|
|
|
回廊と西塔 |
薬師寺中門 |
回廊と東塔 |
|
|
|
カラフルな金剛力士像 |
東塔(国宝:白鳳期) |
東塔(国宝:白鳳期)、西塔 |
東塔・・・天平2年(730年)建立の薬師寺創建当初唯一の遺構で高さ:33.6mあります。各層に付いた裳階(もこし)で六重塔にも見えますが三重塔です。この特異な形が全体として律動的な美しさを保ち、音楽を奏でる童子と飛天をあしらった火災除けの水煙が特徴的で、アメリカの哲学者・フェノロサは、その姿を「凍れる音楽」と絶賛しました。西塔・・・朱塗りの裳階(もこし)付きの三重塔で享禄元年(1528年)に焼失、昭和56年(1981年)4月に453年ぶりに創建時の礎石の上に白鳳様式をもって復興されましたが、東塔より屋根の勾配が緩やかで基壇の高さは、80cm高く築かれています。薬師寺伽藍の地盤が天平創建時より埋まり東塔の基壇が低くなっているそうな・・・ |
|
|
|
「凍れる音楽」と評される東塔(国宝:白鳳期) |
西塔・・・後光?日輪で相輪の飛天をあしらった水煙が輝いてますがな!!!
o(>w<)〇゛ |
金堂、大講堂 |
金堂・・・薬師寺縁起によると二重三閣、五間四面、瓦葺の建物で各層に裳階(もこし)を付けた美しい堂で竜宮造りと呼ばれます。薬師寺白鳳伽藍は金堂を始め、東塔の意匠で全て統一され「堂内の荘厳は美をつくし、燈火がなくても金色に光輝いた」と伝えます。大講堂・・・正面:41m、奥行:20m、高さ:17mあり、伽藍最大の建物です。講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃した為です。大講堂の本尊に弥勒三尊像(重文:白鳳から天平期)、後堂に仏足石、仏足跡歌碑(国宝:天平期)が安置され、仏足石の両脇に釈迦十大弟子(中村晋也作)も祀られています。 |
|
|
|
金堂 |
大講堂 |
興崇門 |
玄奘三蔵院(げんじょうさんぞういん)伽藍、大唐西域壁画殿 |
玄奘三蔵院(げんじょうさんぞういん)伽藍・・・玄奘三蔵伽藍中央の玄奘は、法相宗の始祖・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)のご頂骨を真身舎利(しんじんしゃり)として奉安、須弥壇(しゅみだん)に玄奘三蔵訳経像を安置しています。玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は『西遊記』で有名な中国唐時代の僧侶(三蔵法師)で17年間、インドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及びます。玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識(ゆがゆいしき)]の教えでした。その教えの流れを継承している宗派が法相宗(ほっそうしゅう)です。大唐西域壁画殿・・・平成12年(2000年)12月31日、平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて完成された玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画を絵身舎利(えしんしゃり)として祀るものです。 |
|
|
|
玄奘三蔵院(げんじょうさんぞういん)伽藍 |
礼門 |
|
|
|
白鳳伽藍の眺望@礼門(玄奘三蔵院)
o(>w<)〇゛
ガンダ〜ラ、ガンダ〜ラ。。。(;^◇^ゞ |
玄奘塔 |
西ノ京の新名所・・・工房長屋と墨づくり「がんこ一徹長屋」 |
がんこ一徹長屋は、職人たちの工房が並び伝統の技を披露ています。茶せん、表具、赤膚焼き、一刀彫、漆空間、とんぼ玉など六軒の職人長屋で展示販売も行われています。 |
|
|
|
玄奘三蔵像(三蔵法師:大川逞一仏師作) |
大唐西域壁画殿 |
がんこ一徹長屋・・・休館日!
( ̄▽ ̄;)!! |
天然記念物
養天満宮の原生林 |
養天満宮境内に鬱蒼と茂る群落は、ツブラジイ、ネジキなどの高木〜サカキ、アラカシの亜高木、ベニシダ、マンリョウ、ヤブコウジなどの草木の層が原始的な森林形態を保っています。 |
|
|
|
養天満宮社・・・境内(3410u)は奈良市指定文化財、天然記念物で、ツブラジイ(コジイ)、ネジキ、ナナメノキなどの原生林です。 |
世界文化遺産・唐招提寺 |
鑑真(がんじん)和上は聖武天皇の懇請に応えて来朝を決意されたが、唐から12年にも及ぶ辛苦の末に来朝(奈良)した時には、両目を失明していました。鑑真は東大寺大仏殿の戒壇を退いてから新田部(にいたべ)親王の旧邸を譲り受け、天平宝字3年(759年)に創建した律宗総本山で唐時代の厳しい中国仏教の規律を今に伝えます。天平時代、仏教が盛えた反面、俄か坊主も続出した為、聖武天皇は僧侶に正式な戒を授けて規律を正したいと願って唐の高僧・鑑真を招きました。6年後の天平宝字3年(759年)、鑑真和上は僧侶を育成する私寺を建立し戒律を守り心静かに落ち着かせる我が国唯一の戒律専修道場を築きました。当初は簡素な宿舎でしたが、朝廷などの寄進により徐々に伽藍を整えました。災禍を免れ、創建時の天平遺構を残しています。余談ですが、唐招提寺が建つ辺りを尼ヶ辻と言います。鑑真が東大寺戒壇院から隠退する時、寺院建立の候補地捜しました。方々の土を舐めて物色したところ、土が唐の清官戒壇の土と同じように甘かったので当地に建立を決定したと伝えます。甘土が訛化して尼ヶ辻になったそうな・・・他説では、平安時代に興福院(こんぶいん)という尼寺があったので町名になったとも伝えます。現在、佐保にある興福院は、元、当地にあったもので寛文(かんぶん)5年(1665年)に移築されました。 |
|
|
|
歴史の道案内図 |
唐招提寺南大門 |
ゲッ!金堂が改修工事中!!
(
ノ ̄∇ ̄)ノ そんな〜 |
金堂(国宝) |
現存する天平建築最大の建物で鑑真の没後に弟子・如宝が建立したと伝えます。正面七間、側面四間の寄棟造。大棟の両端に鴟尾(しび)を飾った大屋根や、かすかなエンタシスをもつ前面の列柱には荘重感がある。千体仏を負った本尊・廬舎那仏(るしゃなぶつ)坐像(国宝:奈良期)の左右に、953本の手をもつ千手観音立像(国宝:奈良期)と、光背が薬壺の形をしている薬師如来立像(国宝:奈良期)が安置されています。現在、「平成の大修理」が行われており、金堂は養生建物で覆われた状態で平成21年(2009年)に修理完了予定・・・★写真はポストカードより引用 |
|
|
創建当時の姿を伝える代表的天平建築の金堂(国宝) |
千手観音立像、本尊・廬舎那仏坐像、薬師如来立像(共に国宝) |
|
|
|
改修中の金堂・・・
( ̄▽ ̄;)!! |
戒壇・・・インド・サンチーの古塔を模した宝塔が奉安されています。 |
講堂、舎利殿(鼓楼) |
講堂・・・朝廷の寄進により、平城宮朝堂院(ちょうどういん)の東朝集殿(ちょうしゅうでん)を唐招提寺に移築したもの。正面九間、側面四間の入母屋造。数度の改修を経ているが、天平時代の宮殿建築唯一の遺構です。講堂としても、法隆寺東院伝法堂と並ぶ天平期の数少ない例とされます。本尊は飛天などの透彫がある二重円相光背を負う弥勒仏坐像(重要文化財)で、鎌倉時代の作です。両脇に天平末期作の持国天(じこくてん:重要文化財)と増長天(ぞうちょうてん:重要文化財)を従える。金堂にあった梵天(ぼんてん:国宝)、帝釈天(たいしゃくてん:国宝)なども現在講堂に安置されています。舎利殿(鼓楼)・・・正面3間、側面3間の小規模ながら整った鎌倉建築で鑑真が唐からもたらした仏舎利を安置しています。ここでうちわ撒きが行われます。 |
|
|
|
平安時代の梵鐘@鐘楼 |
講堂 |
礼堂東室と舎利殿(鼓楼) |
俳聖・芭蕉句碑 |
旧開山堂の石段脇に「若葉して
御眼(おんめ)の雫(しずく)
拭(ぬぐ)はばや」と詠んだ松尾芭蕉の句碑があります。 |
|
|
|
礼堂東室と旧開山堂 |
旧開山堂 |
芭蕉句碑 |
|
|
|
旧開山堂 |
かって、学僧など約3,000人の炊事などの生活用水に用いられたと伝えるダイゴ井 |
|
|
|
本坊 |
御影堂 |
説明書き |
|
|
|
御影堂 |
土塀で囲まれた鑑真和上御廟 |
苔むした参道 |
鑑真和上御廟 |
鑑真和上の廟所は、方墳状土壇で宝篋印塔(ほうきょういんとう)が奉安されています。 |
|
|
|
手水井 |
鑑真和上廟・・・合掌 |
経蔵(きょうぞう)、宝蔵(ほうぞう) |
校倉造(あぜくらづくり)で、南が経蔵、北が宝蔵で共に天平時代の建築です。特に経蔵は唐招提寺創立以前の新田部親王(にいたべしんのう)邸にあった建物と思われ、校倉造の最古例と言われます。 |
|
|
|
校倉造の宝蔵(左)と正倉院より古い経蔵 |
宝篋印塔(ほうきょういんとう)、供養塔 |
歴史の道案内図 |
垂仁天皇菅原伏見東陵(すいにんてんのうすがわらのふしみのひがしのみささぎ) |
水濠を廻らせた墳丘が美しい全長:227mの前方後円墳です。歴史の道探訪の合間、緩やかな時間を過ごすのにオススメです。濠の南東部に浮かぶ小島は、垂仁天皇の命で常世(とこよ)の国へ不老不死の果物を探しに行った忠臣・田道間守(たじまのもり)の墓と伝えます。海を渡り異国(伝、韓国済州島)へ渡り、10年後にようやく非時香菓(トキジクノカグノミ:橘の実)を手に入れて持ち帰ったが、垂仁天皇は既に崩御、景行天皇の御代になっていました。天皇の崩御を知った田道間守(たじまのもり)は慟哭のあまりに絶命しました。景行天皇は、忠節心を慎んで、垂仁天皇の側に葬らせて橘の木を植えたと伝え、これに因んで、御所に「右近の橘(うこんのたちばな)」が植えられる様になったとも伝えます。非時香菓(ときじくのかぐのみ:橘の実)木は田道間守(たじまのもり)の名に因んで「田道間花:たじまはな」と呼ばれ、それが訛って「橘:たちばな」になったと伝え、日本のミカンの始まりだとか・・・田道間守は、果物、お菓子の神になったとも伝えます。濠の外側に陪塚(ばいちょう)が6基あります。 |
|
|
|
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
垂仁天皇菅原伏見東御陵 |
|
|
|
四方を水濠で囲まれれた大規模な御陵で手前の小島は忠臣・田道間守(たじまのもり)の墓・・・ランチタイム〜
ヽ(゜▽、゜)ノ |
|
|
|
垂仁天皇菅原伏見東御陵 |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
忠臣・田道間守(たじまのもり)の墓を望む鳥居 |
|
|
|
お〜大和ワラシベ軍団の襲来じゃ〜
。。。(;^◇^ゞ |
倍塚(ばいちょう) |
行基が入滅した喜光寺(菅原寺) |
奈良時代の養老5年(721年)、寺史乙丸(てらのふひとまる:土師氏一族)が平城京右京三条三坊の屋敷を寄進し、行基(ぎょうき)を開基として創建され菅原寺と呼ばれました。天平(てんぴょう)20年(748年)、聖武天皇が参詣された際、本尊より不思議な光が放たれ事を喜ばれ寺名を「喜光寺」に改名されたと伝えます。元明(げんめい)、元正(げんしょう)、聖武天皇と三代にわたる勅願所でしたが、現在は創建当初の旧礎の上に室町時代に再建された本堂(重要文化財)が残るだけです。堂は、行基が東大寺大仏殿の造営にあたり、10分の1の大きさで試作したという伝承があり、「大仏殿試みの堂」として知られます。堂内には藤原時代の阿弥陀如来坐像(重要文化財)を安置します。行基はこの寺で没し、七日間、遺体を安置してから輿で生駒(いこま)の往生院へ移されて荼毘にふせられました。弟子たちに「母の墓所の辺に墓を建てよ」遺言されたの生駒仙房という地に埋葬され、没後500年後に行基の舎利(遺骨)の入った銅筒が発見され、仙房の地を改め、竹林寺を建立し安奉されています。 |
|
|
|
喜光寺(菅原寺) |
「大和路は
佛の里よ 蓮浄土」 平田恵穂 |
境内 |
|
|
|
庫裡 |
石仏群 |
「大仏殿試みの堂」として知られる本堂 |
菅原家祖・野見宿禰(のみのすくね)は埴輪(はにわ)と相撲の創始者・・・道真生誕の地と伝える菅原天満宮 |
平城宮跡東側、菅原の地に鎮座する延喜式内社で、祭神として天穂日命(あめのほひのみこと)、野見宿弥(のみのすくね)、菅原道真の三神を祀ります。菅原家発祥の地に祀られる当社近くに菅原道真が産湯に使った池と伝える「御誕生池」があります。承和(じょうわ:しょうわ)12年(845年)、京都市上京区下立売下る堀松町の菅原院天満宮の社地で道真は生まれたと伝えますが。生誕地は不明とも言われます。神社の東北約100mの所に天神堀と呼ばれる池があり、道真誕生の霊廟地と記された碑があるそうな・・・菅原村は平城宮近くにありましたが平城遷都直前に西大寺の南方(現
菅原町)に集落ごと、移転させられました。菅原は主に土師氏(はじし)の居住地で4世紀の古墳時代から豪族で王家の葬儀に関わり畿内にかなりの勢力があったと伝えます。当時、土師(はじ)という名は凶儀と密着しイメージが悪いと土師古人(はじのふるひと:道真曾祖父)や土師道長らは地名の菅原姓に改めたいと桓武天皇に願い出ました。「続日本記」に先祖は天穂日命(あめのほひのみこと)で14世後の野見宿禰(のみのすくね)が垂仁天皇の皇后が逝去された時、生きながら埋葬する殉死者の風習は、国益し人を利する道でないと奏上、代わりに土像を作って献上しました。天皇は、土像を墓に埋め殉死者に変えました。これが埴輪の始まりで以来、土師氏(はじし)は天皇家の葬儀に預かりました。古来、吉事にも奉仕していたが凶事に深く関わった名になってしまい「これは先祖の意とする事ではないので居住地名の菅原と改名させて欲しい」と請願、天応(てんおう)元年(781年)に桓武天皇に承諾され菅原氏を名乗り、秋篠の地に住まいした土師氏は秋篠氏と改名したと記されています。 |
|
|
|
菅原天満宮 |
島原藩主の手植えと伝える「島原古梅」 |
駒札 |
天神様になった菅原道真 |
土師(はじ)から菅原改名を請願した一人、古人(ふるひと)は道真の曾祖父で父共に宮廷の文学博士でした。父祖三代学者という輝かしい伝統を継承した道真は、幼少の頃より聡明で文学にも長じました。誠実で温厚な人柄として宇多天皇の寵愛を受け、文学博士から参議、右大臣へと昇進しましたが、延喜(えんぎ)元年(901年)1月25日に突如、九州大宰府への左遷を命じられました。天皇を譲位した宇多上皇を欺いて次期天皇の廃立を道真が企ていると讒言された為です。人伝にこの事を聞いた宇多上皇は「道真がそんな事をするはずがない・・・」と内裏に出向きましたが警固の陣が布かれて会う事ができずに事が進みました。左遷の画策は道真の異例の立身出世を疎んだ、時平ら藤原一族の企てと噂された事が後に道真の怨霊信仰として伝えられる事となり、道真が自邸を去る時に「こちふかば
にほいおこせよ むめ(梅)のはな あるじなしとて
はるをわするな」と詠んだ歌は有名です。病弱な道真は大宰府の朽ちた家屋で困窮と病に苦しみながら文筆に励む生活を二年過した延喜(えんぎ)3年(903年)2月25日、遂に都へ帰る事なく59年の生涯を閉じました。道真は死後、太政大臣を贈られ学問の神として祀られました・・・道真を大宰府に追いやった藤原時平は朝廷唯一の権力者として権勢を振るいましたが39歳の若さで死去、以後も疫病、旱魃が続き、皇太子も次々に亡くなりました。延長8年(930年)6月26日、清涼殿において旱魃で雨乞いの相談をしている時、突然に黒雲がたち込め雷鳴が轟き、正三位権大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)が落雷で即死しました。「これは道真の怨霊に違いない・・・」と京都北野に神社を創立し天満宮天神として道真を祀り平穏を祈願すると以来、災厄が鎮まったと伝えます。 |
|
|
|
社殿 |
本殿・・・二礼二拍手一礼拝 |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
父・聖武帝建立の東大寺に対抗した女帝の強気、塔跡が物語る西の大寺・・・西大寺 |
天平神護元年(765年)、考謙女帝(後の称徳しょうとく天皇)が鎮護国家と平和祈願の為に七尺の金銅四天王の造立を発願され僧・常騰(じょうとう)を開山とし、東大寺に対する西の大寺として創建された真言律宗総本山です。南都七大寺の一つに数えられ、堂宇100以上の大伽藍を誇りましたが、平安遷都や度重なる火災で衰退し、鎌倉時代に中興の祖・叡尊(えいそん)が復興しました。本堂前にある巨大な基壇は東塔跡で、本堂(重要文化財)の本尊・木造釈迦如来立像(重要文化財)は叡尊が京都嵯峨・清凉寺の釈迦如来像を模刻させた縄状に表現した頭髪と流れるような衣の襞が特徴です。四王堂四天王像(重要文化財)の下に踏まれている邪鬼と多聞天の脚部は創建当初のものと伝えます。本尊となる釈迦や如来でなく四天王を最初に造ろうとした事に成立の性格が示されています。聖武天皇が逝き一人娘の安部内親王が考謙天皇となり光明皇后は皇太后になりましが、光明が病になり権威が失落すると藤原仲麻呂(後の恵美押勝)は考謙天皇を退位させ淳仁天皇を即位させました。母・光明も崩御し女帝は失意のあまり病に臥し、近江の保良宮で医術の心得がある僧・道鏡の看護で回復したが、契りを結びました。噂を聞いた仲麻呂は淳仁を通して女帝に忠告するも受け入れられず女帝と道鏡の仲は深まりました。二人は宮廷での権力を強め、追い詰められた仲麻呂は反乱を企んだが、奇しくも西大寺建立勅願日に発覚、7日後に近江で討たれました。朝敵の仲麻呂を倒し、国家安泰の祈りを込めて本尊よりもそれを守護する四天王を最初に祀ったと伝え、踏まれている邪鬼は謀反人の姿とも言われますが、創建当初の遺品が邪鬼というのも・・・ |
|
|
|
お〜大和ワラシベ軍団整列!!!
(;^◇^ゞ |
西大寺南大門 |
地蔵石仏群・・・合掌 |
東塔跡 |
奈良時代の天平神護元年(765年)、東西両塔が建立された時の東塔跡で四角五重の礎石が残ります。西塔は、平安時代に雷火で焼失、東塔は、室町時代の文亀2年(1502年)の兵火で焼失しました。昭和31年(1956年)の発掘調査で壇下から八角の小石列が見出されました。考謙女帝は、八角七重塔という卓抜な発想で塔の建立を計画しましたが、当時、権力を強めていた藤原永手が造営中の八角基壇を中止させ、その上に四角五重の塔を建てたと伝えます。藤原永手は西大寺建立計画を縮小させた為、死後の世界で苦しんでいるという伝説があります。 |
|
|
|
巨大な石積みの基壇は東塔跡 |
春に大茶盛の会場となる光明殿 |
愛染堂 |
京都御所の近衛政所御殿を宝暦12年(1762年)に移築した南北十一間、東西八間の宸殿造りの仏堂です。内部は三区分にされ、中央内陣の厨子内には、本尊・愛染明王坐像(重文:鎌倉期)を安置し、南側は、当寺代々の霊牌を祀る御霊屋(おたまや)、北側は、正式の閲見の場所である客殿となっています。 |
|
|
|
あおによし?・・・大きな慈母観音立像??合掌 |
愛染堂 |
駒札 |
本堂(重要文化財:江戸期) |
中世に建てられた光明真言堂の後身です。西大寺は天平宝宇8年(764年)、称徳天皇が鎮護国家の為に四天王像の造立を発願した事に始まり、翌年に創建され当初は華麗な金堂だったと伝えますが、その後、度重なる火災や兵火によって建造物を焼失しました。現在の本堂は、文亀2年(1502年)の兵火で焼失し、宝暦年間(1751〜64年)に再建されたと伝えましたが、後の調査で、寛政年間(1789〜1802年)に仮堂を廃して着工、文化初年に完成した事が判明しました。桁行七間(24.395m)、梁行五間(16.825m)、寄棟造り、本瓦葺きで土壁を使わない総板壁の珍しい建物です。内陣の四面に外陣を廻らせる古風なもので、外部は桟唐戸(さんからと)を用い、連子窓(れんじまど)、長押(なげし)、切り目縁など和様を主としている特徴があります。外陣を化粧屋根裏として、内陣に小組格天井を高く張るのは中世以来の一般的手法ですが、入側柱(いりかわばしら)を天井裏まで延ばして小屋梁を支えているのは近世的な構造です。全般に装飾の少なく簡素な堂宇ですが、奈良地方の近世仏堂として、規模、意匠共に優れた一に数えられます。 |
|
|
|
本堂(重要文化財:鎌倉期) |
境内 |
土塀が廻る西大寺北門 |
四王堂 |
西大寺草創を物語る唯一の堂で、本尊・十一面観音立像(重文:平安期)は、正応2年(1289年)に亀山上皇の院宣によって京都の十一面堂から移安されました。仏師・円信の作になる本格的な藤原彫刻の十一面観音立像です。建物は再三焼失し、現堂は延宝2年(1674年)に再建された東西九間、南北七間の簡素な重層建築です。 |
|
|
|
護摩堂 |
駒札 |
四王堂 |
|
|
|
西大寺境内伽藍案内図 |
西大寺東門 |
歴史の道案内図 |
|
|
|
西大寺鎮守社の石落神社 |
駒札 |
石落神社 |
|
|
|
近鉄・大和西大寺駅 |
京都行き急行で伏見へ・・・ |
桃山御陵前駅 |