う西国大名が往来する街道筋になりました。これは、西国大名が京都入りした時に朝廷と接見する事を幕府が警戒した為と伝えます。街道としての役割が大きくなると共に伏見、淀、枚方(ひらかた)、守口に宿場町も整備されました。慶長9年(1604年)、南浜に伝馬所が設置され、伏見は東海道54次目の宿駅となり伏見城々下町、京都市中の玄関口として発展しました。伏見宿は墨染通〜宇治川までの南北約4.6km、京町通〜高瀬川までの東西約1kmの細長いエリアでした。江戸時代、伏見は幕府の直轄地で伏見奉行が支配する大きな町でした。他の宿場町に比して大変大きく、人口、家屋数の違いは歴然で伏見宿2万4227人に対して淀宿2847人、枚方宿1549人、守口宿764人でした。又、伏見宿の本陣4軒、脇本陣2件を比しても淀宿は本陣、脇本陣共に0件、枚方宿、守口宿は共に本陣1軒で、いかに多くの西国大名が伏見に宿泊したかが推察できます。しかし、旅籠の数は伏見宿39軒、淀宿16軒、枚方宿69軒、守口宿27件ありました。これは伏見宿に寺院や藩屋敷が多く存在したので宿泊施設を旅籠で全て賄う必要がなかった事が一因と言われます。枚方宿の旅籠には飯盛女と呼ばれる女性を多く抱えて遊興性の高い宿駅として特化していたので商人や旅人たちは伏見宿を通過して枚方宿まで足を延ばしたとも言われます・・・( ̄▽ ̄;)!

西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

芭蕉句碑 芭蕉翁塚、任口上人駒札 西岸寺(油掛地蔵尊)本堂

四つ辻の四つ当り

伏見別院(伏見幼児園)の門前で東西南北のいずれからも突き当たりになっています。昔の攻防兵学上からの町割りによるものと伝えます。伏見別院(伏見幼児園)は、慶応4年(1868年)1月2日、伏見・京橋から上陸した会津藩先発隊約200名が寄宿しました。午後4時頃、薩摩藩と談判中に鳥羽方面からの砲声が響き伏見の戦いも開戦したとも伝えます。

油掛地蔵尊 西岸寺(油掛地蔵尊)駒札 四つ辻の四つ当り

問屋場、伝馬所、助郷

伏見は大半が町屋で企業として他の仕事がなく、馬や荷物を継ぎ立てをする伝馬は100頭(伏見67頭、六地蔵33頭)もの馬を維持するのが困難でした。そこで幕府が認めたのが、助郷でした。宿の人や馬が不足した時、近隣の指定された村が人や馬の応援を出すというもので大名行列などでは他の宿駅でも利用されました。伏見宿は宇治川北部、久世郡、桂川と鴨川合流北部地域(鳥羽村)と広範囲に30ヶ村が助郷に指定されていました。

伏見七名水「白菊水」 酒蔵 問屋場跡(月桂冠本社)
標石(大坂舟乃り場大津、奈良、宇治、京道など) 南浜町・伝馬所跡(推定地)

伏見宿の本陣、脇本陣

本陣は大名や幕府の役人など高位な人が宿泊する宿で本陣に泊りきれなかったり本陣が利用できない時に使われたのが脇本陣です。伏見宿には南浜町と山崎町に各2軒の本陣、南浜町と京橋町に各1軒の脇本陣がありました。元和9年(1623年)、伏見城が廃城になり大名屋敷が江戸や駿府(静岡県)などへ移転すると伏見宿の中心地は本陣のある京橋辺りになりました。鳥羽・伏見の戦いで伏見の町は殆どが焼失し本陣、脇本陣遺構は何も残っていません。今回は、資料などを基に私的に推定して周ってみました。

宇治川派流 南浜町本陣、脇本陣跡

お酒の資料館(黄桜)

お酒の資料館内 伏見七名水「伏水」
風情ある酒蔵(黄桜カッパカントリー) カッパの絵皿や酒器など・・・欲しいな〜 (^O^;

伏見宿の中心地・京橋に建ち並んだ旅籠、高札場、過書船番所、問屋場

伏見宿の中心地だった京橋には、本陣や脇本陣の他に一般の商人や旅人が宿泊する旅籠が大小合わせて39軒あったと伝え坂本龍馬所縁の寺田屋は往時を偲ばせています。京橋畔には幕府などから出される命令書を貼り出した高札場がありました。その南側には幕府から運航を許可された過書船の番所や船高札場などがあったと伝えます。米穀、薪、材木問屋も京橋辺りに並んでいました。

黄桜 坂本龍馬所縁の旅籠・寺田屋

本陣跡(推定地)

長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ、真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。

 伏見の弁天さんと親しまれている長建寺 十石舟弁天橋乗船場
伏見名物の酒蔵と十石舟 蓬莱橋

御大典記念埋立工事竣工記念碑

今富橋が現在の竹田街道の京橋〜中書島のちょうど中間地点にありましたが、この水路が埋め立てられられました。当時の宇治川の流れは年毎に変化が激しく、水位が低い時は蓬莱橋の畔に広い空閑地が出来たので夏の夜に納涼相撲なども催されました。昭和3年(1928年)〜5年の年月をかけて柳町一帯の埋立護岸工事が23万2295円の工費をかけて行われ現在の町を形成しています。

御大典記念埋立工事竣工記念碑 三十石船と寺田屋浜

過書船(三十石船)

慶長8年(1603年)、徳川家康は過書船に対し朱印状を与え営業許可を再確認し、運上料と運賃を規定しました。「過書」とは関所を通過する免状で、これを備えた船を過書船と言います。過書船は、三十石船とも呼ばれ近世を通じて独占的に物資と旅人の輸送にあたりました。便数は朝晩二便で、伏見〜大阪を上下しました。下りは半日で大阪の八軒家に到着、流れに逆行する上りは一日かかって京都・豊後橋に到着しました。乗船場は伏見が京橋、蓬莱橋、阿波橋、平戸橋の4カ所でした。大阪が八軒家、道頓堀、東横堀、淀屋橋の4カ所でした。

京橋 過書船番所、船番所、船高札場跡 高札場跡
山崎町本陣、脇本陣跡(推定地) 山崎町本陣跡 旧観月橋欄干の石柱

金井戸神社(三栖神社)

肥後橋の東南、宇治川派流(濠川)の畔にあり天武、応神両帝、伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祀る旧村社で通称、三栖神社と呼ばれています。元は、横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改められた。昔は、当社付近は、戦国大名・加藤清正の屋敷があった所です。又、過書船の溜まり場であったから船具を扱う業者が、多く近くの東浜南町を船大工町と云った。

道標石(長建寺、寺田屋、大黒寺など) 金井戸神社(三栖神社) 本殿
宇治川派流@肥後橋 伏見港みなと公園 10/8 三栖神社の炬火(たいまつ)祭に用いる葦
三栖閘門と伏見港

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

昭和39年(1964年)まで、宇治川と伏見港を往来する船や伏見の町を洪水から守る為に水位調節の役目をしていた三栖閘門
淀を目指して堤防道をチャリチャリ・・・ 新高瀬川と宇治川合流地点

千両松原

淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だった事から、「千両松」と呼ばれました。千両松の激戦で敗れた新撰組始め、幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。

第2京阪国道 国道1号線。。。(^O^; 暑うぅ〜 薩長軍と新撰組(幕府軍)が激戦した千両松

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。綺麗に手入れされ、花なども毎日取り替えられている様子です。又、この埋骨地には幽霊伝説があります・・・千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。傍に建立された記念碑に「・・・一瞬の時差により、或る者は官軍となり或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。」と記された一説が鳥羽・伏見の戦の本質だとも言われます。

宇治川旧河道に沿った道を右へ 千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 馬主協会々長・中村勝五郎撰文の記念碑

京都競馬場(JRA:日本中央競馬協会)

大正13年(1924年)、9月に船井郡須知町から移設され翌年の秋に竣工しました。敷地面積は585,000u、スタンドは鉄筋コンクリートの5階建てで規模の大きさは日本最大で淀競馬場、淀とも言われています。

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 京都競馬場(JRA:日本中央競馬協会)は、日本最大のお馬さんのレース場です。σ(^◇^;)

 淀駅周辺高架工事(総事業費約306億円) 高架化工事完成後に姿を消すであろう現在の淀駅(現在は京都方面のみの乗降)

淀小橋旧跡、淀宿、唐人雁木(とうじんがんぎ)

淀小橋旧跡・・・昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており豊臣秀吉が淀城を築く時に架橋しました。橋畔には茶店や船宿が軒を連ね大変賑わっていたと伝えます。淀小橋(橋幅:4間/約7.2m、橋長:71間/約128m)は、明治31年(1898年)からの桂、宇治、木津川の三川改修工事で撤去され、今は道路上に旧跡碑を残すだけです。淀宿・・・淀城の城下町で宇治川と木津川が合流する辺りにありました。淀城主・永井氏は城下町に宿駅があるのを嫌った為、納所村に小規模な宿場が置かれました。伏見宿から5.4kmと近く本陣、脇本陣は無く16軒の旅籠がありました。小さな宿場町だったので関連する史跡遺構なども数少ないですが、淀宿の船着場は朝鮮通信使が上陸した事で有名です。唐人雁木・・・雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から徳川幕府へ派遣した朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。道路舗装にあたって撤去されました。

豊臣秀吉の時に架けられた淀小橋旧跡 右:鳥羽街道、中央:宮前橋へ@納所交差点 唐人雁木旧跡碑

妙教寺(豊臣秀吉、淀殿ゆかりの淀古城跡)

近世の淀城址から北東に500m程行った所に納所(のうそ)という所に妙教寺があります。この付近が淀古城で天正15年(1587年)、豊臣秀吉が、淀城を修築しその妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれ淀は、一躍有名になったとか・・・鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為に薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。千両松の戦いで戦死した新撰組副長助勤六番隊々長・井上源三郎の首を甥の井上泰助が埋めたとされる寺院の門前とは当寺ではないかと推察されています。

平安京の羅生門に至る鳥羽(大阪)街道 妙教寺 境内
秀吉、淀の方所縁の淀古城跡碑 戊辰役東軍戦死者之碑(榎本武揚書) 本堂

与杼(淀)神社

豊玉姫命・高皇産霊(たかみむすび)神・速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年〜63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。

淀城跡碑 京街道標石 与杼(淀)神社
境内 拝殿、末社 本殿

淀城

享保8年(1723年)5月、春日の局(かすがのつぼね:徳川3代将軍・家光の乳母、大奥総取締役)の子孫である稲葉丹後守正知が城主となって〜明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。天正17年(1589年)、豊臣秀吉は、側室・茶々(淀殿)の産所として弟・豊臣秀長の淀城を修築させました。4ヶ月後に長男・鶴丸を出産したが、鶴丸は3歳で病死しました。文禄4年(1595年)、秀吉は淀城を廃して築城中の伏見城へ建物を移し元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は、伏見城を廃城とし松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まった時、淀城主・稲葉正邦は板倉勝静と共に老中職で、淀城は幕府軍の重要拠点の一つでした。この時、正邦は江戸にあり城の留守は家老・田辺権太夫が守っていました。1月5日、富ノ森、千両松の戦いで敗走した幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は体勢を立て直すべく淀城に入ろうとしましたが、家老は薩長軍の要請を受け幕府軍に対して門を閉ざし彼らを城内に入れませんでした。幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は仕方なく淀小橋、淀大橋を焼き払い橋本へ敗走します。藤堂藩、淀藩の背信が鳥羽伏見の戦敗を決定づけた一要因とされる所以です。淀城は薩長軍に開城しますが、家老・田辺権田夫は幕府軍兵数人が城内に入った責任を取って弟と共に切腹しました。淀君ゆかりの淀城は、この淀城跡公園から北東へ約500m行った妙教寺辺りで淀古城と言われます。

往時の淀城絵図 天守閣の再建を目指している淀城公園整備計画の完成イメージ図・・・
淀城図 稲葉神社 稲葉神社説明パネル
天守台石垣 知る人ぞ知る・・・淀城の三等三角点(点名:淀城標高:17.53m)
淀城堀 お城が欲しい!!!・・・なぜ?一休さん?! ( ̄ω ̄;)!! 淀城跡石垣
巨椋池のハスと言われる淀姫(ハス) 淀城跡公園 淀城跡碑
明治天皇御車駐処碑 美味しそうな匂いが・・・ゲゲッ!屋根に犬!!! (@_@;) 明治天皇御車駐処碑(明親小学校)

伊勢向神社

天照大神を祀る旧村社で元、淀小橋の東方、宇治川の中島(浮田の杜)にあったが、古来、和歌の名所となり神社より杜の方が有名でした。中島(浮田の杜)は淀川の改修工事で埋没し現在地に移転されました。因みに伊勢は五十瀬(いつせ)の意味で祭神は、水神と思われます。

伊勢向神社
文相寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地) 天満宮
天満宮 西岸寺
淀の町並み(右:JRA京都競馬場)@宇治川右岸堤防 木津川旧河道堤防だった美豆町界隈の家並

木津川旧河道に面していた美豆町の浜納屋(はまなや)

淀宿は本陣もない小さな宿場町だったので関係史跡が少ないですが旧淀大橋南詰界隈には浜納屋と呼ばれている俵物(たわらもの)納屋や蔵の姿を残しています。かって木津川に面していたので川に間口を開けた納屋や蔵が建ち並び、石段から浜から船に荷物を積み降ろしました。この辺りは淀川船運で賑わった往時を彷彿させてくれます。

美豆町は京街道が通った所で旅籠や木津川旧河道に面した納屋(浜納屋)や蔵がありました・・・往時の風情を今に伝えます。。。
美豆町を北上すると、道は次第に高度を下げながら西へと道が分かれ集落も古く周りより高い堤防状(堤往還道)になっています・・・
高い石垣の上に築かれた蔵や納屋(浜納屋)は、かって木津川と共存していた事を伝えます・・・ 浜納屋の石段

涼森(すずもり)神社

旧淀美豆(みず)町の産土神で白鬚大神(猿田彦)他、四柱を祀ります。社伝によると菅原道真が筑紫へ左遷の途次、当社に立ち寄り鈴と自画像を寄進した事から鈴身神社と言ったのが後に涼森神社に転じたと伝えます。

涼森神社 拝殿 本殿
旧街道筋の旧家 おけいはん特急が疾走して行きまつ・・・京阪電車本線と淀操車場
京阪電車淀車庫 御幸橋(宇治川) 宇治川@御幸橋
御幸橋(宇治川)をチャリチャリ・・・ 洛南随一の桜並木で有名な背割堤 木津川@御幸橋
一際目立つ樹齢千年と伝える楠の大木に圧倒されまつ!!! (@_@;) デカ〜 キララちゃんと比較して見て頂くと納得して頂けるかと・・・
旧街道(京街道/大阪街道)の風情を今に伝えます・・・ 道標石(石清水八幡、京街道など)
昔から水と共存してきた面影を感じさせる旧家屋基礎の石垣 道標石(石清水八幡、京街道など)

橋本の町並み

淀川左岸の旧街道(京街道/大阪街道)に沿って南北に細長く、町並は、別世界のような趣ある独特の意匠の家屋が軒を連ねます。かって、京都〜大阪を結んだ京街道(大阪街道)が通り、宿駅にも指定されていました。淀川対岸の西国街道・山崎間に渡し舟が往来した川港で、石清水八幡宮の最寄港としても賑わい、多くの旅人が往来しました。幕末に橋本陣屋も設けられましたが、鉄道開通後は船運が廃れ、次第に衰微しました。江戸〜明治時代にかけて町は栄華を極め、昭和に引継がれた花街がこれ程にも往時の姿を留めているのは希少価値が高いと言われます。

道標石(淀川対岸の山崎への渡し場) 旧街道沿いの橋本は、時間が止まっているような別世界の趣がある町並み。。。
かって、京都〜大坂を結んだ京街道(大阪街道)が通り、宿駅にも指定され多くの人々が往来し栄華を極めていました・・・
旅人で賑わった旧街道の町並みを走り抜けずに自転車を押してゆっくりと歩きまつた。。。 収穫間近の田園
美しい芙蓉(酔芙蓉?) 田園の中を疾走するおけいはん

戊辰役橋本砲台場跡/樟葉砲台(台場)跡

元治元年(1864年)、徳川幕府は大阪湾から淀川を通って京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の橋本と右岸の高浜に砲台を築きました。両砲台に設置された大砲は、カノン砲4門ずつだったと推考されます。慶応4年(1868年)1月6日、鳥羽・伏見の戦いで伏見、淀から敗走してきた幕府軍(会津藩、新撰組など)は、橋本に本陣を構えて薩長軍を迎撃しました。ところが、正午頃、対岸の高浜砲台を守っていた津藩藤堂家が寝返り、小浜藩酒井家が守る橋本砲台に砲撃を浴びせました。淀川を挟んで両砲台は交戦する事となり、橋本を守備していた幕府軍は、側面からの砲撃を受けて混乱に陥り、遂に大阪城へ向けて退去し鳥羽・伏見の戦は薩長軍の勝利に終わりました。橋本砲台の守備兵は、砲弾を全て撃ち尽した後、大砲を破壊して退去しました。

鳥羽・伏見の戦で薩長軍と戦った新選組終焉の地が橋本@戊辰役橋本砲台場跡

石清水八幡宮

石清水八幡宮(男山)

応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが貞観元年(859年)、奈良大安寺の僧・行教が九州の宇佐八幡宮を勧請した事から始まります。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間づつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。石清水社(末社)は山腹にあって当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。

頓宮南門 徒然草所縁の高良(こうら)神社 石清水八幡宮案内図
御神木のタブの木 拝殿 本殿
石清水八幡宮上院参道へ続く馬場先 安居橋(あんごばし/太鼓橋)@さざなみ公園 宇治川左岸をチャリチャリ・・・黄昏の天王山
おけいはん宇治川鉄橋 淀大橋 夕暮れ迫る宇治川と天王山@淀大橋
宇治川右岸をチャリチャリ・・・おけいはんは速いな〜!追い抜かれてばかり。。。( ̄ω ̄;)!! とっても速さで勝てましぇ〜ん!!! ( ̄▽ ̄;)! おいおい

Tourist  2006.9.11(M)、18(M)

 参考資料:新撰京都名所圖會、京・伏見歴史の旅、The Fushimi etc

 

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