伏見水郷、前川堤、背割堤(剣先)・・・洛南桜花めぐり

 

男山 仰ぎてうくる 破魔矢かな   高浜虚子

 

西岸寺(油懸地蔵尊)〜長建寺〜十石舟〜寺田屋〜前川堤〜背割堤〜流れ橋・・・洛南の桜花を自転車でめぐるo(*^▽^*)o

 

西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったと伝える。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、鎌倉期に作られたものです。

西岸寺(油懸地蔵尊) 境内の桜

伏見と言えば・・・酒、酒蔵

伏見は「伏水」とも記され、良質の地下水に恵まれて古来、酒造りが盛んで兵庫県の灘と並ぶ二大銘酒処として知られます。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城を築き淀川を巨椋池から切り離し城の外濠として構築させました。酒蔵の多くは、宇治川派流、濠川に接して建てられ明治の終わり頃まで米、薪炭、樽材などの原材料が宇治川派流、濠川を上下する十石船で運ばれていました。

酒蔵 長建寺 境内の桜

長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。

境内の桜 本堂 宇治川派流を巡行する十石舟@弁天橋

人、物資を運んだ伏見名物「十石舟、三十石船」

伏見開港400年を記念して復元された江戸時代の過書船で春〜初冬にかけて定期運航では淀川船運の歴史を今に伝える水郷を巡ります。江戸時代、大方の旅人は伏見街道から京橋に出て寺田屋の前の船着場(寺田屋浜)から三十石船(一般的に旅客定員28名〜30名、船頭4名が定員)で大阪・八軒屋(堺屋源兵衛)へと向かった。急行便とする寺田屋の船は6人〜8人に増員した船頭で朝三便、昼四便、夜五便ほど往復、下りは早く夜に乗船すれば早朝には大阪に着いたが、上りは綱で引くから朝に大阪・八軒屋を出ても夕方にしか伏見に入る事はできなかった。船賃は天保銭一枚、一人座席で寝ころべば三人分の料金、船頭1人増す毎に水夫増賃(かこましちん)を取られたという

十石舟弁天橋乗船場 秀吉丸に乗船 O(^◇^)O
大和出航???おっと秀吉丸でつた! (^◇^;) 船頭さんが色々解説をしてくれます。。。 酒蔵
蓬莱橋 \2800万かけて復元した三十石船@寺田屋浜 岸辺の桜、雪柳(ユキヤナギ)

角倉了以が開削した高瀬川

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

宇治川派流沿いの桜、柳並木 濠川(左)合流地点@であい橋 角倉了以が開削した旧高瀬川合流地点
角倉了以水利功碑(旧高瀬川合流地点) であい橋(濠川合流地点) 三栖(金井戸)神社の桜

三栖閘門(みすこうもん)

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

港大橋 前扉@三栖閘門 下船します・・・三栖閘門船着場
三栖閘門船着場 三栖閘門資料館
淀川三十石船 三十石船のモニュメント@伏見港広場 えぇなぁ〜 (@^▽^@)

豊臣秀吉が開港した河川内陸港「伏見港」

文禄3年〔1594年豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。

三栖閘門後扉室と閘室 伏見港を跨ぐ外環状線 閘室沿いの桜並木
観月橋〜第2京阪国道・京都南大橋方面@宇治川展望スポット(後扉室) 秀吉丸が出航して行きます。。。
三栖閘門閘室と前扉 宇治川展望スポット(後扉室) 伏見桃山城
三栖閘門パノラマ@宇治川展望スポット 宇治川や巨椋池干拓田なとが一望できる宇治川展望スポット(後扉室)
伏見の町並み えぇなぁ〜 (@^▽^@)
三栖閘門後扉室(宇治川展望スポット) 千姫丸が入港てきまつた。。。 千姫丸に乗船@三栖閘門船着場
後扉@三栖閘門 閘室内はバックで出航します・・・ 伏見港内で旋回中。。。
ヨーソロ〜 O(^◇^)O 港大橋 京阪電車橋梁 トラ退治で知られる加藤清正に因なむ肥後橋
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 先ほど乗船した秀吉丸が来ます。。。 であい橋
やっぱり・・・えぇなぁ〜 (@^▽^@) これでも一級河川の宇治川派流 京橋
三十石船@寺田屋浜(京橋) 蓬莱橋 酒蔵
酒蔵 弁天橋乗船場
千姫丸を下船@弁天橋乗船場 「島の弁天さん」と親しまれる長建寺 今日は係留されている龍馬丸
宇治川派流の桜と柳・・・これぞ伏見って感じ  えぇなぁ〜(@^▽^@)

坂本龍馬所縁の船宿・寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍との恋宿としても知られています寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁ぎました。伊助は放蕩者で宿は女将のお登勢が一切を切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育しました。義侠心が強く、志士達に援助を惜しまなかったと伝えます。

姫、ランチタイムでごじゃります〜 P姫の大好物「オムライス」と私は洋食弁当 (^◇^;) デカ〜 坂本龍馬ゆかりの船宿・寺田屋
庭内 お登勢明神 坂本龍馬の碑
女将・お登勢と寺田屋由来碑 薩摩九烈士碑・坂本龍馬銅像 蔵元
えぇなぁ〜 (@^▽^@) え〜っと・・・おやつの調達でつ。。。(^◇^;) 第2京阪国道(高速道工事中)
おけいはん特急 第2京阪国道 京都南大橋(宇治川:澱川)
かつて広大な巨椋池が広がっていた干拓田 巨椋池排水幹線(前川) えぇなぁ〜 (@^▽^@)
「京都の自然200選」に選定されている前川堤の素晴らしい桜並木 (@^▽^@)
前川堤両岸いっぱいに桜が美しさを競うとです・・・Beautiful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
大池神社

巨椋池に生息していた全動植物の鎮魂と農業の安全と繁栄を願って創建されました。昭和28年(1953年)に襲来した台風13号で宇治川左岸が決壊し、境内にある大池漁業記念碑の上端は、当時の洪水浸水線と伝えます。

見事な桜花繚乱 O(^◇^)O ふぉ〜 この辺りも巨椋池でした@東一口 巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」
洪水浸水線と伝える大池漁業記念碑 巨椋池碑 本殿
万葉の蓮見池巨椋池(おぐらいけ)

かつて、京都市南部の宇治川左岸に広がっていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。巨椋池は、太古の時代に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残とされます。洪積世第三期末〜第四期にかけての大規模な地殻変動によって出来た凹地に水が溜まり、やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、湖水は次第に狭められ、一番低地だった所が巨椋池として残りました。巨椋池の特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池という事です。巨椋池の由来は「大椋」、「巨椋」と称する部族がいたとか、巨椋神社の社号が地名となり、池名に転用されたとも伝えます。巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で、夏には蓮の花が咲き乱れるという自然の恵みに洪水の脅威があるにも関わらず、人々は沿岸に定住し農業、漁業や狩猟などを生業としました。明治後期、宇治川(澱川:よどがわ)などと分離され池の水位は著しく低下し、マラリアなどの疫病発生や水害が繰り返された為に昭和8年(1933年)、我が国初の国営干拓事業として着工され、昭和16年(1941年)に巨椋池干拓田が完成しました。戦中戦後は農地として貢献し近年は近隣の都市化が進み、交通の要衝ともなり、干拓田の様相も様変わりしてきました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。当時の蓮を彷佛させてくれるのが、地元の蓮愛好家の内田蓮園です。蓮園は大池神社の北側、東一口野菜洗場付近にあり、7〜8月の開花時期には巨椋池に自生していた品種や各地の蓮、200種以上が見事な花を咲かせます。

東一口野菜洗い場前の内田蓮園 山田家の長屋門 駒札
弥陀次郎(みだじろう)伝説を今に伝える浄土宗知恩院派紫金山・安養寺 前川橋
「京都の自然200選」に選定されている前川堤の桜並木@東一口(ひがしいもあらい) O(^◇^)O 美しい〜
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 巨椋池排水幹線(前川) 宇治川左岸堤防道
巨椋池(前川)排水機場 国土交通省久御山排水機場(古川、大内川)
淀競馬場 淀大橋、八幡、天王山方面 京阪電車宇治川(澱川:よどがわ)鉄橋

淀川河川公園背割堤(剣先)の桜(ソメイヨシノ)並木

宇治川と木津川の合流地点迄、約1.4kmの堤に約250本の桜並木(ソメイヨシノ:バラ科)が続きます。京阪電車の車窓からも美しい桜並木を見る事ができます。目の前に広がる桜のトンネルは格別で桜花とホトトギスなど野鳥のさえずりに包まれた桜の花繚乱の見事さは、洛南随一だと思います。昭和50年代始めまで松並木で「山城の橋立」と称されていましたが害虫被害で松が枯れ昭和53年(1978年)3月、当時の建設省が桜(ソメイヨシノ)に植え替えて今日に至っています。府道・京都守口線(旧国道1号線)の御幸橋(ごこうばし)から下流方向に1.4kmの桜並木になっています。ソメイヨシノ約250本、ハナミズキ52本が植栽されています。

京阪電車宇治川(澱川:よどがわ)鉄橋 洛南随一の桜並木・背割堤
俳人・荷兮(かけい)、基角(きかく)の歌碑 今日は、Pちゃんズでチャリテチ・・・O(^◇^)O
背割堤入口から約1.4kmの見事な桜並木が続きます・・・
背割堤の西端に到着しまつた・・・ 天下分け目の天王山
木津川河原と男山 背割堤の西端
ソメイヨシノ約250本、ハナミズキ52本が植栽され桜の津波のような背割堤 Pちゃんズ機動部隊(ラッキーU&キララちゃん)
今は京都を代表する桜並木ですが、昭和50年代始めまで松並木で「山城の橋立」と称されました・・・
Beautiful! Wonderful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
入口(御幸橋)から約1.4kmの桜のトンネルを往復2.8kmを通り抜け!!! 御幸橋(木津川)
見事な桜花繚乱!!! O(^◇^)O ふぉ〜 背割堤と天王山@御幸橋(木津川) しだれ桜@京阪八幡市駅ロータリー

八幡銘菓・走井餅(はしりいもち)

石清水八幡宮の表参道一の鳥居前にある走井餅老舗は、自伝によると、今から約240年前、大津大谷町で走井茶屋として創業。走井とは店のそばに湧き出ていた名水で、餅米や餡をこの名水で炊きました。走井餅は東海道大津宿の名物となり、この茶店は歌川広重の錦絵『東海道五十三次』にも登場します。走井茶屋は、明治初期まで賑わい、その後、茶屋は姿を消したが、茶屋旧跡は大正4年、日本画家・橋本関雪が別荘として購入。関雪没後の現在は臨済宗系単立寺院・月心寺となり、京阪・京津線追分駅〜大谷駅の中間辺りの国道1号線沿いに鄙びた門灯を掲げています。八幡店は明治43年に支店として開業。昭和に入って大津本店が国道の拡張の為に廃業した後も、暖簾を守り続け現在に至る。走井餅の両端を尖らせた形は、刀鍛冶・三条小鍛冶宗近が走井の水で名刀を鍛えたという伝説に因んだもので走井餅と命名され、この餅を食べれば道中剣難を免れると、旅人が縁起をかついだと伝えます。

八幡銘菓・走井餅老舗 昔の風情が漂う店内 八幡銘菓・走井餅と一服の茶湯 (@^▽^@)

清水八幡宮頓宮(お旅所)

「徒然草」に、仁和寺の法師が石清水詣でにやって来て、本社と間違えて参拝者で賑わう頓宮、高良神社を参拝しただけで帰ってしまい「さすが八幡様は立派であったが、参拝者がぞろぞろと山へ登っていくのには合点がいかぬが・・・」と言って笑い者になったいう一説があります。「あらまほしきは先達(案内人)也」と話を結んでいますが、頓宮だけでも満足できる事は事実です。

石清水八幡宮 放生池 八幡五水の一「筒井」、頓宮北門
頓宮南門 徒然草ゆかりの高良神社
上院への参道 放生池畔のさざなみ公園
安居橋(あんごばし/太鼓橋)@さざなみ公園 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
夕飯の食材などをゲット!!! (^◇^;) 京阪八幡市駅 御幸橋(木津川)手前右をサイクリングロードへ

男山合戦

清水八幡宮の歴史中で特筆すべきは、「男山合戦」といわれる南北朝時代最大の決戦が男山を中心に60日間もあった事で、この戦いを契機に南朝は急速に勢力を失いました。正平7年(1352年)春、南朝の後村上天皇は楠正義らと男山に立てこもり、対して足利尊氏の嫡子・義詮(よしあき)は東寺を本陣とし男山を四方から取り巻きました。戦いは激烈を極めたが楠正義の守備する洞ヶ(ほらが)峠が落ちると、後村上天皇はここを見限り大和大路を東大寺へと落ち、足利(室町)幕府は始めて基礎固めができたと伝えます。

八幡の町並みと男山@サイクリングロード 京阪電車木津川鉄橋 国道1号線木津川大橋@サイクリングロード
第2京阪国道@サイクリングロード 夕暮れ迫る男山、天王山 流れ橋(上津屋橋:こうづやばし)
流れ橋(上津屋橋)

木津川に架かる全長356m、幅3mの日本最長級の木造橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成16年(2004年)9月20日、増水で16回目の被災(流失をしました。

日本最長級の全長356m、幅3mの木造橋の流れ橋(上津屋橋:こうづやばし) ながれ橋碑
八幡側〜久御山側へPちゃん初渡橋・・・O(^◇^)O うっほほ〜い?!(^◇^ゞ どもども 橋上から男山の夕陽を眺めまつ
久御山側からの流れ橋 田園風景 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 第2京阪国道側道を快走中・・・O(^◇^)O
久御山JCT@第2京阪国道・・・Pちゃん、一気の坂上り奮闘中!!! O(^◇^)O 巨椋池排水幹線(前川)
これ又、Pちゃん見事な一気の坂上り奮闘!!! O(^◇^)O よって・・・第2京阪国道京都南大橋(宇治川)でラストの休憩タイム (^◇^;)
八幡、天王山方面 京都南大橋(宇治川) アイスクリームなど大量にゲット! (^◇^;ゞ
近所の三栖公園で見事に咲いている桜 酒蔵 濠川の桜 えぇなぁ〜 (@^▽^@)

Tourist  2007.04.09(M)

 

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