Pちゃんズの宇治ぽたリング

 

やどり木と 思ひだすは 木の下の 旅寝もいかに 淋しからまし 源氏物語「第四十九帖・宿木(やどりぎ)]

 

許波多(こはた)神社〜橋寺放生院〜世界文化遺産・宇治上神社〜宇治神社〜世界文化遺産・平等院〜県(あがた)神社

 

源氏物語「宇治十帖」の舞台・・・宇治

紫式部の五十四帖からなる『源氏物語』の第四十五帖「橋姫」〜第五十四帖「夢浮橋」まで、最後の十帖は宇治が舞台で橋から始まり、橋で幕を閉じます。宇治川に架かる宇治橋は大化2年(646年)に架橋された日本初の本格的な橋梁で三の間から、宇治川上流を眺めると山紫水明を満喫できます。他にも朝霧橋、橘橋、喜撰橋などの橋があり、雲を染め、川面に映り揺らぐ様は水と緑豊かな美しい宇治の風光明媚な景観に心が和み、いにしえの王朝絵巻に想いを馳せます…宇治十帖古跡をめぐるのも歴史ロマンを感じさせてくれます。

宇治川派流@蓬莱橋 酒蔵・・Pちゃんにえらく先行されまつた! (^◇^;) 長建寺
先行していたPちゃんに追いつきました(^◇^;) トーマス仕様のおけいはん (@^▽^@) 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)
飛ばしますな〜 (^◇^;) 山科川(左)と宇治川合流地 木幡池
許波多(こわた)神社(五ヶ荘:ごかしょう)

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、神倭磐余尊(かんやまといわれひこのみこと/神武天皇)の三神を祀る五ヶ庄一帯の産土神で木幡の許波多神社とともに古くから崇敬されています。創祀年月は明らかにしません。社殿によれば皇位継承をめぐる壬申の乱(671)を前に大海人皇子(天武天皇)が近江の大津宮から吉野に赴かれる時に参詣し手にした柳の枝のムチを社頭の瑞垣に挿し「我に天位を践まばこの柳、芽を出すべし。」と戦勝祈願し、天武天皇として即位するや柳も芽吹きその霊験を賞賛し社領を寄進され名も柳大明神と名付けたとされます。明治8年(1875年)9月、陸軍火薬庫が増設されるにあたり翌9年10月、お旅所であった現在地に移されました。「山城風土記」、「宇治郡木幡社(祇社:くにつかみのやしろ)」、「延喜式神名帳」の「宇治郡許波多神社三座」とあるは当社と断定され社名の柳大明神を許波多神社に改めました

隠元橋 許波多神社 境内
本殿 黄檗駅手前の踏み切り・・・ 墓参り@萬福寺塔頭・宝蔵院
Pちゃんの提案で宇治小東沿いの急な坂道を一気にチャリチャリと霊園へ・・・ (^◇^;) スゲ〜 宇治俯瞰 えぇなぁ〜 (@^▽^@) @黄檗霊園
橋寺放生院

雨宝山と号する真言律宗の寺で一に常光寺として地蔵尊を祀り道路交通の安全を祈る寺として古くから知られます。寺伝によれば大化2年(646年)、僧道登が宇治橋を架けた時に宇治橋の守り寺として併せて建立したとされるが弘安9年(1286年)西大寺の僧叡尊が宇治橋の架け替えにあたり橋供養をした時だとされます。断碑は、上下二つに割れたものを一つに繋ぎ合せ碑文は大化2年(646年)、僧道登によって宇治橋が初架橋されたと記します。元橋畔にあったのがいつの世にか流出し行方不明でしたが寛政3年(1791年)、たまたま付近土中から断片が発見され、失った部分を補ったのが現在の石碑で日本最古の石碑とされますが近年、古さを誇示する為に平安初期頃に偽作されたという説もあります。

萬福寺 橋寺放生院 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
十二支守本尊像 Pちゃんと守本尊が一緒や〜 一緒や〜(^◇^;) 日本最古?の石碑「断碑」
本堂 えぇなぁ〜 (@^▽^@) @さわらびの道 宇治上神社
宇治上神社(世界文化遺産)、桐原水(きりはらすい)

宇治上神社・・・元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれ明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初期のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものです。桐原水・・・室町時代に「宇治七名園」が作られ、それに伴いお茶に欠かせない水にも「宇治七名水」が定められ、桐原水一つに数えられました。現在他の六名水は失われましたが、桐原水だけが、今もなお枯れる事なく涌き出していますが残念ながら生での飲料水としては不可のようです。

宇治上神社 拝殿(国宝:鎌倉期) 宇治七名水「桐原水(きりはらすい」
本殿(国宝)

覆屋(おおいや)のある本殿には、三社が収められ、祭神は向かって右が「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)(弟)」真中が「応神天皇(父)」、左が「仁徳天皇(兄)」とされています。それぞれ神殿としては小規模ですが、その造りは大変優雅で、神社築としては日本最古のものと伝え、建築年代は平安時代後期と推定され国宝に指定されています。

本殿(国宝:平安期) [第四十八帖・早蕨(さわらび)]之古跡 離宮水
宇治神社

地域の産土神(うぶずながみ)であった離宮社は、対岸に平等院が建立されると、その鎮守社としての地位も与えられました。江戸時代迄は宇治神社と宇治上神社は一対でした。この一帯は応神天皇の皇子で、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅跡と考えられ、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが両神社の縁起と伝わります。応神天皇の離宮とも関わりがあったと思われ、「離宮社」、「離宮八幡」などと称されました。

宇治神社 境内 拝殿
参拝します・・・ 本殿(重文:鎌倉期) 浮島(塔ノ島、橘島)と朝霧橋 (@^▽^@)
宇治十帖モニュメント

宇治川右岸の朝霧橋の手前にあります。源氏物語「宇治十帖」では、浮舟(女性)は薫に連れられて宇治に移りますが、匂宮(男性)は浮舟の居場所を探して宇治を訪れ、二人は小舟で橘島へ渡りました。モニュメントはその場面をモチーフされました。

宇治橋 (@^▽^@) 源氏物語・宇治十帖モニュメントと朝霧橋 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
朝霧橋 宇治川上流 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 宇治川下流
浮島へ向われるそなたは浮舟さまでは、あらしゃりませぬか?(爆) ( ̄▽ ̄;)!! @朝霧橋 この流域で鵜飼いが行われます・・・
宇治川先陣碑、浮島十三重石塔(重文:鎌倉期)

宇治川先陣碑・・・承久年間、源義経(みなもとのよしつね)と木曽義仲(きそよしなか)の合戦時に源義経旗下・佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かげすえ)の二名が宇治川の先陣を争った故事を偲んで昭和6年(1931年)4月、帝国在郷軍人宇治分会が建てたものです浮島十三重石塔・・・塔ノ島中央にあり花崗岩製で高さ15m、我が国現存中最大の十三重石塔です。弘安9年(1286年)、奈良西大寺の僧・叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもので上人は橋の流失は乱獲される魚霊の祟りであるとし殺生の罪を戒め網代を捨ててこの地に経巻共に埋め供養塔としたものと伝わります。石塔は宝暦6年(1756年)の大洪水で倒れ、約150年間埋没していたものを明治41年(1908年)に発掘されて再建されました。一説に上から五番目の塔芯を石川五右衛門が盗み出し伏見の藤森神社の手水の水鉢であるとされます。

宇治川先陣碑 日本最大の浮島十三重石塔(塔ノ島) 浮島(塔ノ島)&喜撰橋@あじろぎの道
宇治市観光協会・・・休憩させて頂きました。 (@^▽^@) 平等院へ・・・(@^▽^@)
平等院(世界文化遺産)、扇の芝

平等院・・・10円硬貨のデザインとしても有名です。宇治上神社と共に平成6年(1994年)、世界遺産登録されました。朝日山と号し元は天台・浄土兼学であったが今は単立寺院となり最勝院と浄土院によって交互に管理されています。藤原氏一族によって多くの伽藍が建立され栄華を誇りましたが藤原氏の衰退、中世以降の兵火によって多くの諸堂を失い、創建当時唯一の建物の阿弥陀堂(国宝)は、永承7年(1052年)、宇治関白・藤原頼通が、父・道長の別荘の宇治院を寺改し平等院と名付けました。鳳凰堂は翌年に阿弥陀堂として建てられ、仏師・定朝の作になる阿弥陀如来像が安置されている中堂は入母屋造り、床下の高い左右の翼廊、楼閣は宝形造、背面の尾廊で構成され正に鳳凰が両翼を広げて飛び立とうとする姿に見せています。大屋根には鳳凰が飾られ、内部は絢爛な宝相華文様や極彩色の扉絵で装飾され、御堂と池が一体化された浄土庭園は史蹟名勝庭園にも指定されあたかも極楽浄土を再現したような絢爛豪華さです。扇の芝・・・治承4年(1180年)5月、以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じ、平家打倒を掲げた源頼政は宇治で決戦に及び、戦に敗れ平等院で辞世の和歌「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける。」を残し、この場所で自刃たと伝えます。

ゲゲッ!!抹茶ソフトですがな!寒うぅ〜( ̄▽ ̄;)!! 平等院 源三位頼政が自刃した場所と伝える扇の芝
鳳凰堂(阿弥陀堂)

平安時代後期、天喜元年(1053年)、時の関白・藤原頼通によって平等院に建立された阿弥陀堂です。華やかな藤原摂関時代を偲べる唯一の遺構として貴重な建築です。最も大きな特徴は池の中島に建てられている事で、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面 に映しています。堂内の中央には金色の丈六阿弥陀如来像が端座し、周囲の壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれています。左右の壁上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられています。堂内の天井や小壁は、宝相華を主とする文様で埋めつくされ柱にも、天衣を翻して舞う天人や楽を奏する天人、飛び立つ鳳凰、宝相華、唐草文様などが描かれ、これらは鮮やかに彩 色されていました。そして天蓋中央部の大型の八花鏡のほかに、天井には計66個もの銅製鏡が吊られています。「続本朝往生伝」という平安時代の本に「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」という記述があります。当時の人々は鳳凰堂を地上に出現した極楽浄土と思いました。

鎌倉初期に再建された観音堂(重文:鎌倉期) 10円硬貨でお馴染みの鳳凰堂(阿弥陀堂) えぇなぁ〜 (@^▽^@)
浄土院

平等院の塔頭で、浄土宗の栄久(えいく)上人が、明応年間に平等院修復の為に開創した寺と伝えます。 文化財である阿弥陀如来立像、帝釈天立像、養林庵書院障壁画などを管理しています。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) 浄土院
平等院と源頼政

平等院は「平家物語」の舞台として一般の人々に注目されました。治承4年(1180年)5月、源三位頼政が平等院に立て篭もり平家の軍勢と戦い敗れて境内の一隅に軍扇を敷き「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりけり」と詠んで自害した事が後世の人々の同情を誘い境内に「扇の芝」、頼政が鎧を脱ぎ捨てた「鎧掛けの松」、頼政が馬を繋いだ「馬つなぎの松」、頼政塔、頼政碑も建てられました。松は枯れて現存しませんが他は現存しています。

本堂 源三位頼政墓所 駒札
県(あがた)神社

平等院の鎮守と言われ江戸時代迄は近江三井寺円満院の管理に属しましたが明治の神仏分離によって独立したと伝えます。祭神に関しては古来種々の節がありましたが木花開耶比売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とします。延喜式にはその名を見ないがその創祀は古いとされます。6月5日の夜にある「あがた祭り」は近畿圏の信奉者による梵天渡御があり「暗闇の奇祭」として有名です。

不動堂 県(あがた)神社 参拝しました・・・
[第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡 紫式部と宇治橋 三の間(宇治橋)
浮島(塔ノ島、橘島)@宇治橋三の間 [第五十帖・東屋(あづまや)]之古跡
茶だんごなどをゲット (@^▽^@) 宇治行きのトーマス仕様おけいはん 山科川、宇治川合流地点
先ほどのトーマスに抜かれまつた・・・ 観月橋 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)
先行していたPちゃんに追いつきました(^◇^;) 弁天橋@宇治川派流(十石舟乗船場)

酒蔵

Tourist  2007.01.08(M)

 

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