鳥羽離宮史跡ポタ

 

山城の 鳥羽田の面を 見渡せば ほのかに今朝は 秋風ぞ吹く (會丹集) 曾禰好忠

 

金札宮〜大黒寺(薩摩寺)〜城南宮〜北向山不動院〜近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)、安楽寿院〜式内真幡寸神社跡碑(若宮宮)

 

鳥羽離宮

平安時代後期の応徳3年(1086年)、白河天皇が藤原季綱(すえつな)から献上された鳥羽の地に後院として造営を始め、鳥羽上皇が継承して完成させました。規模は約100町と伝え、1町とは1辺が約109mで面積が11,881u(約3,600坪)になり、100町といえば、約36万坪にもなる広大な離宮でした。敷地面積の半分近くが池で、河川海などの水運交通の拠点、都への陸運交通の玄関として物流拠点、経済拠点でもありました。現在、往時の鳥羽離宮を偲べるのは安楽寿院、城南宮界隈です。

金札宮(恵比寿/商売繁盛の神)

縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝わります。この翁が天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)で天平勝宝2年〔750年〕に創立し清和天皇の御代、橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命です。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝えます。

金札宮 天然記念物・クロガネモチ(伏見区民の木)
大黒寺(薩摩寺)

創建は不明ですが真如法親王の開基による名刹で当初は円通山長福寺と号しました。江戸時代の元和元年(1615年)、薩摩藩主・島津義弘が伏見奉行・山口駿河守に懇請し薩摩藩の祈祷所となりました。本尊は五穀豊穣の神で出世開運を授けると云われる大変にありがたい大黒天です。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負(ゆきえ)の墓所があります。

境内 大黒寺(大黒天/開運・出世の神) 駒札
平田靱負(ゆきえ)顕彰碑と伏見義民遺髪塔 伏見名水「金運清水」 解説
本堂(大黒天/開運・出世の神) 疎水放水路合流地点@新(東)高瀬川 新(東)高瀬川右岸堤防道
城南宮

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。

藁しべ軍団じゃ〜\(◎o◎)/! どんだけ〜 城南宮 参道
城南宮二の鳥居と境内 伏見名水「菊水若水」
「平安の庭」@楽水苑(城南宮神苑) 見事な菊花・・・Beautiful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
白河天皇陵

鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬しました。

境内 本殿 白河天皇陵
北向山不動院

鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作・不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝えます。山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座しています。

白河天皇陵 北向山不動院 解説
〜普賢、文殊、虚空蔵、千手観音菩薩 鳥羽上皇寵愛の松 お滝場
洗心井(手水) 解説 本堂
近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)、安楽寿院

近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)・・・近衛天皇は、3歳で即位し在位14年。久寿2年(1155年)、近衛殿にて17歳で崩御。長寛元年(1163年)、当地に埋葬されました。天皇陵に多宝塔が 建つのは珍しいです。御陵建物は応仁の乱などの戦火で数度焼失しました。慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が、再建しました。安楽寿院・・・今は往時を偲ぶ形跡もない鳥羽離宮跡の中で、辛うじて 往時を偲ばせるのが安楽寿院です。新義真言宗智山派で山号はなし。保延3年(137年)、鳥羽上皇が、鳥羽離宮の東殿に一宇を建立し無量寿仏三尊を安置した事に始まり、同5年(1139年)に三重塔(本御塔)を建立し、崩後は遺骨を納める塔所としました。次いで久安3年(1147年)、九体阿弥陀堂や不動堂が建立されました。中宮美福門院得子も院内に二層の宝塔(新御塔)を建立し崩後の山稜とする予定でしたが、故あって近衛天皇陵に改められました。創建以来、多くの荘園が寄せられ堂塔は巍々として洛南の郊野に輪奐の美を誇りましたが中世以降は兵火に罹災し寺運は哀徴しました。鳥羽伏見の戦いでは薩長軍の大本営となったが幸い兵火は免れました。近年まで僅かに残っていた諸堂宇も台風によって倒壊し今は、塔頭前松院を以って本坊としています。

近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) 安楽寿院 駒札
安楽寿院境内 弘法大師を祀る大師堂
阿弥陀三尊石像(平安期)

釈迦三尊石像と薬師三尊石像は質素な祠の中にありますが、は京都国立博物館に保管されているそうです。また、これら石像には歯痛平癒の信仰があると伝えます。

三尊石仏(左・薬師三尊石像、釈迦三尊石像) 調査で出土した石で再現された本御塔庭園 解説
鳥羽離宮跡とその庭園解説 鳥羽、白河法皇院政之地碑
冠石(かんむりいし)、鳥羽天皇陵

冠石・・・鳥羽天皇は譲位後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、殿舎や仏殿を増築した際、この石の上に冠を置き、これを中心に造営したとも鳥羽上皇が法皇になられた時に、冠を納めた所とも伝えます。鳥羽天皇陵・・・籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿にて崩御されました。

冠石 鳥羽天皇陵(安楽寿院陵) 五輪石塔(重文:鎌倉期)
式内真幡寸(まはたぎ)神社跡碑(若宮宮)

真幡寸神社は鳥羽真幡木里にあったと云われ秦氏の氏神と考えられ平安京遷都時(794年頃)の創建と伝える。弘仁7年(816年)、官社に列した延喜式内社でした。応徳3年(1086年)、本社を中心に鳥羽離宮が造営されました。真幡寸神社は、明治10年(1877年)、城南宮に合祀され現在に至ります。

地蔵尊(鎌倉期?) 式内真幡寸(まはたぎ)神社跡碑(若宮宮) こじんまりとした社内
野球少年時代を過ごしたグランドと大銀杏の木・・・遠い目?・・・かな(^^ゞ 大銀杏の木

Tourist  2007.11.05(M)

 

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