野仏の里「当尾:とうの/とーの」石仏巡拝

 

みかの原 わきて流るゝ 泉河 いつみきとてか 恋しかるらん (新古今) 藤原兼輔

 

浄瑠璃寺〜石仏めぐり〜岩船寺

当尾の石仏めぐり「浄瑠璃寺(じょうるりじ/九体寺 くたいじ、九品寺 くぼんじ)〜岩船寺」

当尾(とうの/とーの)

当尾は、「とうの」と読みますが、地元の方は「う」を発音しないで「とーの」と言います。当尾は古来、南都仏教の影響を色濃く受け世俗化した奈良仏教を厭(きら)う僧侶が穏遁(いんとん)の地として当地に草庵を結び、念仏に専心したと伝えます。一心に弥陀浄土の現出を願う彼ら念仏聖の草庵が、やがて寺院へと形を整えました。当尾の地名は「塔の尾根」から由来したと言われ、浄瑠璃寺や岩船寺の他にも東小田原隋願寺を始めとして数多くの塔頭(たっちゅう)が甍を並べて絢爛さを競っていたと思われます。鎌倉時代になって東大寺再興の為に来日していた南宋(中国)の石工・伊行末(いのゆきすえ)らによって堅い花崗岩の彫刻技術が確立されて以降、我が国の石造美術は第二のエポックを迎えました。当尾には彼の子孫である伊末行(いのすえゆき)が有名な「笑い仏」、「みろくの辻弥勒像」を造ったのを始め、多くの石造品が残され、これ程数多くの鎌倉時代の石造美術品が存在する地域は他に類を見ません。南北朝を経て室町時代には庶民の中の富裕層の人々が「講」と呼ばれる組織を作り活動しました。当尾に数多く見られる板碑(いたび)も「講」の造立によるものが多く、当時の庶民信仰を知る上で貴重な資料となっています。浄瑠璃寺〜岩船寺にかけての石仏散策コースは、これらの石仏を拝みながら歩くのに最適で特に紫陽花(あじさい)の寺で知られる岩船寺境内は石造美術品の宝庫とされ、多数の優れた石造美術品を一度に見物する事ができますが、当尾の魅力はこれだけに尽きず広範囲に亘って散在する石造美術を見て歩く為に何度も足を運ぶ事になります。四季折々の風景を満喫しながらの散策は、当尾の里の魅力を知れば知る程に魅力的になるのが、当尾だと言われます。

御香宮

貞観4年(862年)9月、境内に清泉が、湧き出し四方に水が香り病者はこの水を服用すればたちどころに病気が、完治すると云われた。清泉を神格化した神社の一です。祭神は、神功皇后及び仲哀、応神両天皇です。旧伏見町の産土神で古来から信仰されている洛南屈指の大社です。

毎度〜!Pちゃんズでつ!(;^◇^ゞ 御香宮
JR桃山駅(JR奈良線) みやこ路快速通過!・・・この快速電車1本違いで加茂駅からのバスに間にあわず!!!(>_<)
「京都行き」普通 15分待ってようやく「城陽行き」普通が到着!(_ _;) みやこ路快速に乗り換える為に六地蔵駅下車
待つ事20分!みやこ路快速到着!@六地蔵駅 宇治橋(宇治川) 飯岡、甘南備山遠望
泉大橋(木津川) 木津駅に到着!自宅〜ここ迄90分経過!(>_<) 更に待つ事、15分!!大和路快速で加茂駅へ
車窓は、のどかですが心中は? ふぅ〜 2時間弱でようやく加茂駅着!しか〜し、乗車予定だったバスの姿はなく・・・(T_T)/~~~
平成天皇(当時、皇太子)のお召し列車を牽引したと伝える蒸気機関車「C57 56:貴婦人」 明治30年に開通した関西鉄道のランプ小屋
時間が惜しいのでTAXIで浄瑠璃寺へ (;^◇^ゞ 浄瑠璃寺門前 当尾観光案内図
浄瑠璃寺門前角塔場婆

胎蔵大日如来の種子である梵字の「ア」の字を四方に刻んでいます。漢字では「阿」、梵語の最初に出てくる音で「根源」を意味し密教には、「阿字観」と言って、この字の中に宇宙を見出すという瞑想を行う修行があります。従来、丁石として扱われますが根拠に乏しく角塔婆とすべきです。

浄瑠璃寺参道 浄瑠璃寺門前角塔場婆 吊り店(無人販売 1つ\100)
浄瑠璃寺(じょうるりじ/九体寺 くたいじ、九品寺 くぼんじ)

真言律宗西大寺派の寺で九体(品)の阿弥陀仏(国宝:藤原期)を安置するので一に九体寺、九品寺とも言います。当時の草創は聖武天皇の勅願で僧・行基が開いたと伝え又、天元年間(978〜82年)、多田満仲が創立したとなど諸説があり定かでありません。当寺に伝わる「浄瑠璃寺流記:るき」(吉野)によると平安時代の永承2年(1047年)、阿知山太夫重頼が領民達の幸福を願って大和当麻寺の義明(ぎめい)上人を請じて再建したのが当寺の本格的な起こりと記されています。始めは、西小田原寺と号したが東方浄瑠璃寺の教主薬師如来を安置したのに因んで浄瑠璃寺と改めました。草創当時は薬師、金堂のみでしたが、嘉承2年(1107年)、阿弥陀信仰の勃行によって阿弥陀堂が建立され九体の阿弥陀仏が安置されました。久安6年(1150年)、興福寺の僧・恵心(えしん:藤原忠通子)は境内に苑池をうがち、池の西岸に阿弥陀堂を移して寺観を整え、西方極楽浄土の再現に努めました。平治元年(1159年)に十万堂(真言院)が造立され治承2年(1178年)には三重塔が移築されました。その後、長い間に亘って楼門、経蔵、南大門、護摩堂など多くの堂宇が建立されたが、南北朝時代の康永2年(1343年)、出火によって惜しくも一山焼失しました。後は久しく旧観に復するに至らず本堂と三重塔のみは、この時の火災を免れました。浄土の理想郷として、多くの人々が羨望した所でしたが、今は観光寺として春秋行楽時分には観光客で境内は雑踏を極めています。

浄瑠璃寺境内碑 当尾駒札 総門
浄瑠璃寺石鉢(鎌倉後期)

大きさから見て石臼と思われます。十二角形の石鉢ですが、しっかりと銘文が残っています。

浄瑠璃寺(九体寺)駒札 苑池(宝池) 浄瑠璃寺石鉢(石臼:鎌倉後期)とアザミ
浄瑠璃寺六字名号板碑と浄瑠璃寺石仏群(南北朝以降)

浄瑠璃寺六字名号板碑・・・「南無阿弥陀佛」の6文字を刻む板碑(いたび)で浄瑠璃寺の板碑は当尾では、比較的新しい(江戸時代)もので、この種の板碑は関東で著しい発展を見せ、大型の装飾性の高い精緻なものが作成されています。浄瑠璃寺石仏群(南北朝以降)・・・近年、西小(にしお)、坂口橋の架け替えの際に発見された石龕(せきがん)仏の他、五輪塔や層塔の残欠を集めて安置しています。石龕仏には、地蔵、弥陀、薬師、地蔵、十一面観音などの組み合わせがあり興味深く当尾には、こうした未発見の石仏が、まだまだ埋もれていると言われます。

ゲッ!双頭の紐ちゃん?!(@_@;)んなアホな?!(;^◇^ゞ 浄瑠璃寺六字名号板碑と石仏(南北朝以降) 浄瑠璃寺石仏(南北朝以降)
境内に点在する浄瑠璃寺石仏(南北朝以降) 三重塔へテチテチ・・・
三重塔(国宝:藤原期)

高さ16m、方三間、桧皮葺、屋根の勾配は極めて緩く、初層の軸部は四方中央に両開きの板扉の入口を設け、左右は連子窓(れんじまど)とし上層は組勾欄(くみこうらん)を廻らせるが初重は縁を有するのみで勾欄はないです。内部は天井を二重折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)で周囲の板塀などに教義的な内容を持った各種仏画が描かれています。因みに、この塔は治承2年(1178年)に上京区一条大宮より移したと伝え、元の寺名を失って明らかにしませんが、おそらく世尊寺の塔と思われます。

薬師如来坐像(重文:藤原期)を祀る三重塔(国宝:藤原期)
苑池と本堂(九体阿弥陀堂 国宝:藤原期) 浄瑠璃寺塔前石灯籠(重美:南北朝期) 鐘楼
本堂(国宝:藤原期)、浄瑠璃寺道三体磨崖物(室町期)

本堂・・・正面十一面、側面四面、単層、屋根は寄棟造、本瓦葺です。横長の建物で正面中央に一間の向拝(後補)を設けます。正面柱間は両端だけを連子窓(れんじまど)、その他全て板唐戸とし内部も板敷で天井を張らず、内外共に簡素に出来ています。元は、入母屋造、桧皮葺だったと伝え藤原時代に造られた九体阿弥陀堂としては、現存唯一の貴重な遺構です。浄瑠璃寺道三体磨崖仏・・・本来は磨崖仏でしたが府道拡張工事の際に移され、その時に一部が破損しました。向かって右側に錫杖を持つ地蔵菩薩坐像、残る二体の尊像名は不詳です。

浄瑠璃寺前石灯籠(重美:南北朝期) 本堂(九体阿弥陀堂 国宝:藤原期) 浄瑠璃寺道三体磨崖物(室町期)
長尾阿弥陀磨崖仏(鎌倉期後半)

両手を腹部の前で組む定印(じょういん)の阿弥陀で浄瑠璃寺の九体阿弥陀の両脇の八体と同じ印相をしています。大きな笠石が載っているので銘文もはっきりと残り保存状態は悪くないですが、惜しくも斜めに割れ目が走っています。

長尾阿弥陀磨崖仏(鎌倉後期)駒札 長尾阿弥陀磨崖仏(鎌倉後期)
西小石仏群(室町期以降)
西小(にしお)五輪塔(重文:鎌倉期)

墓地入口から向かって左のものは、基礎が複弁の蓮の花びらが垂れた形の反花座で格狭間(こうざま)と呼ばれる装飾を設けています。右のものは、反花座のみで側面は無地です。反花座を備えた大和系五輪塔の代表作の一つで二基とも重要文化財(鎌倉期)に指定されています。

西小五輪塔(重文:鎌倉期) 西小墓地石仏群(室町期以降)
西小(にしお)墓地石仏群(室町期以降)

ここには、埋没や盗難などで散逸を防ぐ為に周辺に散在していた無縁墓や石仏が集められ当尾には、こうした石仏群が多く見られます。五輪塔や宝筐印塔を板碑に刻んだものは、室町時代の逆修供養の為のものが多く、生前に自分の法要を行い死後の極楽浄土を願って作られました。

西小墓地石仏群(室町期以降)
たかの坊地蔵(西小にしお地蔵石仏:南北朝期)

舟形の光背を背負う矢田型の地蔵です。矢田型と呼ばれるのは、大和矢田寺の地蔵が右手を阿弥陀の印相である施無畏(せむい)印に結ぶ事から呼ばれます。頭の周りに蓮弁の光背が刻まれますが風化して分かり辛いです。錫杖(しゃくじょう)を持たない姿の地蔵は一般的に古いタイプとされます。

丁石笠塔婆(南北朝期) たかの坊地蔵 西小地蔵石仏(たかの坊地蔵)
丁石笠塔婆(南北朝期)

加茂の里〜浄瑠璃寺参道口へ向かう道沿いにある丁石と呼ばれる笠塔婆で一丁毎に建立された道標石で4本が現存しています。

ここから浄瑠璃寺(約2km)へ折り返しまつ・・・ のどかな加茂(当尾)の里 丁石笠塔婆(南北朝期)
ツジンドの焼け仏(阿弥陀三尊石仏:鎌倉期)

かって、ここに、この石仏を本尊とする辻堂があったが火災に遭い、石仏も損傷しました。中央に阿弥陀如来、両脇に地蔵と錫杖(しゃくじょう)を手にした十一面観音を従えた堂々たる石仏です。本来、弥陀の脇侍は観音、勢至菩薩てすが、地蔵に代えられる事が以外に多く浄土信仰と地蔵信仰結合の所産とされます。

ツジンドの焼け仏(阿弥陀三尊石仏)駒札 ツジンドの焼け仏(阿弥陀三尊石仏:鎌倉期) 加茂山の家
浄瑠璃寺まで上り坂をテチテチ・・・(;^◇^ゞ 大門の仏谷(阿弥陀磨崖仏)駒札
大門の仏谷(阿弥陀磨崖仏/平安末期)

約6mの岩に彫られた像高2.88mの阿弥陀磨崖仏で当尾では最古、最大と言われるの石仏ですが、これ程謎に包まれた石仏も珍しく像名に関して、阿弥陀、胎蔵大日、釈迦、弥勒など諸説があり、製作時期に関しても奈良前期〜鎌倉中期迄の諸説があります。近くまで行く地道は、鬱蒼と荒れており山道にある拝所から谷越しに拝む事が無難です。

山道の拝所から谷越しに見える大門の仏谷(阿弥陀磨崖仏)を遠拝します・・・ 大門の仏谷(阿弥陀磨崖仏)分岐
荒れて鬱蒼とした地道を谷へ下ります・・・(@_@;) 紐ちゃんに気をつけながら谷へ下ります・・・しかし、見事な阿弥陀磨崖仏です。
当尾で最古、最大と言われ6mの花崗岩に彫られた像高2.88mの阿弥陀磨崖仏(平安末期) 鬱蒼とした地道を分岐へ戻ります・・・
ふぅ〜無事、分岐に戻って来まつた・・・(;^◇^ゞ まだまだ続く坂道をテチテチ・・・ 山間の大門集落
大門石仏群(室町期以降)

西小墓地と同じく周辺の石仏、板碑などを集めたもので石龕(せきがん)仏の中には美しい姿の地蔵も見られ又、六字名号板碑(いたび)や五輪板碑もあり変化に富んでいます。近くには谷下地蔵磨崖仏(室町期)もあるのですが、道整備がされていないので残念ながら近づけません。

坂道を上りきると大門石仏群(室町期以降)
大門石仏群(室町期以降) 鎮守社 東小墓地石仏群(室町期以降)
東小(ひがしお)墓六字名号板碑、東小墓五輪石塔、東小墓地蔵石仏

東小墓六字名号板碑・・・当尾最大で銘文から念仏結集が造立した事が分かります。頂上に阿弥陀の種子「キリーク」を刻んでいます。東小墓五輪石塔・・・岩船寺塔に次ぐ大きさで一部欠損しているのが惜しいですが安定感もあり秀品です。東小墓地の総供養塔と思われます。東小墓地蔵石仏・・・善定門という人の追悼供養の石仏と思われます。

東小墓地六字名号板碑(室町期) 東小墓地五輪石塔(鎌倉期) 東小墓地地蔵石仏(江戸期)
首切地蔵(東小阿弥陀石龕仏/釈迦寺跡)

この石仏がある場所は元、釈迦寺がありました。「首切地蔵」の名は、刑場にあったからという俗説もあるが石仏の首が、深くくびれて切れているように見えるからです。当尾の在銘石仏では最古と言われます。「地蔵」と呼ばれますが定印を結ぶ阿弥陀で薮中三尊の作風に近く、同じ石工の手によるものと思われます。

路辺に咲く花々 首切地蔵駒札 首切地蔵(釈迦寺跡:鎌倉中期)
あたご灯籠(江戸期)、薮中三尊魔崖仏(鎌倉中期)

あたご灯籠(江戸期)・・・江戸時代、形式に捉われない変り灯籠が作られ、この灯籠もその一つと思われます。愛宕神は防火を司り当尾では正月にこの灯籠からオケラ火を採って雑煮を炊く風習があったと伝えます。同型の灯籠が穴薬師と岩船集落にもあります。薮中三尊魔崖仏(鎌倉中期)・・・元、浄土院という塔頭の本尊だった事が銘文から知られ御倉地蔵とも呼ばれました。薮中の花崗岩に舟形の光背を彫り窪め、中央に地蔵、向って左に阿弥陀、右に長谷寺型十一面観音を配しているのは非常に珍しいです。十一面観音は他の二体に比して小さいが、丹念に作られた秀作です。中尊地蔵の額部に白毫(はくごう)が嵌められていた跡が残り、石仏では珍しいとされる当尾地方、現存石仏中の逸品です。

首切地蔵(鎌倉中期) あたご灯籠(江戸期) 薮の中三尊磨崖仏(鎌倉中期)
薮の中三尊磨崖仏(鎌倉中期) 再び、浄瑠璃寺門前に到着!約4km歩きました。 うっほほ〜い!ランチタイム〜!! \(^o^)/
茅葺屋根や紫陽花の花咲く庭の緑も美しい「あ志び乃店」さん とろろ蕎麦!いただきマンモス?!(#^.^#) まいうぅ〜
浄瑠璃寺赤門跡水呑地蔵(鎌倉中期)

赤門跡と呼ばれるこの場所は、奈良大門とも呼ばれていた浄瑠璃寺の南大門がありました。中ノ川集落へ向かうこの道は、南都奈良へ続き往来する多くの人々が、この地蔵を拝しました。錫杖を持つ通常の姿ですが豪快な作風です。惜しくも火災に遭い風化もはなはだしいです。地蔵前に美味しい湧き水があります。この辺りは奈良〜笠置、柳生、伊賀の里更に伊勢への古道で旅人や剣豪・柳生十兵衛、荒木又衛門も喉を潤したと伝えます。

岩船寺へ地道をテチテチ・・・ 浄瑠璃寺赤門跡水呑み地蔵(鎌倉中期) 地蔵前の湧き水でつ!マイウ〜でつた!!(#^.^#)
地道へ戻ります・・・ 山百合 倒木など荒れている地道をテチテチ・・・
一鍬地蔵磨崖仏(鎌倉中期)

岩壁上部を掘り窪めて龕を造り磨崖仏が彫られています。元は笠軸があったのですが失われました。線刻の等身大の地蔵磨崖仏で風化が進んでいますが頭部から二重の放射光を放っています。一鍬という名は、鍬でかきとったような龕なので名付いたという説や口碑によると石仏を鍬で彫ったから名付いたという説がありますが、著しく摩滅しているので陽が当ると辛うじて像容が見えます

どこが道?鬱蒼とした地道を紐ちゃん避けの杖で足元をトントンしながらテチテチ・・・(;^◇^ゞ ふぅ〜 ようやく一鍬地蔵磨崖仏に到着!
カラスの壺阿弥陀、地蔵石仏(南北朝期)

銘文から弥陀は恒性、地蔵は勝珍という人が極楽往生を願って同時に造立した事が分かります。銘文の造立が異なっているのは、弥陀と地蔵の縁日が15日と24日であるからです。珍しいのは脇にある線刻の灯籠で、火袋が掘り込まれ献灯できるようになっています。背後にある地蔵は見落としやすいので注意が必要です。

一鍬地蔵磨崖仏(鎌倉中期) カラスの壺阿弥陀、地蔵磨崖仏(南北朝期) カラスの壺阿弥陀、地蔵磨崖仏駒札
地蔵磨崖仏(南北朝期) カラス(唐臼)の壺(南北朝期) 一願不動、笑い仏分岐
岩船不動明王磨崖仏(一願不動:鎌倉期)、笑い仏(岩船阿弥陀三尊魔崖仏:鎌倉期)

岩船不動明王磨崖仏(一願不動)・・・藪中の巨岩に彫られた高さ約1.2mの苔むした不動明王立像で、頭上に開花蓮を載せ、右手には棍棒を持ち、怒っている様な面持ちです。彫られたのは鎌倉時代弘安10年(1287年)と伝え一つだけ、一心にお願いすれば、願いを叶えて下さるので、「一願不動」とも呼ばれます。本当は大日如来が怒っている姿で愚かな人間を叱っていると言われ根底にあるのは、絶対的な愛の姿です。笑い仏(岩船阿弥陀三尊魔崖仏:鎌倉期)・・・当尾石仏群の中で最も有名な石仏です。平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き討ちで焼失した東大寺再建の為に、遠く南宋(中国)から招かれた石工・伊行末(いのゆきすえ)の子孫・伊末行(いのすえゆき)が作者です。脇侍に蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を配置する構図は来迎阿弥陀図を思わせます。保存状態もよく、夕陽に佇む姿が微笑ましいと言われます

苔むした岩船不動明王磨崖仏(一願不動) 笑い仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏:鎌倉期) 一願不動と対照的な表情に和みます。。。(#^.^#)
眠り地蔵(埋もれ地蔵:南北朝期)

半身が土に埋もれている地蔵石仏で像容も優れ、相当な名匠(石工)による石仏で、笑い仏の作者と同じ伊派の石工・行経(ゆきつね)の手によるとものと思われています。地元の話では、あえて掘り出さず埋もれて頂いてるそうです。

眠り地蔵(埋もれ地蔵:南北朝期)駒札 眠り地蔵(埋もれ地蔵:南北朝期) のどかな山里の風情・・・
石龕(せきがん)仏 ようやく整備された道に出ました・・・(;^◇^ゞ 弥勒如来立蔵周辺駒札
みろくの辻弥勒磨崖仏(弥勒如来立像:鎌倉期)

笠置寺本尊の弥勒磨崖仏(元弘の乱に焼失)をかなり忠実に写したもので、笑い仏を彫った伊末行(いのすえゆき)の作です。特に顔が摩滅しているのは、おそらく眼や耳の病気平癒祈願の為に多くの人が触れたと思われます。

みろくの辻弥勒磨崖仏(弥勒如来立蔵:鎌倉期) 旧道入口にある石龕(せきがん)仏
岩船寺三体地蔵磨崖仏(鎌倉末期)

旧道沿いの露出した巨岩(花崗岩)に長方形の龕を彫り窪めて三体の地蔵菩薩を厚肉彫にしたもので過去、現在、未来の三界にそれぞれ一体ずつを割り当てたものと思われます。左に永仁7年(1299年)、伊末行(いのすえゆき)が作った名画があります。六地蔵信仰が広まる以前の地蔵信仰の一形態ですが、他に類例が少なく貴重な磨崖仏と言われます

Pちゃん絶句?!また、地道で上り坂やぁ〜!!(>_<) 岩船寺三体地蔵磨崖仏(鎌倉末期)
岩船寺

高雄山報恩院と号する真言律宗西大寺派に属する当尾地方屈指の古刹ですが創建由緒は明らかでありません。寺伝によると当寺は天平元年(729年)、僧・行基が一宇の阿弥陀堂を建てたのが始まりと伝え又、大同元年(729年)、知泉(弘法大師姉の子)が潅頂堂、報恩院を造営したと伝えます。しかし、本尊の阿弥陀像が天慶9年(946年)の造顕である事から想像して、平安時代に流行した阿弥陀信仰によって建立されたと思われます。中世の兵火に掛かって焼失し今は、本堂、三重塔、鎮守社があるだけですが、建築、仏像、石造遺物に見るべきものが多く、紫陽花寺としても知られ、浄瑠璃寺と共に訪れる人が多いです。

がんばれPちゃん!もうすぐ岩船寺だぁ〜!!!(;^◇^ゞ 岩船寺 水浴に用いたと伝える花崗岩製の石舟
五輪石塔(重文:鎌倉期)、地蔵石仏(麻除け地蔵:鎌倉末期)

五輪石塔・・・火輪(笠)の一部が欠けていますが、全体に釣合いのとれた鎌倉風のもので中興開山・平智(へいち)僧都の墓と伝えます。地蔵石仏(魔除け地蔵:鎌倉末期)・・・円光を背にした花崗岩製の厚肉彫の地蔵坐像で高さ75cmあります。魔除けの地蔵とて信仰されています。

岩船地蔵石龕(せきがん)仏(南北朝) 五輪石塔(重文:鎌倉期) 地蔵石仏(魔除け地蔵:鎌倉末期)
岩船寺石室不動明王立像(不動石龕:せきがん/重文:鎌倉末期)

寄棟造(よせむねづくり)の屋根石の奥に火焔(かえん)を背負い、右手に剣をとり左手に羂索(けんさく:ロープ)を持った不動明王が立っています。人々を襲う魔と戦いつつ、愚かな衆生(しゅうじょう)を善所へ導く為に縛り付けてでも連れて行こうとする愛の姿とされます。滲み出す水は絶える事無く眼病に霊験があるとされ目薬に使われたと伝えます。

石室不動明王立像石(重文:鎌倉末期) 十三重石塔(重文:鎌倉中期) 睡蓮
三重塔(重文:吉野末期)

高さ18m余、方三間、屋根は本瓦葺、弘和2年(1382年)の建立と伝え、全体に木割は繊細で吉野末期の様式を表しています。内部は第二層で心柱を留め、天井は中央一間を高くした二重折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)とし、須弥壇(しゅみだん)の後に来迎壁を造って極彩色にするなど外観の素朴さに対して内部は見るべきものが多いです。

三重塔(重文:吉野末期)・・・鎌倉時代の再建とも伝え、承和年間(834〜47年)、仁明天皇が智泉大徳の威徳を偲んで宝塔を建立させました。
苑池と本堂 五輪石塔(三重塔近辺:鎌倉期) 鐘があるから鐘を撞く!(;^◇^ゞ えぇ音出しまっせ!
石楠花(シャクナゲ) 鎮守社 貝吹岩へテチテチ上ります・・・
貝吹岩

岩船寺背後の貝吹山々頂にある一畳敷ほどの大きさの平坦な岩からなり岩上からは当尾西方一帯の山野を一望できる絶景が見られます。昔、この付近に三十九坊を数える多くの堂舎坊があって法要厳修の時、この岩上に立って法螺貝を吹き鳴らし、一山の僧侶を呼び集めたと伝えます。又、念仏行者が日想観を行った所とも言われ岩船寺を訪ねる者は、貝吹岩を訪ねるべきだと言われます。

貝吹岩駒札 貝吹岩@貝吹山々頂
見晴らしが良ければ、当尾西方〜木津川〜奈良〜生駒連峰まで一望できる@貝吹岩 三重塔(重文:吉野期)
隅垂木を支えるサル発見?!天邪気(あまのじゃく) 岩船地蔵石龕(せきがん)仏(南北朝期) 本堂
阿弥陀如来坐像(重文:藤原期)

本堂に安置される本尊で高さは3m、一木彫、漆箔の肉身に赤衣をまとい両手は定印を結んで結跏趺坐する重厚味のある藤原初期の優像で天慶9年(946年)と思われる墨書銘があります。他に四天王立像(重美:鎌倉期)、普賢菩薩騎象像(重文:藤原期)を安置します。

本尊・阿弥陀如来坐像(重文:藤原期) 吊り店(\100〜\500)でおかき、梅干などをゲット! 約2km先の岩船寺口バス停へテチテチ・・・
どっこいしょ〜っと、よ〜歩いたなぁ〜〜(;^◇^ゞ JR奈良駅行き@岩船寺口バス停 Pちゃん、お疲れ〜@近鉄桃山御陵前駅
Tourist  2006.06.12(M)

 

関連コラム

笠置山磨崖仏(みがきぶつ)巡拝 笠置山磨崖仏(みがきぶつ)巡拝 飯岡(いのおか)古墳群、甘南備山チャリチャリ 飯岡(いのおか)古墳群、甘南備山チャリチャリ
井出の石仏、飯岡(いのおか)古墳群チャリ探訪 井出の石仏、飯岡(いのおか)古墳群チャリ探訪

五里五里の故里チャリチャリ探訪(城陽市〜井手町)

五里五里の故里チャリチャリ探訪(城陽市〜井手町)
山背古道チャリチャリ散策(城陽市〜井出町編) 山背古道チャリチャリ散策(城陽市〜井出町編) 山背古道チャリチャリ散策(山城町〜木津町編) 山背古道チャリチャリ散策(山城町〜木津町編)
万灯呂山(まんどろやま:大峰山)チャリチャリ散策 万灯呂山(まんどろやま:大峰山)チャリチャリ散策 山城散策 山城散策

 

Pちゃんズの古都珍道中記 Pちゃんズの古都珍道中記

 

戻る 洛雅記2006年探訪コラム

 

inserted by FC2 system