伏見、宇治ラストぽたぽたポタリング

 

明日ありと 思う心の あだざくら 夜半に嵐の ふかぬものかは  親鸞

 

西岸寺(油懸地蔵尊)〜大善寺(六地蔵)〜萬福寺〜日野薬師(法界寺)〜日野誕生院〜酒蔵

 

親鸞聖人生誕之地・日野の里

承安3年(1173年)、浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、日野の里で生まれました。父は、日野氏一族・皇太后宮大進日野有範(ありのり)卿、母は、清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)です。当地は代々、藤原北家の一流である日野氏の所領でした。初代・藤原真夏は「ここは、仏法有緑の地である。」という老翁「萓尾の翁」のお告げにより光仁天皇より当地を賜ったと伝わります。七代の孫にあたる藤原資業(すけなり)が別荘を営み、自ら出家して法界寺を建立し日野氏と称するようになった。以来、法界寺には、阿弥陀堂を始め五大堂、三重塔、観音堂、地蔵堂などが次々造営され七堂伽藍に輝く威勢を誇ったが、比叡山を焼き討ちにした織田信長の兵火に焼かれ、往時を偲ばせる現存の建物は、阿弥陀堂のみとなりました。

西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、鎌倉期に作られました。

西岸寺(油懸地蔵尊) 松尾芭蕉の句碑 油懸地蔵尊
桃山御陵参道 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 御陵階段(伏見城四の丸跡)からの眺め 伏見城本丸跡
明治天皇桃山御陵 昭憲皇太后桃山東陵(伏見城名護屋丸跡) 230段の大階段
大善寺(六地蔵)

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていましたが、後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたと伝えます。

伏見城お舟入り常夜灯 六地蔵(大善寺)
地蔵堂(左)、観音堂 地蔵菩薩立像 本堂
山科川 JR奈良線・黄檗駅 黄檗新生市場
おっと!亀石くん (;^◇^ゞ 墓参りへ・・・ 萬福寺塔頭・宝蔵院
蔵院の境内と甍 霊園からの宇治市街俯瞰
北向地蔵 蔵院開山塔(京都府指定文化財:江戸期) えぇなぁ〜 (@^▽^@)
黄檗山・萬福寺(重要文化財:江戸期)

萬福寺は、承応3年(1654年)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の崇敬を得て1661年に開創された中国風の寺院。日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山です。萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊などが重要文化財に指定されています。

萬福寺総門(重文:江戸期) 萬福寺案内図 境内へ・・・
総門(重文:江戸期)、三門(重文:江戸期)

総門・・・中央の屋根を高くし左右を一段低くした中国門の牌楼(ぱいろう)式を用い、漢門とも呼ばれました。中央上部裏面には円相が型取られています。これは風水的モチーフの一つ、「白虎鏡」です。三門・・・三間三戸、重層の楼門作りで左右に裳階(もこし)、山廊があります。大棟中央に火付宝珠があります。正面 の額「黄檗山」、「萬福寺」は隠元書。背面の額「旃檀林」は千呆(せんがい)書。ここを入れば脱俗の清浄域です。

三門(重文:江戸期) 天王殿(重文:江戸期) 都七福神の一、弥勒菩薩(布袋)坐像
天王殿(重文:江戸期)、弥勒菩薩(布袋)坐像

天王殿・・・寺の玄関として天王殿が設けられています。中国では一般 的な建て方で、四天王と弥勒菩薩と韋駄天を同様に祀ります。日本最古『都七福神』の一「布袋尊」です。弥勒菩薩(布袋)坐像・・・范道生作、寛文3年(1663)造立、木造、像高110.3cm。布袋は弥勒菩薩の化身といわれ、本山では弥勒仏とされています。布袋は名を契此(かいし)といい、南北朝末後梁の高僧で、定応大師と号しました。高泉禅師の「洗雲集」に、寛文3年11月末に隠元禅師の命を受けて道生が造立し松隠堂に安置されたとあり、おそらく寛文8年(1668)の天王殿建立に際し移されたと思われます。

雲版(うんばん) 木魚の原型という開梆  (魚梆  :かいぱん) 布袋絵馬・・・奉納しました。。。
仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/重文:江戸期)、月台(げつだい)、梵檀石(ぼんだんせき)

大雄宝殿(重文:江戸期/だいおうほうでん)とも称し五間六面、重層、屋根は入母屋造、本瓦葺の大殿で上層に「大雄宝殿」(隠元筆)、下層に「万徳尊」(木庵筆)の額を掲げ柱は全て角柱とし前面一間通りを吹き放しとします。廊下天井を蛇腹状(俗に黄檗天井)とし正面中央入口に桃実を浮彫りとした半扉を立て両端の壁に大きな円窓を設けるなど中国風の溢れた黄檗独自の建物です。仏殿の前にある白砂の基壇を「月台」と言い黄檗建築の特徴の一つです。月台とは常に月光を受けるという意で水陸会(水陸の生物に食べ物を供養する法会)を行う時の祭壇で、その中央の長方形の石は梵檀石(ぼんだんせき)と言い行状のよくない僧侶を石上におき一切の言葉を交じわせないとされ一に擯罰石(ひんばつせき)とも言います。

仏殿(大雄宝殿/重文:江戸期) 月台と擯罰石(ひんばつせき) 釈迦如来坐像(仏殿:大雄宝殿)
十八羅漢

正面に釈迦如来。両脇に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)、阿難尊者(あなんそんじゃ)というお釈迦さまの十大弟子の二人が祀られています。左右壁面には、十八羅漢が安置されています。日本の寺院は十六羅漢が一般的ですが、萬福寺では、慶友尊者(けいゆうそんじゃ)、賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)が加わって十八羅漢となっています。

明の文化を伝える表情豊かな十八羅漢 右手前から慶友(けいゆう)尊者 阿氏多(あじた)尊者
因掲陀(いんがだ)尊者 羅怙羅(らごら)尊者 戎博迦(じゅばか)尊者
迦哩迦(かりか)尊者 諾距羅(なこら)尊者 迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)尊者
賓度羅跋羅惰闍(びんどらばらだーじゃ)尊者 明の文化を伝える表情豊かな十八羅漢 左手前から賓頭盧(びんずる)尊者
注荼半諾迦(ちゅだはんたか)尊者 伐那婆斯(ばなばす)尊者 那伽犀那(ながせな)尊者
半託迦(はんたか)尊者 伐闍羅弗多羅(ばじゃらぶたら)尊者 跋陀羅(ばだら)尊者
法堂(重文:江戸期)

五間六面、単層、屋根は入母屋造、桟瓦葺の建物で正面に「獅子瓦」(費隠筆)と記した横額を掲げます。仏殿と同じく正面一間通りを吹放として、天井も唐破風の蛇腹天井、前面に卍くずしの匂欄(こうらん)をつけています。法堂は住持が説法する道場で内部は中央に須弥壇を設けるのみで仏像はありません。山門から天王殿、仏殿、法堂と東西に一直線上に並んだ建物の左右に東方丈、西方丈、斎堂(食堂)と禅堂、伽藍堂、祖師堂、鐘楼、鼓楼などの諸堂が整然と対照的に建っているのは壮観です。どの建物も正面に額を掲げ左右の柱に聯(れん)を吊るしているのも当寺の特色とされます

蘇頻陀(すびんだ)尊者 迦諾迦伐蹉(かなかばっさ)尊者 法堂(重文:江戸期)
巡照(じゅんしょう)板

黄檗山の一日は、朝の巡照板によって始まり、夜の巡照板によって終わります。ここで修行する雲水(修行僧)が正覚をめざして精進を誓い、自覚を促すために巡照板を打ち鳴らして各寮舎を回ります。山内には禅堂を始め5ケ所の巡照板が設置されており、長い回廊を巡るため巡廊板とも呼ばれます。

卍くずしの匂欄(こうらん)と巡照(じゅんしょう)板 中国の風情が漂う回廊
寿蔵(寿塔、真空塔/重文:江戸期)

本瓦葺六角堂。屋根は宝形造り。頂に露盤・宝珠を置く。寿蔵は禅師の生前に築造された墳墓。木庵禅師を中心に、法子・法孫らが建立。中央円窓戸板の題「寿蔵」は隠元書。額「眞空塔」は霊元天皇の御宸筆。半円形石垣が寿蔵を囲んで築かれています。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 寿蔵(寿塔、真空塔/重文:江戸期) 改修中の松隠堂
日野薬師(法界寺)

真言宗醍醐派に属する法界寺は、日野薬師とも言われ、一般に安産・授乳に霊験のあるお寺として知られています。弘仁13年(822年)、藤原家宗が薬師如来を祀ったのが始まりで、永承6年(1051年)、藤原氏一族、日野資業(ひのすけなり)が薬師堂を建立した寺院で「阿弥陀堂(国宝)」は兵火をかいくぐって残り、藤原時代の遺構として宇治・平等院鳳凰堂、大原三千院・往生極楽院や岩手県・中尊寺金色堂と並び貴重な平安時代の代表的な遺構とされる建物です。本尊の阿弥陀如来坐像も国宝に指定されています。僧によって元旦〜14日間、修正会と称して薬師堂で五穀豊穣、天下大平を祈願し結願の1月14日の夜、群参の内、精進潔斎した青少年、壮年の信徒が二組に分かれ、褌姿で水をかぶり身を清め、両手を上げて合掌しながら「頂礼ちょうらい頂礼ちょうらい」と連呼しながら踊ります。踊りに用いれられた下帯(褌)は、妊婦の腹帯として用いる信仰もあります。当夜は、牛王串(ごおうぐし)の御守が授与され、かす汁の振る舞いもあります。

駒の蹄影園跡 説明碑 日野薬師(法界寺)
境内 阿弥陀堂
親鸞聖人生誕之地・日野誕生院

本願寺第20代・広如宗主の文政11年(1828年)9月、宗主・親鸞聖人の誕生地である日野を顕彰して1つの堂宇が建てられたのが日野誕生院の始まりです。親鸞聖人の父・日野有範(ありのり)卿に因んで有範堂とも宝物堂とも言われた。前代の本如宗主は、宗主の顕彰に熱意を示し、学僧に当地の調査をさせたり、日野家の菩提寺・法界寺との交渉をしました。文久2年(1862年)、講持の為、京都の同行の間に日野誕生講が結ばれました。第21代宗主・明如は、明治11年(1878年)、堂宇を日野別堂と改名、大正12年(1923年)、立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機に堂宇の一大改宗が計画され第23代宗主・勝如の昭和3年(1928年)5月、着工され昭和6年(1931年)5月、本堂が完成し落慶法要が営まれました。この時に、日野誕生院と改名され現在に至ります。

薬師堂(本堂) 日野誕生院 説明碑
山門 本堂・・・しばし瞑想?&合掌
歌碑 親鸞聖人童形の像(発心の像) 親鸞聖人産湯の井戸、胞衣塚
親鸞聖人産湯の井、胞衣塚(えなづか)

親鸞聖人の誕生時に産湯に使われた閼伽井(あかい)の水で「産湯の井戸」と伝えられています。聖人の「えな」(胞衣:胎児を包む膜と胎盤)を埋納したという胞衣塚(えなづか)があります。

産湯の井戸、胞衣塚(えなづか:手前) 産湯の井戸

胞衣塚

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)

伏見の酒蔵

Tourist  2006.12.17(M)

 

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