東福寺、泉涌寺山内七福神めぐり・・・

 

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言

 

藤森神社〜伏見稲荷大社〜東福寺〜即成院〜泉涌寺七福神めぐり〜泉涌寺〜孝明天皇後月輪東山陵

 

伏見の光明院が始まりの即成院

山号を光明山と号し、京都東山にある真言宗泉涌寺派の寺院で、平安時代の正暦3年(992年)、恵心僧都が伏見に建立した光明院を始まりとします。関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)は宇治に平等院を建てて極楽往生を願いました。その子・橘俊綱(たちばなのとしつな)も延久年間(1069〜73年)、伏見桃山(指月の丘)に荘厳な山荘(伏見山荘)を造営し光明院を阿弥陀堂として移設しました。以後、様々な変遷を経て即成院は明治に現在地に移りました。

京阪電鉄、奈良電鉄(現、近鉄京都線)相互乗り入れ線跡

奈良電鉄は元々、西大寺〜宇治を結ぶ計画でしたが、大正10年(1921年)に東山トンネルが開通すると国鉄本線が伏見から北へ移り、残った線路と奈良鉄道の線路とを、稲荷駅〜桃山駅に新しく敷いた線路で繋ぎ、国鉄奈良線として開業されました。残った奈良鉄道の、伏見駅〜京都駅の線路は奈良電鉄に払い下げられた為に急遽、京都駅乗り入れに変更されました。西大寺〜小倉辺りまでは順調に進みましたが、伏見の町を通るのには色々と障害があったようですが、昭和3年(1928年)11月15日に無事、全線開通します。その後、奈良電鉄と京阪電鉄は、丹波橋以北で相互乗り入れをする事になりました。主な理由として、レール幅が同じで、車体もほぼ同じ、架線の電圧も600Vで同じでした。当時は戦時中であり、より多くの輸送ルートがあった方が、物資の運搬に役立つという意向もあったようです。奈良電鉄は昭和38年(1963年)に近鉄との合併後も、駅の共有化で、乗り替えには便利だという事で、しばらくは相互乗り入れが継続していましたが、電車の本数も増え、平面交差がネックとなり(京阪が優先、近鉄は駅の手前で待たされた)、更に近鉄車両の大型化による電圧のアップ(近鉄は1500V、京阪は600V)などもあり、昭和43年(1968年)に相互乗り入れは廃止されました。

京阪丹波橋駅 京阪線(右)と奈良電相互乗り入れ線跡(左) 近鉄丹波橋駅

海宝寺(伊達政宗伏見屋敷跡)

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷を構えた伊達政宗の屋敷跡で、江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれました。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えと伝え樹齢は約400年とされる。今も、町名の桃山正宗や、門前の伊達街道などに、数多く残されています。

みやこ路快速電車@JR奈良線 海宝寺(伊達政宗伏見屋敷跡) 伊達政宗伏見屋敷説明パネル
伊達政宗の手植えと伝える木斛(もっこく) 諸堂 本堂

藤森神社(勝運の神)

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝えます。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。

藤森神社 拝殿 第一紫陽花苑(入苑料\300)
第一、第二紫陽花苑の3500株のアジサイの花々
雨上がりには美しい花の変化が楽しめます・・・
苑内に湧き出る不二の水・・・とってもマイウ〜 当然、4L汲んで持ち帰りました〜 (;^◇^ゞ 藤森七福神
新撰組・近藤勇も通った「いちの木さん:旗塚」 第二紫陽花苑(無料) 神鎧(かむよろい)像駒札
神鎧(かむよろい)像 第二紫陽花苑、ガクアジサイなどが美しい・・・
第二紫陽花苑 ブラリしゃらり? (;^◇^ゞ 吊り灯籠 本殿
伏見名水の一「不二の水」 京都歩兵連隊跡碑 京都歩兵連隊跡説明碑

伏見稲荷大社

欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。

七瀬川に架かる直違橋(すじかいばし:第四橋) 伏見稲荷大社 東福寺(日下門)

東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万u)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺(ほっしょうじ)内に関白・九条道家が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の名を採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で未だ法堂は再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は応永年間(1394〜1428年)の再建で禅宗寺院三門中では、最古です。

経蔵 仏殿
禅堂(重文:南北朝期) 東司(とうす:修行僧が使用するトイレ/重文:室町期)
当時の東司の絵図 禅宗三門では最古の三門(国宝:室町期)
最勝金剛院 九条兼定廟 九条道家墓所

比良明神(天狗)を祀る魔王石、十三重石塔(重要文化財:吉野期)

五社明神(成就宮)境内にあり、現在は東福寺鎮守ですが、元は法性寺の鎮守と伝えます。十三重石塔(重文:吉野期)は、かって「比良山明神塔」と呼ばれ、傍にある魔王石と一対とされます。東福寺を建立しようとした九条道家が病になった時、藤原家先祖という比良の魔王(比良明神:天狗)が家来の女御に降臨し、道家に祟っている怨霊の鎮め方を魔王に教えられ病が完治し、道家が当寺建立の決心をした時に比良明神のお告げで十三重石塔を建立したと伝えます。

五社明神(成就宮) 藤原家先祖の天狗(比良明神)を祀る魔王石
十三重石塔(重文:吉野期) 鐘楼 本殿(五社成就宮)
三ノ橋川に架かる臥雲橋(がうんきょう) 通天橋@臥雲橋(がうんきょう) 泉涌寺総門

即成院(そくじょういん)

光明山と号する真言宗泉涌寺派の寺で正暦3年(992年)、恵心僧都が伏見に建立した光明院を始まりとし本尊・阿弥陀如来像を始め二十五菩薩座像が安置され、境内には那須与一の墓と伝えられる石造宝塔があります。寛治年間(1087〜94年)、関白・藤原頼通の第三子・橘俊綱が、荘厳な山荘(伏見殿)造営にあたり当院を持佛堂として傍に移設、伏見寺または即成就院と呼ばれていた。文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治に至り、廃佛毀 釈の法難に遭い廃寺となり、本尊諸尊は当院の本山である泉涌寺の仮堂に移された。その後本寺である法安寺である合併、更に明治35年(1902年)、泉涌寺総門の現在地で再興され即成院と呼ばれます。

即成院(第1番 福禄寿) 弘法大師像など 地蔵堂

「平家物語」屋島合戦のヒーロー・那須与一(なすのよいち)

平家物語、源平盛衰記などで知られる那須与一は栃木県下野の生れで源義経の命により出陣し屋島の戦では平家が軍船上に一竿を建て竿頭に日の丸の扇を掲げ、これを射よとの挑戦に義経は与一に射落とすように命じました。与一は馬を大浪小浪に荒れ狂う海中に乗り入れ扇をめがけて矢を放てば見事に要を射て平家の水軍敗退の因を完遂した与一は、この戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領し下野守に任官し、御礼言上の為に上洛参内した帰途、即成院(伏見桃山)に参篭し武門の名誉を捨て出家し小庵を結び当寺で没したと伝えます。

石仏 大きな石造宝塔(那須与一墓:鎌倉期) 泉涌寺七福神めぐり「第1番 福禄寿」

七福神

室町時代に日本で最初に七福神信仰が京都で興り、全国に拡がりました。七福神(寿老人、弁財天、布袋、毘沙門天、恵比寿、大黒天、福緑寿)は日本、中国、インドの神仏が人々に幸運をもたらすとされています。「恵比寿神」が唯一日本で生まれた七福神の一神とされます。一説には、江戸時代、徳川家康が天海僧正に命じて選定させたのが始まりとも伝え、七福神ゆかりの神社仏閣は、全国各地に残っています。京都にも幾つかの七福神霊場があります。泉涌寺の七福神めぐりは、「京都泉涌寺七福神」と呼ばれる代表的なもので、戦後間もなく巡拝しやすく整備されました。七福とは「愛敬昌財、芸道富有、人望福徳、裕福蓄財、勇気授福、清廉度量 、延命長寿」を言い、七福に「福禄寿、弁財天、恵比寿神、布袋尊、大黒天、毘沙門天、寿老人」を七福神としました。

法音院(第7番 寿老人) 泉涌寺七福神めぐり「第7番 寿老人」 戒光寺(第2番 弁財天)
泉涌寺七福神めぐり「第2番 弁財天」 本堂
洛中俯瞰・・・愛宕山〜北山〜比叡山、東山も一望!悲田院境内から絶景! O(^◇^)O ふぉ〜
悲田院(第6番 毘沙門天) 泉涌寺七福神めぐり「第6番 毘沙門天」 新善光寺(番外 愛染明王)
境内 泉涌寺七福神めぐり「番外 愛染明王」 雲龍院(第5番 大黒天)
境内 妖艶じゃ〜 衆宝観音さまっ?! (;^◇^ゞ 泉涌寺七福神めぐり「第5番 大黒天」
賀陽宮、久邇(くに)宮墓地 守脩親王、淑子内親王、朝彦親王墓駒札

泉涌寺(せんにゅうじ)

真言宗泉涌寺派の大本山で東山(とうざん)または、泉山(せんざん)と号する皇室の香華院(菩提所)です。寺伝によると当寺は鎌倉時代の建暦元年(1211年)、宋国から帰朝した俊芿  (しゅんじょう)律師が当地にあって久しく荒廃していた仙遊寺地を得、伽藍を建立しました。この時、境内に新しい清泉が湧出したので寺名を泉涌寺と改めたと伝えます。二世・湛海(たんかい)も師の衣鉢を継いで二度も入宋し宋文化を吸収する上に大きな貢献をしました。当寺の伽藍が一見、禅宗的な雰囲気に感じるのは宋寺の規模によって建てられたからで当寺安置の諸仏像も多分に宋風彫刻が見られるのは、これが為です。仁治3年(1242年)、四条天皇の月輪陵が寺内に営まれてより歴代天皇の御陵所となり、後水尾天皇から孝明天皇に至る多くの天皇、皇妃が葬られました。故に境内は常に清浄され他寺院に見られぬ尊厳さと品格さが漂っています。

守脩親王、淑子内親王、朝彦親王墓 泉涌寺 貸切でつ・・・参道
願かけ地蔵尊 楊貴妃観音堂(番外 楊貴妃観音) 泉涌寺七福神めぐり「番外 楊貴妃観音」

清少納言歌碑

「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」は、清少納言の代表的な歌で百人一首にも採られています。長徳3年(997年)7月、書道で有名な藤原行成へ贈った歌で「まだ夜の明けないうちに、鶏の鳴き声で、だまそうとして通ろうとされても中国の函谷(かんこく)関ならともかく、あなたと私の逢坂関を通る事は許しますまい。」という一首の意味です。行成は、「逢坂は 人越えやすき 関ならば 鳥鳴かぬにも 開けて待つとか」と返歌し、清少納言をやりこめました。教養と機知に富んだ歌の応酬で華やかで文化的水準の高い当時の宮廷生活を象徴しています。清少納言は定子が没した翌年に宮仕えを辞し、晩年は鳥辺野近くの泉涌寺辺りに隠棲し、定子が眠る鳥辺野陵を拝しながら生涯を終えたと伝えます。昭和49年11月、当時の平安博物館々長・角田文衞氏が、泉涌寺に歌碑を建てる事を希望し、建立されました。

清少納言歌碑 清少納言歌碑の駒札 今も清泉が湧き出る泉涌寺水屋形
浴室 仏殿(右)、舎利殿 徳川家綱が再建した仏殿(重文:江戸期)

霊明殿、月輪陵

霊明殿・・・現在の霊明殿は明治17年(1884年)に明治天皇によって再建されたもので入母屋檜皮葺き、外観は宸殿風です。内部は内陣、中陣、外陣に分かれ、特に内陣は五室の宮殿になっています。天智天皇以来の歴代皇族の尊牌が奉祀され皇室との縁深く、内部の荘厳具は明治天皇以降の皇族から寄進されたものです。月輪陵・・・当寺が歴代の御陵域になったのは、四条天皇の月輪陵が仁治3年(1242年)に初めて寺内に営まれてからで以来、後水尾天皇〜仁孝天皇に至るまでの天皇、皇后、親王など二十五陵五灰塚九御墓の後月輪陵が営まれました。その墓石は主に天皇は九重層塔、后妃は無縫塔、親王は宝筐印塔を以って標されています。

四条天皇像、歴代天皇、皇妃の尊牌を祀る内裏より移築した霊明殿 月輪陵
今熊野観音寺参道口 洛陽観音第18番霊場「善能寺」 境内自体が庭で泉涌寺庭園と同一の重森三玲が作庭
来迎院(らいごういん:第4番 布袋尊) 大石内蔵助隠遁地の一、来迎院駒札 弘法大師像
独鈷水(おこうすい) 荒神堂 泉涌寺七福神めぐり「第4番 布袋尊」

今熊野観音寺

真言宗泉涌寺派に属し西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所で創建は定かでありませんが、寺伝によれば平安時代、斉衡年間に山本左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したと伝わります。一説には弘法大師が熊野権現の化身の老翁から一体の観音像を授けられて創立したのが起こりとも伝えます。後白河法皇が新熊野(いまくまの)社を創建された時に当寺を新那智山と称された。本殿背後の墓地には慈円僧正、藤原忠通、長家の墓とされる見事な石造宝塔三基(鎌倉期)があります。

一ノ橋川に架かる鳥居橋 観音寺(第3番 恵比寿神) 子まもり大師 大師が錫杖で岩を突くと湧き出た五智水
三重石塔(平安期) 大師堂 石仏
鎮守社 境内俯瞰 日本医学の発展に貢献した人を祀る医聖堂

孝明天皇後月輪東山陵

孝明天皇は仁孝天皇の第4皇子で弘化4年(1847年)に皇位を継承し先帝の意志を継ぎ公家の学習所を創設し学習院と命名しました。嘉永6年(1853年)、ペリー来航に開国か攘夷かという選択を強いられ内治外交の多難な時期で難問題が続発し天皇は一貫して攘夷を主張しましたが安政5年(1858年)、幕府が勝手に日米修好通商条約に調印した事に天皇は激怒して2度にわたり譲位を表明したが思い留まり、幕府へ攘夷を促しましたが安藤信正の公武合体論を受け入れ、皇妹・和宮の将軍・家茂への降嫁に同意し尊攘派を牽制しました。公武合体論支持は倒幕派を刺激し文久2年(1862年)から翌年にかけての尊攘運動の高まりと文久3年(1863年)8月、大和行幸を機とする討幕挙兵(長州藩)の計画に苦慮し8月18日の政変で朝廷内の尊攘派を抑えました(七卿落ちなど)。元治元年(1864年)、長州藩の京都出兵を会津、薩摩藩の兵を用いて退けました(禁門の変)。慶応元年(1866年)12月、疱瘡で急逝したとされますが孝明天皇の急逝後、岩倉具視ら討幕派の公卿勢力が急速に高まった事で毒殺説があります。鎌倉時代から継承された武家社会最後の帝となりました。

泉涌寺七福神めぐり「第3番 恵比寿神」 泉涌寺俯瞰 孝明天皇後月輪東山陵

御陵衛士(ごりょうえいじ)

慶応3年(1866年)3月16日、新撰組参謀・伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は近藤、土方らと思想の違いから藤堂平助、篠原泰之進、加納道之助、斉藤一(間者)ら12名と伴に新撰組を脱退し泉湧寺塔中戒光寺の長老・湛然の仲介によって孝明天皇の御陵衛士(御陵守護の任)を拝命し薩摩、長州の動向を探るという事でした。最初は五条大橋東詰の長円寺に屯所を構え慶応3年(1866年)6月、山陵奉行・戸田大和守忠至の配下となり長円寺から東山の高台寺内の月真院に移り門に「禁裏御陵衛士(高台寺党)」と看板を掲げ勤王、倒幕活動に従事し朝廷より使用を許された十六弁菊の幕を張ったとされます。御陵衛士の活動費は薩摩藩から出ており、一日800文という羽振りの良い生活でした。慶応3年(1866年)11月18日、近藤勇は金子の用立て、国事の相談があると自分の妾宅に伊東を招き酒宴を催し、帰路の伊東を大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って暗殺した一連の油小路の変で御陵衛士(高台寺党)は大打撃を受けて解散し以降は薩摩藩に身を寄せました。

元新撰組参謀・伊東甲子太郎ら御陵衛士墓

三ノ橋川に架かる伏水街道第三橋

毎度〜 スイートポテトくださいな〜 (;^◇^ゞ

Tourist  2006.06.19(M)

 

関連サイト

新撰組幕末回廊散策その3

新撰組幕末回廊散策その3

 

戻る 2006年伏水クローズアップ散策

 

inserted by FC2 system