城南宮 |
城南宮の由緒は上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と伝えます。 |
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城南宮(方除けの神) |
伏見名水「菊水若水」 |
道元禅師生誕の地・誕生寺 |
誕生寺境内は久我家の旧跡と伝えられ、大正6年(1917年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(くが)に建立した寺です。昭和63年11月に本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。 |
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久我橋(桂川) |
目指す西山の稜線@久我橋(桂川) |
道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺 |
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山門 |
ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) |
道元禅師産湯の井戸 |
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蝋梅の香りが漂う境内 |
慈母観音像
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本堂 |
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JR新幹線 |
JR京都線(東海道本線・向日町操車場) |
阪急電鉄・京都線 |
平城京から長岡京へ遷都し、わずか10年あまりで平安京へ遷都 |
桓武天皇は天応4年(784年)、新京での政治改革、蝦夷攻略も半ばに再び延暦13年(794年)10月22日、平安京に遷都しました。平安京に遷都され殿舎も移築され人の賑わいも消え去った長岡京は急速に元の田園地帯に戻りました。平城京〜平安京に遷都する迄の約10年間、遷都した長岡京は何故短命に終わったのか・・・(一)早良親王の祟りから逃れる為。(ニ)山河に土地を分断され充分な土地空間が取れず洪水災害などにも悩まされた。(三)建都設計の手直しに莫大な費用が掛かり過ぎたなどが長岡京が僅か10年で廃都になったと考えられています。 |
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史跡・長岡宮跡@大極殿公園 |
長岡宮跡碑 |
長岡宮大極殿跡碑 |
長岡京 |
長岡京は、天皇の住居である内裏、官庁街からなる宮城(大内裏)、小規模な役所や貴族や都住民の居住域である京域に分けられます。
長岡宮域は、北を一条大路(北京極大路)、南を二条大路、東西を両一坊大路で囲まれる東西約1km・南北約1.6kmの地域で、宮内には南面中央に大極殿と朝堂院、東側に内裏、これらを囲むように主要官庁が配されています。北辺部には税金である米や特産品など物資を納めておく倉庫(大蔵)群などの二官八省の建物が建てられました。周囲を築地(土塁)に囲まれています。築地には、宮城門が設けられています。宮は北側には園地(北苑)が広がっています。長岡京は、東西4.3km、南北5.7kmの規模で南北のメインストリートである朱雀大路の東側を左京、西側を右京と分けていました。規模は、基本設計図である条坊制に基づき、幅24mの大路と幅9mの小路が東西南北に規則正しく配置され、道路に囲まれた一辺約120mの土地(一町,面積14,400u)を基準に施設が配置されました。小規模な役所や離宮、高級官僚(貴族)の邸宅、都で働く人々の家々、勤務する兵士の駐屯地や寺院、東西2箇所の市なども設けられています。 |
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長岡宮全貌図 |
長岡宮大極殿跡 |
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長岡宮小安殿跡(しょうあんでんあと) |
春宮坊跡(かしのき公園) |
説明碑 |
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向日神社 |
早くも菜の花が咲いています・・・ |
長法寺七ツ塚 |
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長法寺七ツ塚 |
説明パネル |
光明寺へ・・・ |
粟生光明寺(あおうこうみょうじ) |
報国山と号する西山浄土宗の総本山で粟生光明寺と称され法然上人の廟所がある所として最も重んぜられています。法然上人の廟所は初め東山大谷にあったが安貞元年(1227年)、比叡山の僧徒にあばかれようとしたので遺弟らによって遺骸を太秦・来迎院に移し、次いで当地において荼毘に付し遺骨を納めて宗廊を築く時、法然上人の石棺から光明を放ち光明寺と名付けたと伝わります。当地は法然の徒弟・熊谷蓮生房(俗名・次郎直実)が建久年間(1190〜98年)、一宇の草庵をむすび、念仏三昧院と号し浄土往生を広めた所で、後に蓮生の徒弟・幸阿弥陀仏(こうあみだぶつ)に付与され、更に西山証空上人が入寺するに及んで西山派の根本道場となりました。当地は小塩山の支峰・鳥ヶ嶽麓に広大な地を占め、本堂以下多くの建物を有しますが、いずれも江戸時代以降の建造物です。 |
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光明寺 |
高麗門 |
黒門跡の礎石 |
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参道 |
法然上人石棺 |
法然上人像と御影堂(本堂) |
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阿弥陀堂 |
童地蔵
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法然上人荼毘跡 |
茂右ェ門屋敷跡 |
保元々年(1156年)、法然上人24歳の時、比叡山黒谷を出て南都(奈良)の学匠歴訪の途上、粟生の里長者の茂右ェ門邸に一夜を借り「われ正しく凡夫の往生の道を開いた暁には、まず御身にその悦びを分かとう」と約定し20年後の承安5年(1175年)春、法然上人43歳の時に粟生の里を再訪し茂右ェ門夫婦に念仏往生の教化の第一声を挙げました。その長者屋敷があった所と伝えます。 |
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茂右ェ門屋敷跡 |
駒札 |
紅葉の参道 |
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閻魔堂 |
閻魔さま |
そうだ、善峯寺行こう!(≧Σ≦)プッ |
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いざ行かん善峯へ!@善峯道 |
のどかやなぁ〜
(@^▽^@) |
いよいよ、お待ちかね?上り坂!
( ̄▽ ̄;)!! |
十輪寺(じゅうりんじ:業平寺) |
天台宗延暦寺派の寺で小塩(おじお)山と号し一に業平(なりひら)寺とも呼ばれます。寺伝によると創建は嘉祥3年(850年)、文徳天皇の染殿(そめどの)皇后(藤原明子:あきらのけいこ)の世継ぎ誕生を祈願し、めでたく皇子を生まれ、後に清和天皇になられた事から文徳天皇勅願所となり後に藤原北家(花山院家)が帰依され一統の菩提寺とされました。創建当時の伽藍は応仁の乱の兵火によって焼失、寛延3年(1750年)の再建で本堂の屋根は鳳輦形(ほうれんがた)という神輿を模った非常に珍しいもので内部天井の彫刻も独特の意匠が施され文化財に指定されています。平安時代の歌人で「伊勢物語」の主人公とされる在原業平(ありわらのなりひら)が晩成に隠棲し塩焼きの風情を楽しんだと伝え当地を小塩というのは、これに因んだ地名とされ境内裏山に業平墓(恋愛、結婚成就の神)、塩釜の跡、門前手前の街道脇に潮汲池があります。これらの伝説により毎年の5月28日、業平を偲んで業平忌が行われ導師の長素絹を纏った住職が三弦を弾きつつ読経し「祈請:きじょう」、「般若心経」などの法曲を披露し献茶、献歌、献句、小唄、山城舞楽などが奉納されます。 |
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在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの潮汲池 |
十輪寺(業平なりひら寺) |
金蔵寺、小塩山方面 |
西山宮門跡「善峯寺」 |
釈迦岳支峰の善峰の中腹にある西山(せいざん)と号する天台宗延暦寺派の寺院で伽藍は険しい山崖に建っていて山麓から仁王門迄の山道の途中に座禅石と称する大石があり源算上人が座禅修法中、一老翁から仏寺の建立を頼まれ地形の険しさに困窮していると野猪の群れが現れ土地を均したので伽藍を建立できたと伝わります。寺伝によると平安中期の長元2年(1029年)、源算上人によって開かれました。源算上人は「往生要集」を著した恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ横川(比叡山)の恵心僧都に従い顕密の蘊奥を極め47歳の時、当山に入り小堂を結び、十一面千手観音像を刻み本尊とし仏法を興隆しました。長元7年(1034年)9月、後一条天皇より鎮護国家の勅願所に定められ「善峯寺」の寺号を賜り歴代天皇の崇敬篤く、長久3年(1042年)、後朱雀天皇の時、洛東鷲尾寺の仁弘法師作・十一面千手観世音菩薩像を当山に遷して本尊となし先の十一面千手観音像を脇壇とし白河天皇が諸堂を建立しました。中世には「西山宮」と号する門跡寺院となり、室町時代には後花園天皇が伽藍を改築され僧房52の多きを有する大寺院となりましたが応仁の乱(1467〜77年)の兵火で焼失し現在の諸堂の多くは江戸時代に徳川5代将軍・綱吉の生母である桂昌院によって再建されました。元和7年(1621年)、再建の多宝塔は山内最古のもので「大元帥明王軸(鎌倉時代)」と共に重要文化財に指定されています。京都府指定の文化財としては「善峯寺曼荼羅」二幅があります。日本一の松とも称される樹齢約600年の五葉松は「遊龍の松」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。西国三十三所観音霊場の第二十番札所、洛西一番札所でもあります。 |
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善峯寺々領域(第一の峠ピーク地点) |
善峯寺案内図 |
車もヒィーヒィーと上ってきます!@第一駐車場 |
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傾斜がきついのでもたれて待機のキララちゃん |
仁王門 |
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参道 |
観音堂(本堂) |
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樹齢600年と伝える五葉松
「遊龍の松(天然記念物)」 見事やなぁ〜(@^▽^@) |
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お香水(閼伽水) |
えぇなぁ〜(@^▽^@) |
桂昌院廟、宝篋印塔(ほうきょういんとう) |
桂昌院廟は宝永2年(1705年)6月22日、79歳で逝去した徳川5代将軍・綱吉の生母である桂昌院の遺髪を納めています。宝篋印塔には鎌倉時代に慈円大僧正により伝教大師筆の法華経が納められました。 |
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周りの人の幸せを願う幸福地蔵 |
宝篋印塔(法華経塚) |
釈迦堂 |
明治18年(1885年)に建立され本尊・石仏釈迦如来像は、源算上人作で、明治初年まで釈迦岳(標高:631m)に安置されていましたが、信者の崇敬が篤く明治13年(1880年)に当山へ下山されたと伝えます。 |
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桂昌院廟(遺髪塚) |
釈迦堂 |
本尊・釈迦如来石仏は釈迦岳から下山 |
徳川5代将軍・綱吉の生母・・・桂昌院 |
寺伝によると寛永4年(1627年)、京都堀川の八百屋仁右衛門の次女として生まれ名をお玉と言った。父・仁右衛門は、二条関白の家司である本庄家と交流があり、後にお玉は徳川家光の愛妾・お万の方と二条家に所縁があった為に3代将軍・家光の側妾・お万の方の侍女として江戸へ下りました。18歳のお玉は、家光の寵愛を受け側室に加えられお玉の方と呼ばれました。20歳の時に徳松(5代将軍・綱吉)を生み慶安4年(1661年)4月20日、26歳の時、家光の死に際し落飾(尼)して桂昌院と称し綱吉と共に江戸藩邸に住みました。延宝8年(1681年)8月、54歳の時に綱吉が5代将軍に就任し江戸城の三之丸に居を移し三之丸様と呼ばれ大奥での力は絶大となり元緑15年(1702年)3月、76歳の時に従一位という最高位に叙せられました。宝永2年(1706年)6月22日、江戸城中にて79歳で逝去し芝増上寺に葬られ善峯寺にも遺髮、歯が納められたと伝えます。 |
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えぇなぁ〜(@^▽^@)
@けいしょう堂 |
桂昌院を祀る・・・けいしょう堂 |
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えぇなぁ〜(@^▽^@)
@奥の院・薬師堂 |
奥の院・薬師堂 |
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薬師堂 |
蓮華寿院庭 |
慈母観音菩薩像(経塚跡) |
青蓮院宮墓 |
善峯寺の住職を務めた宮様の廟所です。覚快(鳥羽皇子)、道覚(後鳥羽皇子)の両法親王墓は五輪塔、慈道(亀山皇子)、尊円(伏見皇子)、尊道(後伏見皇子)の三親王墓は宝塔をもって標しとされています。 |
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蓮生(左)、証空(中)、観性上人塔(右) |
青蓮院宮御廟 |
慈鎮和尚塔 |
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蝋梅の香り漂う青蓮の滝 |
市内俯瞰(洛西〜伏見〜宇治、山城方面)
えぇなぁ〜(@^▽^@) |
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善峯寺(伽藍)俯瞰 |
えぇなぁ〜(@^▽^@) |
阿弥陀堂 |
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参道の風情が・・・えぇなぁ〜(@^▽^@) |
桂昌院手植えの「しだれ桜」 |
径堂(絵馬堂) |
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日本一と称される「遊龍の松(天然記念物)」 |
山内最古の多宝塔(重要文化財:江戸期) |
そうだ、金蔵寺行こう!
(≧Σ≦)プッ |
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釈迦岳登山道分岐 |
東海自然歩道で善峯寺〜杉谷へ |
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激坂続きの九十九折
( ̄▽ ̄;)!!
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三鈷寺(右)分岐 |
おいおい
いつまで上らせよんね?!
( ̄ω ̄;)! |
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ようやく激坂のピークを越えました!!!
(^◇^;) |
杉谷地区に到着〜
(@^▽^@)
やれやれっと・・・
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自販機でポカリ、ポカリっと・・・ヽ(゜▽、゜)ノ |
ゲゲッ、2台とも準備中ですがな!!!( ノ ̄∇ ̄)ノ |
ポンポン山(左)、金蔵寺方面分岐 |
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東海自然歩道案内図 |
杉谷地区をあとに・・・ |
ボンポン山方面 |
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のどかやなぁ〜
(@^▽^@) |
快適なダウンヒル |
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快適なダウンヒル |
出灰、大原野森林公園(左)分岐を右へ・・・ |
左の木に熊の爪痕???
(@_@;) @逢坂峠ピーク |
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えぇなぁ〜(@^▽^@) |
快適なダウンヒル |
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快適なダウンヒル |
えぇなぁ〜(@^▽^@) |
金蔵寺分岐を右上へ・・・ |
産(三)の滝 |
境内には一の滝、二の滝、三の滝と三筋の滝があり、この滝は向日神出現の地と伝え「産(三)の滝」と称している。12mばかりもあり見上げるばかりの大岩から落下し幽邃な雰囲気を醸し出しています。 |
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向日神、出現の地と伝える産(三)の滝 |
最後の激坂上りのピーク
( ̄▽ ̄;)!! |
金蔵寺(こんぞうじ) |
西岩倉山と号する天台宗延暦寺派の寺で寺伝によると養老2年(718年)、元正天皇の勅願により隆豊禅師が来山した時、向日明神が一老翁となって出現し鹿を射ようと矢を放ったところ、矢は楠に命中し矢を抜くと光明を放ったので禅師と合作で一体の千手観音像を刻み安置したのが当寺の起こりと伝えます。聖武天皇から金蔵寺の額を賜り天平元年(729年)に華厳、普門品などの諸経を写して山中に埋納されました。桓武天皇は延暦遷都にあたり京都の四方に経典を埋納して王城の鎮護とされ当寺は、その西方の一で西岩倉山と号すると伝える。元は法相・三論宗でしたが後に天台宗に改宗しました。「今昔物語」巻17に「京の西山に西岩蔵と云う山寺あり、その山寺に仙久と云う持経住けり・・・」とあり早くから西山の名刹の一として知られたが文明・永禄の兵火(応仁の乱)に係り諸堂を焼失し中世以降寺運は哀微しました。現在の建物は江戸期の貞享年間(1684〜1688年)に徳川5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の再建で本堂には本尊・十一面千手千顔観音像、護摩堂には不動明王、四大尊を安置します。洛西三十三観音霊場の二番札所です。 |
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東海自然歩道案内図 |
仁王門 |
駒札 |
石井(いわい) |
一に霊生水と称され当山唯一の清泉です。延喜式内石井神社はこの井戸の上に祀られていたが昭和28年(1953年)、山麓の坂本村の山王社に合祀されました。石井神社は清泉を神格化した旧乙訓中、最古の神社の一とされ上代においては朝野の崇敬も篤かったようです。金蔵寺は当社の神官寺として建立されたもので現状は「ヒサシを貸して母屋を取られる」形になりました。因みに石井は向日神社の増井と同じ水脈とされ石井の水を汲み変えた時、数日後に増井の井水が濁ったそうです。 |
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参道の石段 |
護摩堂 |
石井(石井神社跡) |
愛宕大権現(火防勝軍地蔵愛宕大権現) |
明治初年の神仏分離令で廃された愛宕山白雲寺の勝軍地蔵が当寺に移され、現在は本堂の背後上に鎮座しています。勝軍地蔵は明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国武将の崇敬が篤く明智光秀が「本能寺の変」の前に愛宕山へ参拝した事は世にも有名な伝説です。 |
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本堂(桓武天皇経塚跡) |
明智光秀も参拝した愛宕山白雲寺から明治初年に移された愛宕大権現 |
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隆豊禅師を祀る開山堂 |
下川原弁才社 |
聖武天皇経塚碑 |
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市内俯瞰
O(^◇^)O ふぉ〜 |
釈迦岳支峯の三鈷寺、善峯寺方面 |
長嘯亭(ちょうしょうてい) |
梅若丸塚 |
梅若丸とは吉野期の作「秋の夜長物語」の主人公で金蔵寺の8世、胆西(せんざい/桂海とも称す)上人との哀恋物語に因んで当地に供養塔として建立されました。物語によると、後堀河院の御代、叡山の僧・桂海は石山寺参詣の途次、三井寺で花園左大臣の子・梅若に出会い見染めました。梅若も桂海を慕って家出し、叡山に桂海を訪ねる途中、山伏に誘拐され三井寺の衆徒は桂海が奪ったものと思い、叡山に攻め寄せたが、逆に敗れ寺も焼き払われました。梅若は自責の念に駆られ瀬田の唐橋から身投げしました。桂海は悲しみのあまり西山岩蔵に庵を結び、後に東山の雲居寺(うんごじ)に移って晩年を過ごしたと伝えます。「秋の夜長物語」は西行の「撰集抄」中の事実を潤色したものとされ室町期の厭世思想を加味しています。 |
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そうだ、伏見帰ろう!
(≧Σ≦)プッ |
不動堂 |
梅若丸塚、律師桂海供養塔 |
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爽快なダウンヒル |
のどかやなぁ〜
(@^▽^@)
@大原野 |
道標石(左:善峯寺、右:金蔵寺)@石作町 |
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善峯寺〜金蔵寺〜小塩山の稜線
えぇなぁ〜(@^▽^@) |
お〜、大原野ワラシベもぐさ軍団?
σ(^◇^;) |
大歳(おおとし)神社 |
灰方、小塩の産土神で古くは栢森大明神と称され大歳神を祭神とします。一に大年神とも記し穀物、特に稲作を司る神として古来、農民から崇敬されました。創祀年月は定かでないが養老2年(718年)とも伝えられる式内社で延喜の制には大社に列せられている古社です。石作神社は相殿に石作氏の祖神を祀った氏神(石作神、豊玉姫)を合祀しされています。石作氏は垂仁天皇の后、日葉昨姫(そはすひめ)が逝去の時に石棺を献上し、石作大連公(おおむらじのきみ)の姓を賜ったとされます。 |
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大歳神社 |
由緒書 |
境内 |
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暮れなずむ西山(上羽町) |
JR向日町駅 |
いちご大福、桜もちゲット!
(^◇^;) なははは〜 |
Tourist
2007.2.05(M) |