旧東海道本線(稲荷駅〜馬場:膳所駅〜大津駅)チャリ探訪

 

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 「後拾遺集」清少納言 

 

旧東海道本線跡と国鉄最古の建物・ランプ小屋〜月心寺〜逢坂山関跡〜旧東海道本線の逢坂山隋道東口〜義仲寺〜浜大津港

旧東海道本線

明治13年(1880年)7月14日、明治天皇臨御の元、開通式を挙行、翌15日に全線開通しました。そして最急行が走破するなど華やかな時代を迎えました。明治22年(1889年)、東海道本線・彦根駅、近江八幡駅を経由するルートが完成し、新橋〜神戸間が全線開通しました。大正10年(1923年)、現在の東海道本線のルートである京都〜膳所間が開通するまでは京都駅〜稲荷駅〜山科駅〜大谷駅〜馬場(膳所)駅が東海道本線のルートでした。この線区は非常に難工事(山間部を通過する初の鉄道でトンネルの掘削や丘陵部の切削、築堤など)を伴い、当時としては大掛かりな土木工事でしたが、それまで外国人に依存していた建設工事を全て日本人の手によって完成させました。急曲線、急勾配の連続に禍いされ大正4年(1917年)から路線変更工事が開始され現・東海道本線ルートが完成したと同時に廃線の運命を辿りました。

旧東海道線で活躍したCタンク1800形蒸気機関車

明治13年(1880年)に開業した京都〜大津間の勾配区間用として輸入された蒸気機関車です。京都〜大津間の山科〜大谷間にあった5kmもの長い急勾配(※1)の為、日本政府の「汽車監察方」であったB.F.ライトが設計した当時のイギリス形タンク式機関車の典型的な姿を持つ機関車です。イギリスのリーズにあるキットソン社に発注され、明治14(1881年)製造の8両中、3両は京都〜大津間、5両は明治16年(1883年)開通した長浜〜敦賀、関ヶ原間などの勾配区間で使用されました。その後、九州や東北各線の建設工事や、米原、長浜、新潟、大館、宇都宮、平、水戸などの各機関区に所属して活躍した後、大正末期〜昭和初期にかけて東京鉄道局管内に集結し、主に入換用として活躍しました。(※2)

※1… 25‰(パーミル) 1,000mで25mの高低差を表し蒸気機関車の登坂能力のほぼ限界とされます。
※2… 1800形は明治14年(1881年)製造の8両と、明治29年(1896年)製造の5両(北越鉄道)で、全部で13両製造されました。

西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

西岸寺(油掛地蔵尊)本堂 芭蕉句碑 油掛地蔵尊
坂本龍馬所縁の旅籠・寺田屋 三十石船と寺田屋浜 金札宮
金札宮(きんさつぐう)

天平勝宝2年〔750年〕の創立、清和天皇の御代の時、橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと伝え社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)です。縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝えます。この翁が天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)で清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝える。

天然記念物のクロガネモチ 拝殿 本殿
大黒寺

江戸時代は薩摩藩の祈祷所、本尊は五穀豊穣の神、出世開運を授けると云われる大変にありがたい大黒天です。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負の墓と顕彰碑があります。境内に湧く金運清水は、平成13年(2001年)に新しく掘られた井戸で大黒天に供えら金運良好、資産増加、子孫繁栄など大変ありがたいご利益があります。

大黒寺 伏見名水「金運清水」 おさすり大黒さん
平田靱負(ゆきえ)、薩摩九烈士墓所

平田靱負(ゆきえ)・・・宝暦2年(1752年)、将軍・徳川家重は77万石の薩摩藩々主・島津重年に薩摩藩の弱体化を策して木曽・揖斐・長良川治水工事を命じました。工事では多数の薩摩藩士が、幕府へ抗議の切腹や病気などで果てました。藩は多大な資金(300万両)を治水工事の為に費やし、藩の財政も圧迫するなど、藩の存続を脅かす程の危機に至る犠牲を払いました。この責任を一心に受けて工事完了を見届けた工事総奉行の家老・平田靱負(ゆきえ)、は切腹、介錯した伊集院十蔵も自刃しました。伊勢桑名の西田芝寿(しばとし)、美濃大垣の金森吉次郎らが靱負(ゆきえ)の功績を讃えて油島千両松原に宝暦治水碑を建立しました。薩摩九烈士・・・文久2年(1862年)4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組(薩摩藩急進派)21名、真木和泉守ら10名、田中河内介ら5名の36名が集結。島津久光の君命を受けた薩摩鎮撫使9名が藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず斬り合いとなりました。鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切 腹)を出し、この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、 遺骸を丁寧に白木綿で包み大黒寺に埋葬した。更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています

平田靱負顕彰碑と伏見義民7名の遺髪塔 平田靱負(ゆきえ)の墓所 薩摩九烈士の墓所と墓碑(右手前端)
本堂 寺田屋の女将・とせの墓がある松林院 京街道道標石
玄忠寺(伏見義民・小林勘次、坊ちゃんの赤シャツモデル・西川忠太郎墓所)

赤壁山(せきへきざん)と号する浄土宗の寺で寛永年間(1624〜1644年)初期に当誉(とうよう)上人によって創建されました。淀川を運航する過書船運賃の値上げに苦しむ商人の為に江戸幕府に直訴して落命した伏見義民・小林勘次の墓や夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する赤シャツのモデルとなった農学博士・西川忠太郎の墓があります。

門前に伏見義民碑がある玄忠寺 伏見義民小林勘次之碑 風情ある町並み
伏見義民一揆(天明義民一揆)

江州(近江)小室藩主・小堀和泉守政方(まさみち)は二代・政一、父・政峰に続いて安永7年(1779年)11月、3人目の伏見奉行に赴任しました。当初は善政を行い名奉行と評判が高かったが、ふとした事から愛妾・お芳の色香に溺れ、それを取り巻く奸臣どもに魂を抜かれたように賄賂、博打、遊興の限りを尽くし暴政を振舞うになり7年間で伏見町民に強要した御用金は10万両にも及んだと伝えます。その為に数万もの伏見住民を窮地に陥れる結果となり、こうした町民を救おうと立ち上がったのが町年寄・文珠九助始め、焼塩屋權兵衛、丸屋九兵衛、伏見屋清左衛門、麹屋伝兵衛、板屋市右衛門、柴屋伊兵衛ら7人の伏見義民でした。文殊九助、麹屋伝兵衛、丸屋九兵衛の3名は天明5年(1785年)に江戸に行き難儀を重ねた末、松平伯耆守に直訴に及びました。その間、伝兵衛は疲労で病死しました。同年、願書は却下されましたが、小堀政方は伏見奉行を罷免され、京都町奉行で再吟味が行われたが、權兵衛、伊兵衛、市右衛門、清左衛門の4名は牢死しました。悪名高き老中・田沼意次に代わり松平定信が老中首座となると、江戸で吟味が行われ政方は領地没収の上、大久保加賀守へお預け、更に吟味を引延した責任を問われて京都所司代、同町奉行、伏見奉行らにも謹慎が命じられ義民7名は改めてお構いなしの申し渡しが出たが、既に残り2名の義民もこの世にいなかったと伝えます。大黒寺には伏見義民7名の遺髪塔があり今も線香の煙が絶えません。

町屋 天明義民・柴屋伊兵衛墓がある勝念寺 境内
撞木町遊郭跡、墨染インクライン跡(墨染発電所)

撞木町遊郭跡・・・慶長9年(1604年)、渡辺掃部、前原八右衛門の両名により開設されました。伏見の発展と共に元禄年間(1688〜1704年)に全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)が敵の目を欺く為?この地で遊興した事で知られます墨染インクライン跡・・・明治27年(1894年)、伏見城の外堀として造った濠川と、疎水の水運に役立たせる為、インクライン(傾斜鉄道)で川を繋ぎ1日に約100隻の船が上下しました。戦後使用されなくなり、昭和34年(1959年)にレールも撤去されました。

墨染インクライン跡(墨染発電所) 撞木町遊郭跡 大石良雄〔内蔵助〕遊興の地記念碑
直違(すじかい)橋

文禄年間に豊臣秀吉が伏見築城に際し開通させた伏見街道の七瀬川に架かる橋を言います。川が道路を斜めに切っている為に橋も斜めに架けられた事から直違橋という名前になり、南〜北へ直違橋1丁目〜11丁目迄ある町名にもなっています。今の橋は明治初期に架けられ「伏見街道第四橋」と橋柱に刻まれています。

墨染通り 藤森神社 直違橋(すじかいばし:伏水第四橋)
旧16師団本部司令部庁舎跡(聖母学院) 一本松跡 JR稲荷駅(JR奈良線/旧東海道線)
旧東海道本線跡と国鉄最古の建物・ランプ小屋

明治12年(1879年)8月18日、京都駅〜稲荷〜山科(勧修寺)〜大谷間13.1kmが仮営業され、翌13年6月28日には逢坂山トンネルが開通し、京都〜大津間が、開通。大正10年(1923年)東山トンネルができ、現路線に至るまで東海道線の路線でした。ランプ小屋は旧東海道本線の建物として唯一現存すると同時に国鉄最古の建物として貴重な遺構です。                                                     ※7日前までにJR西日本お客様センター(0570-00-2486)に予約 ※見学は無料だが、JR利用者以外は入場券(140円)が必要

駅から船に荷を積み下ろしていた名残りの石垣 国鉄最古の鉄道遺構・ランプ小屋 説明札
伏見稲荷大社

欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝える。

稲荷大社裏参道 境内 本殿
茶碗子ノ水(ちゃわんこのみず)

石峰寺の門前より西へ約100mの地蔵堂の下にある古井戸で口碑によれば都に住む茶人が、下男に宇治橋より宇治川の水を汲ませて茶の湯に用いてたそうです。ある時、下男が、宇治からの帰途、ここの門前で水をこぼしてしまいました。代わりにここの水を汲み持ち帰ったが、茶人に見破られました。下男は、恐縮し一部始終を茶人に話しました。茶人は、宇治川の水より勝ると褒め称えその後茶の湯は、ここの水を用いる事となり下男は、宇治迄使いする労が、省けたそうです・・・この地は、石峰寺の二代目住職・石門が、法蔵庵を建てて隠居所としましたが、明治初期に廃寺となり井戸のみが、残りました。一説に、それより古くこの付近にあった歓喜心院の井戸水とも伝える。

JR稲荷駅 JR奈良線(旧東海道本線) 茶碗子ノ水
宝塔寺(ほうとうじ)、瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

宝塔寺・・・縁起は藤原氏の極楽寺に迄遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院ででしたが突如として、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝わります。徳治2年(1307年)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門(重文・室町期)、多宝塔(重文・室町期)、本堂(重文・江戸期)は重要文化財に指定されています。瑞光寺・・・門前の石標は元政の旧跡瑞光寺を示すもので元政(1623〜68年)は、彦根藩士でしたが出家、詩人として有名になりました。当地は極楽寺の薬師堂跡と伝わり、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われている。

宝塔寺 瑞光寺 駒札
茅葺の山門 深草一風情があると称される境内と茅葺の本堂
深草十二帝陵(深草北陵)

深草北陵とも呼ばれ、陵内に後深草・伏見・後伏見・後光厳・後円融・後小松・称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町(おほぎまち)・後陽成の12帝、栄仁(よしひと)親王のご遺骨を泰安しています。鎌倉〜桃山時代にかけての天皇で多くの天皇が、1ヶ所に奉葬されたところに当時の皇室の衰退を物語っている。

かっては旧東海道本線だったJR奈良線 深草十二帝陵(深草北陵)
伏見唯一の瓦工房 旧東海道本線と奈良線分岐地点

旧東海道本線はこの辺りで東南(赤線)へ・・・旧線は架線柱と黄色の壁の家方向へ続いていた。

この公園が旧東海道本線跡

鐵路敷境界石(鉄道省) 稲荷駅方面
名神高速、山科方面 町内案内図に残る旧東海道本線跡(赤線)
稲荷駅方面から 山科方面へ@名神高速道路南5号トンネル 名神高速道路南5号トンネルから山科方面
旧東海道本線跡の道路 旧東海道本線は谷口町交差点から大岩街道(府道35号線)になっています・・・
旧東海道本線は谷口町交差点〜勧修寺まで大岩街道(府道35号線)になっています・・・ 勧修寺手前の峠辺りから名神高速道路へ・・・
旧東海道本線は当時、大規模な築堤上を走っていたので、築堤の大部分が名神高速道路に再利用された・・・ 愛宕常夜灯と地蔵尊
勧修寺(かしゅうじ:かじゅうじ)

真言宗山階派大本山で亀甲山と号し俗に「かしゅうじ」とも呼ばれます。昌泰3年(900年)、醍醐天皇が皇后・胤子(いんし:生母)の菩提の為、母の里方の宮道弥益(みやじのいやます)の屋敷を寺に改めたと伝え皇室、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺したので皇室とは特別に関係が深く宮門跡として荘園も多く所有していましたが文明2年(1470年)、兵火にかかりその後、寺勢は著しく衰えたが江戸時代には徳川家より1000石の寺領をもって名刹寺院の品格を維持しました。寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重要文化財)は元禄10年(1697年)、明正天皇の旧殿を外賜され、書院には土佐光起作とされる襖絵などがあります。庭園は広く醍醐の峰々が借景され気宇広大な眺めです。池泉庭園「勧修寺氷池園(氷室池)」も有名で池には大小3つの島が浮かびます。平安時代には、毎年1月2日宮中に献上し氷の厚さでその年の五穀の豊凶を占ったと伝えます。書院の前庭にある雪見灯篭は「勧修寺型灯篭」とも呼ばれ水戸光圀の献上したもので、その周りに茂る這柏槇(ハイビャクシン)は樹齢約800年という銘木。

勧修寺前の道標石 風情ある勧修寺参道 勧修寺
勧修寺 名神高速道路(旧東海道本線)を東へ・・・ 旧東海道本線・山科駅跡
名神高速道路(旧東海道本線)を牛尾山〜醍醐山を眺めながら東へチャリチャリ・・・
名神高速道路(旧東海道本線)に沿って北東へ峠の坂道をチャリチャリ・・・(^O^; 暑うぅ〜 この辺りは名神高速道に沿って旧線路の切通しが残る。
名神高速道路は大谷(旧逢坂山トンネル)まで大部分が旧東海道本線跡でした。(山科方面) 峠を下ると国道1号線に合流
月心寺と走井(はしりい)

画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)の別邸で没後に遺族の願いで寺院に改められました。室町期の絵師・相阿弥(そうあみ)作と伝わる池泉回遊式の庭園は見事で、走井(はしりい)の名水や小野小町の百歳像を安置する小町堂などがある尼寺で庵主・村瀬明道尼(むらせみょうどうに)は9歳の時、父親の希望で仏門に入り、京都の尼寺に入り37歳の時に月心寺へ入山しました。3年後、交通事故により右腕、右足の自由を失くされ法要の仕出しと一緒に作ったお汁が喜ばれた事で手料理(精進料理)を振る舞うようになり庵主手作りの胡麻豆腐は絶品とされます。平成13年(2001年)、NHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」で野際陽子演じる庵主のモデルとなりました。又、走井は安藤広重作「東海道五十三次・大津」に旅人の喉の渇きを癒す茶店が描かれ走井の清水で知られる茶店のあった場所が月心寺とされ走井は現存し、走井の水から創られた走井餅も街道名物で大津名菓になっている。

コスモスにしばし見惚れます・・・(@^.^@) 名神高速道(旧東海道本線)と京阪京津線 月心寺
大津算盤の始祖・片岡庄兵衛

説明碑によると江戸時代、東海道筋のこの辺りで売られていた大津算盤は慶長17年(1612年)、片岡庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったと伝える。

第13代・成務天皇の産湯にも用いられた走井 大津算盤の始祖・片岡庄兵衛邸 滋賀県大津市大谷でつ・・・( ̄ω ̄;)! 暑うぅ〜
逢坂山関跡

平安時代に不破(岐阜県)、鈴鹿(三重県)と並ぶ三関であった逢坂山関は都と東国、北国を結ぶ東海道、北国街道などが集中する交通の要衝で古来、貴族や武将、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています。また、大津八景「関寺の晩鐘」、「逢坂の暮雪(ぼせつ)」として有名ですが実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りの関寺跡(長安寺)付近ではないかとも思われている。

逢坂常夜灯と逢坂山関跡碑 旧東海道線の逢坂山隧道(西口)跡碑 旧東海道線・大谷駅があった辺り(名神高速)
大津名物「元祖走井餅本家碑」 蝉丸神社 蝉丸神社由緒碑
車石 美味しそうな蒲焼の香りが・・・( ̄▽ ̄;)!! 安藤広重の「東海道五十三次・大津」絵図
逢坂常夜灯と逢坂山関跡碑 植林の功績を顕彰した「貴田市兵衛翁碑」 弘法大師堂
弘法大師堂 関蝉丸神社上社 名神高速道路
旧東海道本線の逢坂山隧道東口(トンネル:鉄道記念物)

旧逢坂山トンネルは明治13年(1880年)6月28日に竣工したもので、大正10年(1921年)8月1日の線路変更により廃線となるまで東海道本線として使用されていました。全長664.8mのトンネルは日本人技術者のみで造られた日本最初の鉄道トンネルとして昭和35年(1960年)10月14日、鉄道記念物に指定され120年前の煉瓦組みトンネルが保存されています。現在は京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所として利用されています。当時の太政大臣・三條実美による「楽成頼功」と刻まれた石額がある。

旧逢坂山隧道 旧逢坂山隧道東口(左:下り線、右:上り線) 旧逢坂山隧道東口(下り線)
旧逢坂山隧道東口(上り線) 旧逢坂山隧道東口(下り線)の内部・・・おぉぉ〜 涼しいでつ! (@^.^@)
三条実美による「楽成頼功」と刻まれた石額 説明パネル 隧道脇の石仏
隧道からの流水は水道水に利用されます・・・ 旧逢坂山隧道東口から国道1号線方向へ 蓮如上人所縁の安養寺
本堂 逢坂の碑 旧東海道本線の煉瓦造の橋台擁護壁跡
JR東海道本線・三代目大津駅

大正10年(1921年)、東海道本線は匂配緩和と距離短縮の為、東山トンネルと新逢坂山トンネルを経由する現在のルートに変更されました。これに伴って新しく大津駅が京阪浜大津駅から約1km南の大津市街地に建設されました。これが現在の3代目のJR大津駅で木造ドイツ風の洋館だったと伝える。

逢坂山隋道東口〜国道1号線へ@橋梁台上 この辺りから旧線は国道1号線へ・・ JR大津駅(三代目大津駅)
国道1号線(旧東海道本線)をチャリチャリ・・・ この辺りから現東海道本線へ・・・ 現東海道本線と合流地点@本宮交差点
道案内図で見るとよくわかります。 現東海道本線合流地点 現東海道本線で馬場駅(膳所駅)へ
旧東海道本線・馬場駅(現・JR膳所駅/二代目・大津駅) 竜ヶ丘俳人墓地(史跡)
竜ヶ丘俳人墓地

昭和40年の補修で塚の位置が元の場所から少し変わりましたが、江戸時代に内藤丈草が師匠・松尾芭蕉追悼の為に建てた経塚を中心に、俳人の墓が並んでいます。内藤丈草を始め、水田正秀、蝶夢、巴静、森谷祐昌、無名庵主など芭蕉の門人17人もの墓が、車座になって並んでいますが、これだけの墓所は他に例がありません。

駒札 佛幻庵跡碑 竜ヶ丘俳人墓地(史跡)
JR膳所駅(馬場駅⇒二代目・大津駅⇒馬場駅)

大津電車軌道が開業した事で東海道線大津支線の再貨物線化され大正2年(1913年)6月1日に、東海道本線の馬場駅が大津駅に、大津駅は浜大津駅に改称されました。二代目大津駅(現・膳所駅)は、大正10年(1921年)に東海道本線大津〜京都間の路線変更に伴い、旧逢坂山トンネルも廃止され三代目大津駅(現・JR大津駅)が誕生し二代目大津駅は再び馬場駅と改称され、貨物駅化され昭和9年(1934年)、膳所駅に名称変更された。

旧東海道本線は馬場駅(現・JR膳所駅)からスイッチバックして大津駅(現・京阪浜大津駅)へ・・・ JR膳所駅(馬場駅/二代目大津駅)
京阪膳所駅(旧東海道本線大津支線)

京阪石山坂本線の前身、大津電車軌道は大正2年(1913年)、大津駅(現・浜大津駅)〜膳所駅(現・膳所本町駅)間を開業しましたが、大津駅(現・浜大津駅)〜馬場駅(現・京阪膳所駅)間は旧東海道本線と線路を共用していました。明治22年(1889年)、東海道本線・東京〜神戸間が開通し大津(現・浜大津)〜馬場(現・膳所)間は貨物専用線になりました。明治31年(1898年)に再び旅客線化されましたが、当時の東海道線は長距離輸送を重要視した為に地域内の旅客輸送を大津電車軌道に譲り、再び大津支線は貨物化されました。昭和44年(1969年)10月31日まで浜大津駅〜京阪膳所駅間は三線軌条で、江若鉄道・浜大津駅横の国鉄浜大津駅(貨物駅)に至る大津支線を走るSLや、膳所駅に乗り入れる江若鉄道の気動車も、石坂線を走っていた。

旧東海道線は京阪膳所駅からスイッチバックして京阪石坂線を浜大津駅まで三線軌条で共用 義仲寺@旧東海道
義仲寺(ぎちゅうじ)

室町時代に近江守護・佐々木六角が、建立したと伝えます。寺名は、平家討伐に挙兵して都入りした後、源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲をここに葬った事に由来します。江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でしたが、松尾芭蕉が度々訪れ、寺内の庵に長く滞在し、門人と心の交流を深めました。芭蕉が大阪で亡くなった時、芭蕉が「骸は木曽塚(義仲寺)に送るべし」と遺言したので義仲の隣に墓が造られた。

あぁ〜・・・やはり閉門日! (>_<)・・・義仲寺 駒札 旧東海道本線大津支線だった京阪石坂線
旧東海道をチャリチャリ・・・ 京阪石坂線(旧東海道本線大津支線)を浜大津方面へチャリチャリ・・・
京阪石坂線(旧東海道本線)を大津方面へチャリチャリ・・・なぜか?目の前に母なる湖 琵!琶!!湖!!!ですがな!!!o(>w<)〇゛ ふぉ〜〜
石場の常夜灯(灯台)

江戸時代、大津港には、幾つもの関(荷揚げ場)があり、多くの船が発着していましたが、航路の目印となる常夜燈(灯台)が湖岸に立っていました。琵琶湖文化館前の常夜燈は、「石場の常夜燈」と呼ばれ、石場〜矢橋(やばせ)間の渡船の目印とされました。弘化2年(1845年)の建立です。高さは8.4mと大型で、各所に精巧な細工が施されている。

デカ〜! (@_@;) 石灯籠・・・石場の常夜灯 キララとミシガン・・・初めましての記念撮影でつ。。。!(@^.^@) えへっ
明智左馬之介湖水渡りの碑

明智光秀が織田信長を討って間もなく、羽柴秀吉に敗れ、伏見小栗栖で襲撃に倒れました。天正10年(1582年)6月14日、安土城を守っていた光秀の女婿・明智秀満(左馬之介)は光秀の敗死の報を受け、急ぎ坂本城に向かいました。途中、打出浜あたりで秀吉軍の先鋒・堀秀正の軍を避け、馬を湖に乗り入れ、唐崎で上陸して坂本城に入ったと伝える。

雄大な琵琶湖と比叡山 明智左馬之助湖水渡りのところ碑 駒札
坂本城?琵琶湖文化館 浜大津方面 琵琶湖遊覧船雌雄のビアンカとミシガン
膳所方面 よく出会いますね・・・みずすましU世 唯一乗船していないビアンカ
外輪船のミシガンが最終の遊覧に出航でつ・・・(〃^0^〃)/~~~ 行ってらっさ〜い
ガァガァさん 浜大津港 大津城跡
旧東海道本線・初代大津駅(京阪浜大津駅)

明治13年(1880年)、京都〜大津間に鉄道が開通した当初の大津駅は、現在の京阪浜大津駅でした。開通時のルートは、京都〜現在の奈良線沿いに南へ下り、稲荷駅を経て稲荷山、大岩山間を抜け、山科盆地に入り、旧逢坂山トンネルを抜けて大津へと繋がりました。長浜〜大津間の湖上連絡船が引退、大津駅も湖上連絡船と鉄道との接続駅としての役割を終え、旅客駅から貨物駅となります。しかし、沿線住民の熱心な要望から、明治31年(1898年)に再び旅客駅として復活しましたが、大正2年(1913年)、大津駅という名称は、現在の京阪浜大津駅から当時の馬場駅(現・膳所駅)に移名された。

旧東海道本線大津駅(現・京阪浜大津駅) 札の辻 旧東海道の風情を感じる町屋
露国皇太子遭難地の碑 説明パネル 旧東海道の風情を感じる町屋と犬やらい
4両編成の電車が路面を走るのは珍しい・・・ 大津本陣跡辺りから専用線路へ・・・
JR逢坂山トンネル手前(上:京阪京津線) 妙光寺の参道途中に踏切が!
妙光寺 門前を電車が通過!!! (@_@;) 本堂
関蝉丸神社下社

「これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」という百人一首の十番の作者で琴や琵琶の名手として知られる平安時代の歌人・蝉丸を祀る。蝉丸が逢坂山に隠棲していたという伝説に因んで建てられた関蝉丸神社は上社、下社、分社の三社がありますが、関蝉丸神社と言えば、この下社を表します。元の祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、嵯峨天皇でしたが、合祀され現在も芸能成就を願う人々の信仰を集めている。

関蝉丸神社下社 旧東海道本線の煉瓦造の橋台跡 名神高速道路の橋梁
関蝉丸神社上社 弘法大師堂 逢坂常夜灯と逢坂山関跡碑(走り撮り)
大谷を通過中・・・(走り撮り) ( ̄▽ ̄;)!!

大津街道筋にある仏立寺

ナイトランになりましたが無事、伏見へ帰還

Tourist  2006.9.25(M)

 ☆参考資料:廃線跡を歩く JTB

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