アーカイブ『古都(京都&奈良)世界遺産26/28』

 

世界遺産

地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から引き継がれた貴重な宝です。世界遺産には様々な国や地域に住む人々が誇る文化財や自然環境などがあります。中には、人類の残酷な歴史を刻むもの、戦争や自然災害、環境汚染などにより危機にさらされているものも含まれています。それらは国際協力を通じた保護下、国境を越え今日に生きる世界の全ての人々が共有し、次世代に受け継いでいくべきものとされます。

要所に地図をリンクしましたのでご参考に!(^_-)

古都・京都 Kyoto 世界遺産17/17

京都で世界遺産に登録されているのは、東寺(救王護国寺)、西本願寺、二条城、下加茂神社、上加茂神社、清水寺、高山寺、銀閣寺、金閣寺、龍安寺、醍醐寺、宇治上神社、平等院、天龍寺、比叡山延暦寺、仁和寺と唯一拝観していない西芳寺(苔寺)の17です。

古都・京都と言えば・・・四季折々の花々 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
錦秋の京都も えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
宇治上神社 ☆地図

元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれ明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初期のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものです。

宇治上神社 拝殿(国宝) 本殿(国宝)
平等院 ☆地図

10円硬貨のデザインとしても有名です。宇治上神社と共に平成6年(1994年)、世界遺産登録されました。朝日山と号し元は天台・浄土兼学であったが今は単立寺院となり最勝院と浄土院によって交互に管理されています。藤原氏一族によって多くの伽藍が建立され栄華を誇りましたが藤原氏の衰退、中世以降の兵火によって多くの諸堂を失い創建当時唯一の建物の阿弥陀堂(国宝)は、永承7年(1052年)、宇治関白・藤原頼通が、父・道長の別荘の宇治院を寺改し平等院と名付けました。鳳凰堂は翌年に阿弥陀堂として建てられ、仏師・定朝の作になる阿弥陀如来像が安置されている中堂は入母屋造り、床下の高い左右の翼廊、楼閣は宝形造、背面の尾廊で構成され正に鳳凰が両翼を広げて飛び立とうとする姿に見せています。大屋根には鳳凰が飾られ、内部は絢爛な宝相華文様や極彩色の扉絵で装飾され、御堂と池が一体化された浄土庭園は史蹟名勝庭園にも指定されあたかも極楽浄土を再現したような絢爛豪華さです。

平等院 源三位頼政墓所 平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)
仁和寺(にんなじ) ☆地図

真言宗御室派の大本山で第58代・光孝天皇によって、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願された事に始まりその後、宇多天皇が仁和4年(888年)に造営を完成されました。「御願寺」と称する寺院は、皇室の私寺を意味しますが、西山御願寺は完成と共に、先帝から受け継がれた「仁和」の年号をもって寺号と定められ、大内山仁和寺と呼ばれました。応仁元年(1467年)、応仁の乱によって一山ことごとく灰燼しました。徳川幕府三代将軍・家光の御代に再興されました。京都御所の再建とも重なり御所から仁和寺金堂になっている「紫寝殿」、他多数の建造物と再建資金として20数万両を徳川幕府から得て再興されました。明治の大火で本坊、寝殿などが消失しましたが現存するほとんどの伽藍は寛永年間の遺構で明治維新では第30世・純仁法親王が還俗した事で皇族が門跡となる宮門跡になる時代が終わりました。平成6年(1994年)に仁和寺は世界遺産に登録されました。仁王門は、知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都三大門と呼ばれ、同時代を代表する建築物として知られますが知恩院や南禅寺の門が禅宗様式(唐様)であるのに対し、仁和寺の仁王門は和様である事に違いがあり寛永14年(1637年)〜正保元年(1644年)にかけて建てられました。

御室桜(お多福桜)と参道 五重塔(重要文化財:江戸期) 金堂(国宝:桃山期)
緑茶発祥の地・・・高山寺 ☆地図

栂尾(とがのお)山と号する真言宗の単立寺院です。初め神願寺都賀尾坊(とがおぼう)と称する天台寺院でしたが久しく荒廃していたのを鎌倉時代の建永元年(1206年)、明恵(みょうえ)上人によって再興され、後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺(ひいでてまずこうざんをてらすやまのてら)」の勅額を賜り高山寺と改めました。以後、華厳宗興隆の道場となり次第に朝野の崇敬を集め北条泰時は政治の要諦を上人に謀り、建礼門院は上人より受戒したとされます。南北朝時代は寺域も広大でしたが室町時代の応仁の乱で退転し諸堂の多くを失ったが近世、豊臣秀吉から寺領58石を与えられ寛永11年(1634年)、仁和寺の旧御所の建物を移築し金堂を再建しました。本尊・釈迦如来像を安置し開山堂には明恵上人樹上坐像(重文・鎌倉期)を安置します。石水院は鎌倉時代初期の寝殿造りの形式を留める貴重な建造物で国宝に指定され文化財も頗る多く、絹本著色仏眼仏母像一幅(国宝・鎌倉期)、薬師如来坐像(重文:天平期)、善妙神、日光神立像(重文:鎌倉期)、狛犬四対(重文:鎌倉期)、華厳宗祖師絵伝(国宝・鎌倉期)など国宝8点、重要文化財51点にも及び中でも鳥羽僧正筆による紙本墨画鳥獣人物戯画四巻(国宝・鎌倉期)は有名で平成6年(1994年)にユネスコ世界文化遺産に登録されました。境内にある栂尾茶園は鎌倉初期に栄西禅師が宋から将来した茶種を明恵上人に送り栂尾の深瀬三本木に植えたのが我が国最初の茶栽培となって隆盛し宇治の茶は栂尾から移植したもので宇治の茶業家は現在も新茶を明恵上人の廟前に供えるのを慣わしとされます。

参道 日本最古之茶園(茶畑) 金堂
天龍寺 ☆地図

臨済宗天龍寺派の大本山です。後嵯峨天皇の亀山離宮を暦応2年(1339年)、足利尊氏が吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔う為に夢窓疎石(むそうそせき)を開山として創建した禅寺です。天龍寺造営資金に困窮し、天龍寺船による対元貿易での利益を造営資金に充てたと伝わります。創建以来650余年、その間に8度の兵火にかかり、殆ど古建築を見る事が出来ません。現在の諸堂は明治時代に再建されました。特別名勝に指定されている曹源池庭園は夢窓国師の作庭で嵐山、小倉山、亀山などの借景を見事に取り入れた回遊式庭園は独特の優美さがあります。

法堂(はっとう) 曹源池と大方丈(おおほうじょう:本堂) 曹源池庭園
新撰組屯所だった西本願寺 ☆地図

浄土真宗本願寺派の大本山で正しくは本派本願寺と号します。親鸞上人の末女覚信尼が亡父の遺骨を奉じて東山大谷に廟宇を創建し上人の御影を安置して御影堂と称したのが起こりで戦国乱世に会して各地を転々として天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により現在地に移り、慶長年間、大谷派分立があったが大きな動揺もなくその後300余年間宗門体制維持に努めました。特に幕末の動乱、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)後の仏教界の指導的立場にありました。元和3年(1617年)の火災で諸堂を焼失しましたが、伏見城、聚楽第から豊臣秀吉所縁の建造物が移築され、華麗な桃山文化を偲ばせます。唐門(伏見城遺構:日暮門/国宝:桃山期)は、伏見城から移築され御影堂(重要文化財)は親鸞聖人の荼毘(だび)の灰を漆に混ぜて塗ったと伝えられる坐像を安置するが現在屋根などを大改修中です。天井や障壁画の絢爛な装飾で知られる書院(国宝)には203畳の対面所、虎渓(こけい)の庭(史跡・特別名勝)、天正9年(1581年)建立の日本最古の能舞台(国宝)がなどがあります。元冶2年(1865年)、寺の北集会所、太鼓楼などを新撰組が慶応3年(1867年)6月15日まで屯所として使用しました。

新撰組屯所ゆかりの太鼓楼 阿弥陀堂(総御堂/重要文化財:江戸期) 唐門(伏見城遺構:日暮門/国宝:桃山期)
清水寺 ☆地図

北法相楽の大本山で正しくは音羽山観音寺と号し清水寺は俗称です。寺伝によれば鹿狩りに来た坂上田村麻呂が此処で修行中の僧・延鎮に出会い殺生を戒められ延暦17年(798年)、一宇の仏堂を建て千手観音を祀ったのが起こりとされ弘仁元年(810年)、鎮護国家の道場となり奈良の長谷寺、近江の石山寺と並ぶ観音零場として崇められた。霊験談は清少納言を始め更級日記の作者による古典文学、謡曲「田村、熊野(ゆや)」によって紹介されています。中世の南北朝騒乱に巻き込まれ度々兵火の災厄を蒙ったが、その都度再建され現在の建物は寛永6年(1629年)の出火後、徳川三代・家光によって再建されたものが多いです。西門(重文:江戸期)は三間一戸、切り妻造り、桧皮葺の八脚門で正面に一間の向拝、背面に軒唐破風を付け上り勾欄を備えた珍しい形式で鐘楼(重文:桃山期)と共に桃山時代後期の華麗な装飾彫刻が施されています。門前左手の馬駐(うまとどめ/重文:室町期)は馬五頭が繋げる事ができる我が国最古の厩(うまや)です。

仁王門、西門、三重塔 三重塔、本堂と清水の舞台
「わび、さび」の東山文化の代表・・・銀閣寺(東山慈照寺:じしょうじ) ☆地図

金閣寺(鹿苑寺:ろくおんじ)の北山文化の華やかさに比べ東山文化の「わび、さび」の世界を漂わせる銀閣寺は室町幕府8代将軍・足利義政が、祖父の義満が建てた北山殿金閣(鹿苑寺:ろくおんじ)にならって文明14年(1482年)に隠栖生活を過す為に山荘の東山殿を造営したのが始まりです。義政の死後、遺言により臨済宗相国寺派の禅寺に改められ義政の法号・慈照院に因んで東山慈照寺と号しました。東山殿は義政を中心に形成された東山文化の発祥地で近世的生活文化の発端を成し今も東山文化と禅宗文化の結合が見れます。銀閣(観音殿/国宝:室町期)は、観音殿として質素高貴な建築意匠です。義政の持仏堂である東求堂(とうぐどう)は日本最古の書院造りで国宝に指定されています。東求堂内の北面東側にある四畳半の茶室は同仁斎(どうじんさい)と呼ばれ草庵茶室の原型とされます。特別名勝、特別史跡の庭園は西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政と善阿弥によって作庭されたものです。白砂を段形に盛り上げ中国・西湖を模した銀沙灘(ぎんさだん)や向月台(こうげつだい)が、月光を反射して銀閣を照らすと言われます。

白砂を段形に盛り上げ中国・西湖を模した銀沙灘(ぎんさだん) 錦鏡池と観音殿(銀閣/国宝:室町期)
北山文化の象徴・・・金閣寺(北山鹿苑寺:ろくおんじ) ☆地図

臨済宗相国寺派の別格本山で正しくは北山鹿苑寺と号し金閣寺は俗称で応永4年(1397年)、足利3代将軍・義満が、西園寺公経の山荘を譲り受け壮麗な北山殿を造営しました。応永15年(1408年)、義満の没後、子・義持が遺言により禅宗寺院に改め、義満の法号(鹿苑院殿)に因んで鹿苑寺と号し方丈、仏殿が新たに建立されました。足利歴代将軍の参詣する所となったが応仁の乱に罹災し金閣のみを残して他は焼失し足利氏の衰退と共に寺運も衰えました。後に豊臣秀吉、徳川家康の帰依を受け西笑承兌(さいしょうじょうたい)、鳳林承章(ほうりんしょうしょ)、文雅慶彦が相次いで住持となり庭園の整備、金閣寺の補修にあたり現在の鹿苑寺は江戸中期頃に完成したと伝えます。

樹齢600年と伝え京都三松の一「陸舟の松」 夕佳亭(せっかてい) 鏡湖池(きょうこち)と金閣
龍安寺(りょうあんじ) ☆地図

臨済宗妙心寺派に属し大雲山と号する禅苑の古刹です。宝徳2年(1450年)、室町幕府官領・細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受けて山荘内に一宇の仏堂を創建し妙心寺の義天玄承を開山として龍安寺と号したのが起源です。応仁の乱に焼失し長享2年(1488)、細川勝元の子・政元が再興し近世は塔頭子院20余有を数える大寺になり妙心寺派十刹の一に数えられましたが寛政9年(1797)の火災で方丈を残して仏殿、開山堂などを失い現在の建物は、その後の再建によるものです。方丈(重文:桃山期)は、慶長11年(1606年)、塔頭・西源院の本堂を移築したもので入母屋造り、柿葺(こけらぶき)で簡素な中にも桃山期の建築様式を伝え釈迦如来像、細川勝元像などを安置しています。方丈の前庭は枯山水の庭(史特名・室町期)として世にも有名です。

西の庭と開山堂(非公開) 庫裡 石庭(枯山水:虎の子渡しの庭)
東寺(救王護国寺:左寺) ☆地図

延暦13年(794年)、桓武天皇が平安京造営に際し国家を鎮護する為に羅城門を挟んで朱雀大路の東西に二官寺として建てられたのが、東寺と西寺でした。造営当初の平安京では、僧の政治干渉を排除する為に東寺、西寺の二官寺しか建造が許されませんでした。東寺は、大路の東(左京)にあったので東寺と言い、一に左寺、左大寺とも言います。始め、造寺司を置き、延暦16年(797年)頃から造営が開始されましたが、弘仁6年(815年)、僧侶を別当とする造寺所が設けられ東寺は弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から弘法大師(空海)に下賜され大師は天長2年(825年)、仁王護国の本尊を安置し真言密教の根本道場とし、救王護国寺と号しました。以来、朝野の崇敬篤く、天下に事あるごとに当寺において修法祈祷を行い、延暦寺と並んで顕蜜(げんみつ)二教と言われ我が国の宗教界に君臨しました。中世の兵乱等で創建時の建物は失われ往時の遺構を留めませんが、今も鎌倉初期〜江戸初期に至る各時代の古建築を有します。後白河法皇の皇女・宣陽門院、後醍醐天皇、豊臣家、徳川幕府の庇護を受け復興し現在の伽藍配置は、南大門(重文:桃山期)、豊臣秀頼が再建した金堂(国宝:桃山期)、貞観仏群がひしめく講堂(重文:桃山期)、食堂(じきど う)、北大門が一直線に並び、南大門の東に徳川家光が再建した五重塔(国宝:江戸期)、西に潅頂院(かんじょういん/重文:江戸期)など奈良時代の寺院建築様式で再建されたものです。弘法大師は「祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想である」との信念を持っていました。塀で区画された境内はそのまま曼荼羅であり、東寺から様々なメッセージを汲み取る事ができるとも言われます。国宝20件、重要文化財45件の寺宝を収蔵する事でも有名です。五重塔(国宝)は徳川家光の寄進で総高55mの現存する古塔中、日本一の高さを誇ります。南大門(重文:桃山期)、蓮花門(国宝:鎌倉期)、北大門(重文:鎌倉期)、東大門(不開門:あけずもん/重文:鎌倉期)、慶賀門(重文:鎌倉期)を四方に配置し宝物館には、我が国最古とされる兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう:国宝)を始め彫刻、絵画、書跡など真言密教に関する寺宝が23,000点以上と多数収蔵しています。

徳川家光が再建した五重塔(国宝:江戸期) 南大門(重文:桃山期) 金堂(国宝:桃山期)
元離宮 二条城 ☆地図

慶長5年(1600年)、関が原の戦いに勝利し政権を握った徳川家康が慶長8年(1603年)、京都の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営し、三代将軍・家光により伏見城の遺構を移すなどして寛永3年(1626年)に完成しました。慶長8年(1603年)2月、征夷大将軍に任ぜられると竣工早々の二条城で拝賀を受けました。当城で徳川家康が豊臣秀頼と会見したり大坂冬・夏の陣には二代将軍・秀忠らと軍議を凝らしました。寛永11年(1634年)、家光の上洛以降は将軍上洛の必要もなく城内殿舎は次第に取りこぼち留守居役の武士が留まるに過ぎませんでした。寛延3年(1750年)、雷火で天守閣を焼失、天明8年(1788年)正月、市中大火に再び本丸内殿舎や櫓などの類焼をみたが再興はなく家康が建てた二之丸御殿のみが残りました。文久3年(1863年)、家光上洛から229年ぶりに将軍・家茂が孝明天皇の勅を奉じて上洛し慶応3年(1867年)10月、将軍・慶喜が大政奉還を決し城中から上表、ここに武家政治の幕を閉じましたが豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された桃山時代様式の全貌を垣間見る事ができます。

東大手門(重要文化財) 冬の風物詩、養生の蘇鉄と黒書院 伏見城天守閣が移築された天守閣跡石垣
醍醐寺(下醍醐、上醍醐) ☆地図

醍醐山全体、広大な境内を有する真言宗醍醐寺派の本山です。創建は、貞観年間(859〜877年)、理源大師が世俗を離れ真の仏を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立した事に始まり醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山麓の下醍醐に分かれています。五重塔は、天暦5年(951年)に完成した京都府内で最古の建造物です。五重塔以外の建物は、応仁の乱により殆どが焼失し、豊臣、徳川両家によって、現在の伽藍に整備されました。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が豪華な花見の宴を開催しました。上醍醐、下醍醐合わせて8万坪の境内には、約2000本の桜があり、毎年4月の第2日曜日に太開花見行列が行われます。

(下醍醐)
豊臣秀頼が寄進した仁王門(重文:桃山期) 五重塔(国宝:藤原期) 金堂(国宝:鎌倉期)
(上醍醐)
上醍醐(左:如意輪堂、右:開山堂) 准胝(じゅんてい)観音堂 如意輪堂(重要文化財:桃山期)
下加茂神社(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ) ☆地図

正しくは賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称し祭神は上加茂神社の祭神・別雷命(わけいかづちのみこと)を生んだ玉依姫命(たまよりひめのみこと)と祖父・加茂建角身命(かもたけつぬのみこと)を祀る加茂氏の氏神社です。地勢によって上加茂神社を上社と言うのに対し当社は下社と言いますが行幸、斎王、式年造営などは同日に行われます。両社を称して加茂神社と言います。鎮座地は糺の森の中にあって朱の鳥居や楼門が緑に映えて一しお目立ち、桧皮葺の典雅な社殿と相俟って王朝時代さながらの景観を呈しています。本殿(国宝:江戸期)は三間社、流造り、桧皮葺で上加茂神社本殿と同形式からなる流れ造りの典型で文久3年(1863年)の再建です。他に幣殿を始め55棟からなる多々の社殿(重文:江戸期)は何れも寛永5年(1628年)の造替ですが全体に古式を留め、昔の貴族住宅を偲ばせています。境内には摂社、末社が多く中でも三井神社は「山城国風土記」に記された蓼倉里三身(たでくらのさとみ)社とあるのは当社とされます。井雲井於(いづものいのえ)神社は一に比良木社とも呼ばれ下鴨の地主神ですが厄除けの神としも崇敬され願いが叶うとお礼に柊を献ずる慣わしがあります。御手洗社は井上社とも言い井泉の神瀬織津姫を祀り社前の池で御手洗会、夏越の祓が行われます。河合神社は本社より南、糺の森中に鎮座する摂社の一で玉依姫命と上下加茂社の苗裔(びょうえい)神を祀る延喜式内の大社です。

楼門と東西の楼門廻廊(共に重文:江戸期) 御手洗社(井上社)と御手洗池 幣殿、本殿(国宝:江戸期)
上加茂神社(加茂別雷神社:かもわけづちじんじゃ) ☆地図

正しくは加茂別雷(かもわけづち)神社と称し加茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祭神とします。下鴨の加茂御祖(みおや)神社を下加茂(鴨)神社と称するのに対して当社は上加茂神社と称し両社を併せて加茂神社と称します。『山城国風土記』の逸文によると日向国より当地に来住した加茂建角身命(たけつぬみのみこと)は伊可古夜日女(いかこやひめ)をめとって玉依日子(たまよりひこ)と玉依日売(たまよりのひめ)をもうけました。ある日、玉依日売が瀬見の小川(加茂川)で丹塗の矢とは乙訓郡にいます火雷命(ほのいかづちのみこと)である伝々と記しています。別雷といい、火雷といい、雷神は農作に必要な水を給与する神として古代農民から崇敬されました。この崇敬の心を神話化したのが『加茂伝記』です。従って両社の創建は、すこぶる古く欽明天皇の時代には既に現在の葵祭である加茂祭が存していたと伝えます。平安遷都には王城の守護神とされ伊勢神宮に次ぐ崇敬を得、歴代の皇女が斎王として奉仕されました。延喜の制には名神大社に列し多くの神領が寄進され中世には山城国一ノ宮として社運は隆盛を極めました。本殿(国宝)は三間社、流造り、檜皮葺。権殿(国宝)と東西相並び他の四十棟(重文)とともに世界文化遺産に登録されています。664,000uに及ぶ広大な神域内には幾多の檜皮葺の典雅な社殿が建ち並び、王朝時代さながらの景観を呈しています。

楢ノ小川 楼門 円錐先に神の依代として松葉が立てられる立砂と細殿
西芳寺(苔寺) ☆地図

臨済宗系単立寺院で洪隠山(こういんざん)と号し通称は苔寺。創建に関しては不詳ですが、当地にあった最福寺谷ガ堂の一院、西芳寺の名を継承したと思われます。摂津大守・大江師員(もろかず)が建久年間(1190〜99年)に再建したものを、子孫の親秀(ちかひで)が歴応2年(1339年)、夢窓国師を請うじて再興、名も西芳寺と改めたと伝えます。以来、寺運は隆盛に趣き、伽藍の結構と庭園の美は隣国にまで宣伝されました。足利義満・義政も来遊し林泉の美を賞したが、義政は東山殿を造営する時、当寺の庭園に範を求めたと伝えます。応仁の乱や洪水の為に荒廃し、庭園も苔が生えるまま放置された。これが苔寺の起こりです。近年、堂宇を整備し面目を一新したが、庭園は昔のままです。

西芳寺(苔寺) 西芳寺(苔寺)東門 西芳寺(苔寺)庭園
Pちゃんズ一押しの比叡山延暦寺 (@^▽^@) ☆地図

延暦寺は天台宗総本山です。延暦7年(788年)、伝教大師最澄は比叡山上に自ら刻んだ薬師如来像を本尊として、一乗止観院(根本中堂)を創立し比叡山寺と号したのが延暦寺の創始であると伝えます。延暦寺という単一の堂宇は無く、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三塔からなり夫々の中堂(本堂)と付随する堂宇があり三塔十六谷三千坊と称され比叡山全体が延暦寺です。桓武天皇の平安遷都に伴い都の鬼門の方向にある比叡山寺が官寺(国家を鎮護する為の寺院)に選ばれました。延暦寺と号したのは、伝教大師最澄没後の弘仁14年(823年)であると伝わります。その後、他山の宗教争い等で、しばしば多くの堂を焼失しましたが、その度に復興され現在に至ります。比叡山から数多くの名僧、高僧を輩出しており、平安〜鎌倉期に各宗派を広めた法然、親鸞、道元、一遍、栄西、日蓮らの僧もここで修行し日本仏教の発祥地とされる所以です。元亀2年(1571年)、織田信長の軍勢によって比叡山全山すべて焼き払われ建物で残ったのは西塔にある瑠璃堂のみとされ僧侶、坂本の住民など二千人以上が惨殺されました。その後、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、家光らによって延暦寺は復興されました。比叡山は日本仏教の母山とされ、文化遺産が豊富な寺院としても有名で63点の国宝、重要文化財を含む数百点もの寺宝を所蔵します。

大講堂 根本中堂(国宝)・・・平安初期、最澄が建立した一乗止観院。天台宗総本山の中心道場
いにしえの都・奈良 Nara 世界遺産9/11(未探訪2:吉野山、春日山原始林)

奈良で世界遺産に登録されているのは、東大寺、春日大社、興福寺、平城宮跡、薬師寺、唐招提寺、元興寺、法隆寺、法起寺と探訪していない吉野山(過去に一度花見に行った。)、春日山原始林の11です。

古都・奈良と言えば・・・シカさん えぇなぁ〜 (@^▽^@)
斑鳩の里のコスモスも えぇなぁ〜 (@^▽^@)
平城宮跡(特別史跡) ☆地図

朱雀大路北端の朱雀門をくぐると天皇の住居、政治や国家的儀式を行う平城宮がありました。平城宮周囲は大垣が廻らされ、朱雀門を始め12の門があり平城宮内部には幾つかの区画がありました。政治、儀式の場である大極殿、朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司、宴会を行う庭園などです。中でも政治、儀式の場は、都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化がありました。奈良時代前半、朱雀門の真北にあった大極殿(第一次大極殿)が、奈良時代後半になると東側の区画(第二次大極殿)に建てられましたが、内裏は、奈良時代を通じて同じ場所にありました。

朱雀門 阪神甲子園球場の約30倍(120万u)という広大な平城宮跡と大和ワラシベ軍団?! σ(^◇^;)
興福寺 ☆地図

法相宗大本山で興福寺の前身は飛鳥の厩坂寺(うまやさかでら)です。更に遡ると天智朝の山背国「山階寺:やましなでら」が起源となります。山階寺は、天智8年(669年)に藤原(中臣)鎌足が重い病気を患った時に夫人の鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置する為に造営したと伝え、この寺名は後世においても興福寺の別称として使われています。672年(無元号の年)、壬申の乱後、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。そして平城遷都の際、和銅3年(710年)に藤原不比等によって移され興福寺と名付けられました。

猿沢池と五重塔 興福寺伽藍 高さ50.1mの五重塔
春日大社(国指定史跡) ☆地図

平城京に遷都された和銅3年(710年)、平城京と藤原氏の守護神として藤原不比等(ふじわらのふひと)が創建しました。式内社(名神大社)の二十二社の一社、旧社格は官幣大社で全国にある春日神社の総本社です。茨城県の鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、 千葉県の香取神宮から、経津主命(フツヌシのミコト)、天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と比売神(ヒメガミ)は、大阪府枚岡(ひらおか)神社から春日の地に迎えて四神を祭神とし、奈良時代の神護景雲2年(768年)、現在地に四所の神殿が創建されたのが始りと伝えます。藤原氏の隆盛と共に当社も隆盛し平安時代初期には官祭が行われるようになりました。当社の例祭である春日祭は賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭と共に三勅祭の一とされます。藤原氏の氏神・武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたと伝える事から、鹿が神使とされ奈良の鹿は大切に保護されています。

二の鳥居 境内 舞殿(左)・幣殿(重要文化財)
東大寺 ☆地図

天平13年(741年)に聖武(しょうむ)天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と号した華厳宗大本山です。神亀5年(728年)、聖武天皇の皇子・基(もとい)王の菩提を追修する為に建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)が始まりです。天平12年(740年)、後に東大寺初代別当となる良弁(ろうべん)が主宰して、我国で初めて「華厳経(大方広仏華厳経)」の講読が開始されました。この講義は、新羅で華厳経(けごんきょう)の教えを学んだ大安寺の審祥を講師に招き「六十華厳」と言われる仏駄跋陀羅(ブッダバドラ)を中国語に訳した60巻もの「華厳経」を参考にされました。注釈書には、中国華厳宗の第三祖で華嚴教学の大成者といわれる法蔵(賢首大師)が著した「探玄記」が用いられたと伝えます。鏡忍、慈訓、圓澄を複師とし南都碩学16人を聴衆として、1年に20巻ずつ講義は進められ、3年後の天平14年(742年)、ようやく初回の講読が終講されました。天平15年(743年)、聖武天皇の盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ:奈良大仏)造顕の詔公布は河内国知識寺において天皇が盧舎那仏を拝した事がきっかけであったと伝えますが、「華厳経」の教理が明らかにされて初めて盧舎那大仏造顕という大事業の発願が可能だったのではないかと考えられ、良弁により主宰された我が国で初めての「華厳経」講読の成果が、後の盧舎那大仏造顕に結実したとされます。天平17年(745年)に金光明寺にて造営が開始された際、東大寺となりました。国力を注いだ一大事業である大仏建立は3年をかけ、天平勝宝4年(752年)、開眼法要が盛大に営まれましたが、大仏殿や講堂など伽藍が完成したのは延暦8年(789年)でした。治承4年(1180年)に平重衝、永禄10年(1567年)には松永久秀の兵火で伽藍が焼失し、現在の伽藍は宝永6年(1709年)に再建されました。

日本最大の三門・南大門(国宝) 世界最大の木造建築の大仏殿(金堂:国宝) 盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう:奈良大仏)
元興寺(がんこうじ) ☆地図

元興寺、南都七大寺の一に数えられる寺院で推古元年(593年)11月、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的な仏教寺院の法興寺が前身と伝えます。法興寺は和銅3年(710年)、平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となりましたが、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、飛鳥寺となっています。奈良時代には東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいましたが、中世以降次第に衰退し、現在は奈良市中院町の真言律宗・元興寺(西大寺末寺)と奈良市芝新屋町の華厳宗・元興寺(東大寺末寺)の二寺院に分かれています。極楽堂(本堂)の屋根には日本最初の瓦が現在も使用されています。

元興寺 極楽堂(国宝鎌倉期)と禅室(国宝 鎌倉期) 極楽堂(本堂:国宝 鎌倉期)
聖徳太子ゆかりの法隆寺 ☆地図

飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。創建の由来は、寺伝によると「金堂」の東の間に安置される「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平19年:747年)の縁起文によって知る事ができます。それによると、用明天皇が自らの病気平癒を祈って寺と仏像を造る事を誓願されましたが、実現をみないまま崩御されたと伝えます。推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607年)に寺と本尊「薬師如来」を造られたのが法隆寺(斑鳩寺)であると伝えます。現在、法隆寺は塔、金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約18万7千uの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒を連ね、多くの宝物類が伝来しています。国宝、重要文化財に指定されたもの約190件、2,300余点に及んでいます。法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1,400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、平成5年(1993年)12月、ユネスコ世界文化遺産に日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として注目を集めています。

日本で最初に世界文化遺産登録された世界最古の木造建築の法隆寺 日本最古の五重塔(国宝:飛鳥期)
法起寺(ほうきじ、ほっきじ) ☆地図

別名、岡本尼寺(おかもとにじ)、岡本寺、池後寺(いけじりでら)、池後尼寺(いけじりにじ)とも呼ばれ法隆寺地域の仏教建造物の一部として世界文化遺産に登録されています。寺伝によると推古14年(606年)、聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたと伝え、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つに数えられています。創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘(ろばんめい)によって判明します。それによると、推古30年(622年)2月22日、聖徳太子は薨去に臨み、長子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)に宮殿(岡本宮)を改めて寺とする事を遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したと伝えます。その後、舒明10年(638年)に福亮僧正が聖徳太子の為に、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年(685年)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったと伝えます。この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していた事が明らかとなると 同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったと推測されています。当寺の事は、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見られ、奈良時代には相当栄えていたようですが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に哀微しましたが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されましたが室町時代に再び衰え、江戸初期頃には三重塔のみを残すのみであったと伝えます。その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍とその弟子たちは、延宝6年(1678年)に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄7年(1694年)に講堂を再建、文久3年(1863年)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられています。昭和47年(1972年)には三重塔の解体修理に着手し、50年(1975年)に完成、53年(1978年)には講堂の修理を行い、57年(1982年)に十一面観音菩薩像(重要文化財:10世紀後半頃)を安置する収蔵庫を新設しました。

法起寺 境内 飛鳥時代の建築特徴を現している三重塔
薬師寺 ☆地図

白鳳時代の680年、天武天皇が妻の鸕  野(うの)皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願を発願し、 698年、持統天皇 (天武天皇皇后)によって藤原京に七堂伽藍の大寺が完成し、本尊を開眼、更に文武天皇(もんむ)天皇の御代(みよ)に至り飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。後の和銅3年(710年)、平城遷都に伴って現在地に移転されました。当時、南都七大寺の一として大伽藍は我が国随一の壮美を誇りました。金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が建ち並び、中でも裳階(もこし)を施した金堂、両塔の佇まいの美しさは、「竜宮造り」と呼ばれ人々の目を魅了しました。爾来、1300年を経て、幾多の災害を受け、特に享禄元年(1528年)の兵火で東塔(国宝:白鳳期)を除く諸堂が灰燼しました。昭和42年(1967年)、高田好胤管主(こういんかんず)により薬師寺白鳳伽藍復興が発願され、失われた堂塔の復興を薬師寺の大悲願とし、お写経勧進によって金堂、西塔、中門、回廊、更に平成15年(2003年)3月、大講堂が復興され白鳳伽藍の輪奐美(りんかんび)として甦りました。

大池からの薬師寺と若草山 o(>w<)〇゛ 白鳳伽藍 「凍れる音楽」と評される東塔(国宝:白鳳期)
唐招提寺 ☆地図

鑑真(がんじん)和上は聖武天皇の懇請に応えて来朝を決意されたが、唐から12年にも及ぶ辛苦の末に来朝(奈良)した時には、両目を失明していました。鑑真は東大寺大仏殿の戒壇を退いてから新田部(にいたべ)親王の旧邸を譲り受け、天平宝字3年(759年)に創建した律宗総本山で唐時代の厳しい中国仏教の規律を今に伝えます。天平時代、仏教が盛えた反面、俄か坊主も続出した為、聖武天皇は僧侶に正式な戒を授けて規律を正したいと願って唐の高僧・鑑真を招きました。6年後の天平宝字3年(759年)、鑑真和上は僧侶を育成する私寺を建立し戒律を守り心静かに落ち着かせる我が国唯一の戒律専修道場を築きました。当初は簡素な宿舎でしたが、朝廷などの寄進により徐々に伽藍を整えました。災禍を免れ、創建時の天平遺構を残しています。余談ですが、唐招提寺が建つ辺りを尼ヶ辻と言います。鑑真が東大寺戒壇院から隠退する時、寺院建立の候補地捜しました。方々の土を舐めて物色したところ、土が唐の清官戒壇の土と同じように甘かったので当地に建立を決定したと伝えます。甘土が訛化して尼ヶ辻になったそうな・・・他説では、平安時代に興福院(こんぶいん)という尼寺があったので町名になったとも伝えます。現在、佐保にある興福院は、元、当地にあったもので寛文(かんぶん)5年(1665年)に移築されました。現在、「平成の大修理」が行われており、金堂は養生建物で覆われた状態で平成21年(2009年)に修理完了予定・・・★金堂(国宝)の写真はポストカードより引用

創建当時を今に伝える天平建築の金堂(国宝) 講堂 鑑真和上廟

Column up 2006.12.27(W)

 

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