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西大寺へ@近鉄桃山御陵前駅 |
宇治川@近鉄澱川鉄橋 |
近鉄大和西大寺駅に到着 |
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平城宮跡へテチテチ・・・@秋篠川 |
風情ある家並み |
平城宮跡資料館 |
世界文化遺産・平城宮跡(特別史跡) |
朱雀大路北端の朱雀門をくぐると天皇の住居、政治や国家的儀式を行う平城宮がありました。平城宮周囲は大垣が廻らされ、朱雀門を始め12の門があり平城宮内部には幾つかの区画がありました。政治、儀式の場である大極殿、朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司、宴会を行う庭園などです。中でも政治、儀式の場は、都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化がありました。奈良時代前半、朱雀門の真北にあった大極殿(第一次大極殿)が、奈良時代後半になると東側の区画(第二次大極殿)に建てられましたが、内裏は、奈良時代を通じて同じ場所にありました。 |
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平城宮跡資料館 |
平城宮跡の発掘調査のジオラマ |
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天平の貴族と平成の貴族?(≧Σ≦)プッ |
東院庭園のジオラマ |
広大な長屋王邸宅のジオラマ |
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発掘調査で出土した鬼瓦、土器など調査によって判明した様々な物が復元展示されています・・・ |
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現在の平城宮跡の航空写真 |
遷都で建物が取り壊される様子 |
平城宮のジオラマ |
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出土したものを復元展示 |
掘立柱(柱穴に残った柱根本部分) |
遷都の様子の解説 |
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現在の唐招提寺講堂 |
奈良朝時代の唐招提寺講堂 |
朝集殿のジオラマ |
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儀式や生活用品など様々なものが出土し復元展示されています・・・ |
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神事に使われた?様々な人方 |
土器 |
貨幣 |
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台所、食器など |
貴族の屋敷 |
畑と井戸もある一般庶民の屋敷 |
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阪神甲子園球場の約30倍(120万u)という広大な平城宮跡・・・こんな大規模な遺蹟が奈良の市街地に保存されているのが凄い!!! |
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H22年完成予定の第一次大極殿復元工事 |
遠くに若草山 |
第一次朝堂院地区 |
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第一次朝堂院地区 |
朱雀門と第一次朝堂院地区が近鉄奈良線で遮断されてますがな?!
( ̄▽ ̄;)!! |
朱雀門 |
平城京の入り口である羅生門から75m幅の朱雀大路が真北に伸び、4km先には平城宮正門である朱雀門が建っていました。朱雀門前では元日に天皇が門まで出向き、新年の祝事や外国使節の送迎の儀式が行われたり、都の男女が集って、恋の歌をかけあうのを天皇が見るという事もありました。朱雀門の左右には高さ6mの築地が廻らされ、130haの広さの宮城を取り囲んでいました。朱雀門は衛士に守られ、常時開門されていたようではありませんが、平城宮正門としての権威を内外に誇示していたと思われます。現在の朱雀門は平成10年(1998年)に復元されました。 |
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朱雀門の傍を通過する近鉄特急
(@_@;) |
朱雀門(平城宮正門) |
史跡
平城宮跡碑 |
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南面外門跡 |
平城宮跡保存記念碑 |
朱雀門方面 |
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東院庭園 |
東院南門(建部門)と南面大垣 |
特別史跡
平城宮跡説明パネル |
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お〜!大和ワラシベ軍団の襲来じゃ〜? |
Pちゃんズでつ?!
(≧Σ≦)プッ |
東院庭園 |
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東院南門(建部門) |
復元された西建物(エントランス) |
展示物 |
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東院庭園案内図 |
中央建物で宴会が行われた美しい庭園です・・・池の清掃中で水がありません!
( ̄▽ ̄;)!! |
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復元された西建物と板塀 |
のどかな風景と南面大垣が往時を彷彿とさせます・・・ |
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法華寺旧境内・阿弥陀浄土院跡 |
阿弥陀浄土院跡駒札 |
奈良公園へテチテチ。。。
(^O^; 暑うぅ〜 |
奈良公園周辺 |
若草山々麓に広がる緑豊かな奈良公園周辺は、世界文化遺産に登録されている奈良のシンボル・大仏さまが鎮座する東大寺、仏像の宝庫と言われる興福寺、鮮やかな朱色の社殿と砂ずりの藤が雅な春日大社など古刹の社寺仏閣があります。奈良公園は手入れが行き届いていますが、実は奈良公園の美しい環境を常に守っているのは、鹿と鹿のフンなどを食べるセンチコガネ(コガネムシ科)など多くの種類のコガネムシです。奈良公園の鹿たちは、天然記念物に指定され現在、約1200頭もの野生鹿が群生しています。藤原不比等(ふじわらのふひと)が春日大社を創建した時、藤原氏の氏神・武甕槌命(タケミカヅチのミコト)が白鹿に乗って来たと伝える事から古来、鹿神として大切に保護されています。 |
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JR奈良線 |
奈良公園 |
ランチタイム〜
ヽ(゜▽、゜)ノ |
世界文化遺産・興福寺、五重塔 |
興福寺・・・法相宗大本山で興福寺の前身は飛鳥の厩坂寺(うまやさかでら)です。更に遡ると天智朝の山背国「山階寺:やましなでら」が起源となります。山階寺は、天智8年(669年)に藤原(中臣)鎌足が重い病気を患った時に夫人の鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置する為に造営したと伝え、この寺名は後世においても興福寺の別称として使われています。672年(無元号の年)、壬申の乱後、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。そして平城遷都の際、和銅3年(710年)に藤原不比等によって移され興福寺と名付けられました。五重塔・・・天平2年(730年)、興福寺の創建者・藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘・光明皇后が建立しました。その後、5回の焼失と再建を経て、応永33年(1426年)頃、創建当初の位置に再建されました。京都・東寺の五重塔に次いで日本で二番目に高い塔です。三手先斗栱
(みてさきときょう)を用いるなど古様によりますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れられています。創建当初の高さは約45mで、当時日本で最も高い塔でした。各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼(くじょうこうだらに)経が、初層には四天柱の各方、東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変が安置されていました。現在もその伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されています。 |
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興福寺 |
高さ50.1mの五重塔 |
三手先斗栱
、寄棟造の東金堂(とうこんどう) |
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興福寺 |
奈良公園案内図 |
鹿せんべい、くださいな〜 |
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あの〜、Pちゃんでつね?岩田山のオサルさんから噂は聞いてますけど・・・
σ(^◇^;)なははは〜 ほな一つ、これで宜しゅうに。。。(@^▽^@) |
仏教美術資料研究センター(奈良県物産陳列所:重文・明治期) |
明治35年(1902年)に奈良県物産陳列所として建てられた純和風造りにイスラム様式の装飾を取り入れた異国情緒溢れる明治建築です。昭和55年(1980年)、奈良国立博物館付属仏教美術資料研究センターとして現在に至ります。 |
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仏教美術資料研究センター(奈良県物産陳列所) |
鹿せんべい、くださいな〜・・・
σ(^◇^;)どもども |
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さすが岩田山のおサルさんの口コミ?
(; ^O^ゞ 鹿さんにPちゃん大人気でつ?!(@^▽^@)
お陰で鹿せんべいを幾つ買わされた事やら?! ( ̄▽ ̄;)!! |
古都・奈良の秋を彩る「鹿の角きり」 |
春日大社の神が白鹿に乗ってやってきたという伝説から、神使いとして古くから手厚く保護されてきた奈良公園の鹿は発情期で角鹿が町民に危害を加えたり互いに突きあって死傷する事が多かった為に、寛文11年(1671年)、鹿の管理者であった興福寺が奈良奉行の立会いの元で始まったと伝えます。当初、町の所々に柵を設け、その中に鹿を追い込んで角きりを行いました。町民は家の格子(鹿格子、奈良格子とも呼ばれる)越しに観賞しましたが昭和初期に角きり場を設けられ年中行事になりました。明治、昭和の戦争で一時、中断されましたが、現在まで継承されている伝統行事です。勢子(せこ)たちが角鹿を3〜4頭を場内に追い込み「十字:割り竹を組んで縄を巻きつけた捕獲具」や「だんぴ:竹を輪に組み縄を編んだ捕獲具」を使って荒々しく走る鹿の角に縄をかけ、暴れる鹿を手繰り寄せて捕獲します。烏帽子、直垂姿の神官が鹿の気を静める為に水を含ませ、ノコギリで角を切り落とし、神前に供えます。 |
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鹿が刻まれる春日社の石灯篭 |
既に立派な角鹿三頭がいる鹿の角きり会場 |
勢子(せこ)と神官の入場 |
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いよいよ鹿VS勢子のバトル開始!太鼓の音が場内に響きます・・・勢子が連携して角鹿を追い込みます。 |
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鹿と勢子の一騎打ち!と思ったら多勢に無勢?!御無体な〜( ̄ω ̄;)!
どこからか???「鹿ガンバレ〜」の天声が! σ(^◇^;)・・・場内爆笑でした?! |
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バトルも大詰め!鹿も必至で抵抗しますが・・・フォールを決められてしまいました!鹿さん、君のガンバリをシカと見届けたぞ〜
σ(^◇^;) |
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よいしょ、よいしょと勢子6人衆で鹿を運びます |
鹿に酒?なら白鹿??σ(^◇^;)おいおい
神官が水を含ませて鹿を落ち着かせてから角きり開始! |
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ノコギリでギコギコ・・・角1本とったど〜! |
勢子4人で鹿をシカっと?σ(^◇^;)
フォールドして神官がノコギリでギコギコ・・・角2本目とったど〜!! |
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見事に切り取った鹿の角2本を神官が差し上げます。。。 |
1、2、3、だ〜!!! 鹿を放しました! |
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鹿がピョンと立ち上がり退散・・・ |
鹿の角きりは勇壮でした。勢子さん一同礼、拍手喝さい。。。やれやれと退場します・・・ |
世界文化遺産・春日大社(国指定史跡) |
平城京に遷都された和銅3年(710年)、平城京と藤原氏の守護神として藤原不比等(ふじわらのふひと)が創建しました。式内社(名神大社)の二十二社の一社、旧社格は官幣大社で全国にある春日神社の総本社です。茨城県の鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、
千葉県の香取神宮から、経津主命(フツヌシのミコト)、天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と比売神(ヒメガミ)は、大阪府枚岡(ひらおか)神社から春日の地に迎えて四神を祭神とし、奈良時代の神護景雲2年(768年)、現在地に四所の神殿が創建されたのが始りと伝えます。藤原氏の隆盛と共に当社も隆盛し平安時代初期には官祭が行われるようになりました。当社の例祭である春日祭は賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭と共に三勅祭の一とされます。藤原氏の氏神・武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたと伝える事から、鹿が神使とされ奈良の鹿は大切に保護されています。 |
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芭蕉句碑 |
二の鳥居@春日大社 |
鹿の手水所 |
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鹿さん、角切られまっせ?!
σ(^◇^;) |
春日大社表参道 |
流鏑馬(やぶさめ)の練習@着到殿(重文) |
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流鏑馬(やぶさめ)・・・木馬に跨った武士が発声しながら的に弓矢を放っています・・・ |
ワッ!ビックリしたなモ〜
じゃなくてビィ〜?!
(@_@;) |
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あっ!Pちゃんや!
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鹿せんべい、くださいな〜
σ(^◇^;) |
鹿さんに追われてますがな!
( ̄▽ ̄;)!! |
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もぐもぐ・・・おおきに〜
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石灯籠がズラリと並ぶ表参道 |
南門 |
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加茂社を彷彿しました・・・ |
樹齢800年とも伝える銘木・砂ずりの藤 |
砂ずりの藤の駒札 |
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境内 |
参拝します・・・舞殿(左)・幣殿(重要文化財) |
二礼二拍手一礼拝 |
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参拝しました・・・ |
東大寺へ向います。。。 |
浮雲園地(若草山) |
世界文化遺産・東大寺 |
天平13年(741年)に聖武(しょうむ)天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と号した華厳宗大本山です。神亀5年(728年)、聖武天皇の皇子・基(もとい)王の菩提を追修する為に建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)が始まりです。天平12年(740年)、後に東大寺初代別当となる良弁(ろうべん)が主宰して、我国で初めて「華厳経(大方広仏華厳経)」の講読が開始されました。この講義は、新羅で華厳経(けごんきょう)の教えを学んだ大安寺の審祥を講師に招き「六十華厳」と言われる仏駄跋陀羅(ブッダバドラ)を中国語に訳した60巻もの「華厳経」を参考にされました。注釈書には、中国華厳宗の第三祖で華嚴教学の大成者といわれる法蔵(賢首大師)が著した「探玄記」が用いられたと伝えます。鏡忍、慈訓、圓澄を複師とし南都碩学16人を聴衆として、1年に20巻ずつ講義は進められ、3年後の天平14年(742年)、ようやく初回の講読が終講されました。天平15年(743年)、聖武天皇の盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ:奈良大仏)造顕の詔公布は河内国知識寺において天皇が盧舎那仏を拝した事がきっかけであったと伝えますが、「華厳経」の教理が明らかにされて初めて盧舎那大仏造顕という大事業の発願が可能だったのではないかと考えられ、良弁により主宰された我が国で初めての「華厳経」講読の成果が、後の盧舎那大仏造顕に結実したとされます。天平17年(745年)に金光明寺にて造営が開始された際、東大寺となりました。国力を注いだ一大事業である大仏建立は3年をかけ、天平勝宝4年(752年)、開眼法要が盛大に営まれましたが、大仏殿や講堂など伽藍が完成したのは延暦8年(789年)でした。治承4年(1180年)に平重衝、永禄10年(1567年)には松永久秀の兵火で伽藍が焼失し、現在の伽藍は宝永6年(1709年)に再建されました。 |
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東大寺 |
東大寺案内図 |
日本最大の三門・南大門(国宝) |
南大門(国宝:鎌倉期) |
治承4年(1180年)、平重衡の兵火で焼失後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に上棟、建仁3年(1203年)に門内に安置する仁王像と共に竣功した入母屋造、五間三戸二重門で屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある日本最大の山門です。東大寺中興の祖・俊乗坊重源(ちょうげん)が中国・宋から伝えた建築様式と伝える大仏様(だいぶつよう/天竺様:てんじくよう)を採用した建築です。大仏様の特色は、貫(ぬき)と呼ばれる柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にし、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としている腰屋根構造などです。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子一対(重文)を安置します。木造金剛力士立像(国宝)は高さ8.4mと巨大で門に向かって右に吽形(うんぎょう:閉口した像)、左に阿形(あぎょう:開口した像)を安置しますが、仁王像の一般的な安置方法とは左右逆とされます。昭和63年〜平成5年(1988年〜1993年)にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見され阿形像は大仏師・運慶と快慶が小仏師13人と作造し、吽形像は大仏師・定覚と湛慶が小仏師12人で作造したと記されています。 |
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運慶と快慶合作の金剛力士立像(吽形) |
参道 |
享保元年(1716年)頃に再建の中門(重文) |
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持国天と狛鹿さん?@中門(重文) |
世界最大の木造建築物の大仏殿(金堂:国宝)
建設当初は現在の1.5倍もあったとか?! (@_@;) |
盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう:奈良の大仏
国宝) |
「奈良の大仏さま」として有名な巨大仏像で東大寺の本尊として大仏殿(金堂)に安置されています。大仏は聖武天皇の御願により梵網経に説かれる三千世界の王として全世界を治める盧舎那仏を天下の政事の規範たるべく総国分寺である東大寺に顕現したもので、この造立経過は、そのスケールの大きさや理念からも日本古代史の根幹たる位置を占めています。大仏造りはは天平17年(745年)に開始され、天平勝宝4年(752年)に盛大に開眼供養が行われました。治承4年(1180年)、平重衡の兵火によって大破、更に永禄10年(1567年)に松永久秀の兵火に遭い、現在は元禄3年(1690年)の復興時の様相を呈しています。 |
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間口57.01m、奥行き50.48mもある大仏殿(金堂) |
盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう:奈良の大仏) |
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麗しきご尊顔を拝し恐悦至極に存じまする・・・座高:14.98m、頭部:5.41m、目長:1.02m、耳長:2.54m、台座高:3.05m |
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虚空蔵菩薩像 |
広目天像 |
大仏鼻穴柱くぐり |
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如意輪観音菩薩像 |
盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう:奈良の大仏) |
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なで仏(十六羅漢の一・びんずる尊者) |
美しい秋空と調和する境内 |
高さが48.74mもある大仏殿(金堂:国宝) |
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昭和の大仏殿大修理落慶法要 |
手向山八幡宮 |
二月堂へテチテチ・・・ |
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法華堂(三月堂:国宝) |
奈良と言えば・・・鹿さん |
二月堂山門 |
若狭井(お香水:閼伽水) |
3月12日深夜(13日の午前1時半頃)、「お水取り」という若狭井(わかさい)から観音様にお供えする「お香水(おこうずい:閼伽水)」を汲み上げる儀式が行われます。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火が灯されて、参集した人々を沸かせます。因みに京都市伏見区城南宮の菊水若水と若狭井は、若狭の鵜ノ瀬と呼ばれる淵から通じる同じ水脈と言われています。 |
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お水取りのお香水が汲まれる若狭井 |
若狭井の駒札 |
良弁(ろうべん)杉と二月堂(観音堂) |
二月堂(観音堂:重要文化財) |
正しくは観音堂と言いますが、このお堂で修二会(しゅにえ)が旧暦の2月に行なわれる事から二月堂と呼ばれます。良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟・実忠(じっちゅう)の草創と伝えますが、寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火、焼失し現在の建物は、その2年後に再建されました。創建当初の建物は小規模のものであったらしく、時代を経るにつれ、修二会の行法に合わせて増築されたようです。修二会は、天平勝宝4年(752)、実忠によって始められたと伝え、以来一度も途絶える事なく平成18年(2006年)まで1256回を数えます。「修二会」は「お水取り」、「お松明」とも呼ばれています。 |
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二月堂へテチテチ・・・
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旧暦2月に「お水取り」が行われる二月堂
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二月堂からの奈良俯瞰・・・夕焼けに照らされる奈良の町が美しい。。。o(>w<)〇゛
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二月堂の本尊は秘仏の十一面観音像 |
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観音堂 |
黄昏の秋空が美しい古都俯瞰@観音堂 |
寛文9年(1669年)に再建された二月堂 |
東大寺鎮守社・手向山(てむけやま)八幡宮 |
社伝によると奈良時代、聖武天皇が大仏の造営をされた時、これに協力の為、天平勝宝元年(749年)、宇佐から八幡宮を迎えて大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まり以後、東大寺を鎮守しました。鎌倉時代の建長2年(1250年)、北条時頼によって現在地に遷座しました。祭神は応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇の五神を祀ります。 |
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手向山八幡宮
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校倉造の法華堂経庫と御髪塔 |
手向山八幡宮 |
奈良国立博物館(重文:明治期) |
仏教美術の保護と公開を目的として明治28年(1895年)に開館しました。レンガ造りの本館は、開館当時の建物で設計は、当時宮内省内匠寮技師・片山東熊です。明治中期の代表的な欧風建築で、国の重要文化財に指定されています。本館では飛鳥時代〜鎌倉時代の彫刻を中心とした展示や古美術収集家・坂本五郎氏より寄贈された中国古代の青銅器などを展示しています。貴重な文化財を保護する為に展示替えも行われ本館と地下通路でつながる新館は、東西に分かれ、毎年開催される「正倉院展」を始め、西新館は特別展会場や平常展会場として仏教美術の名品の絵画、書跡、工芸品、考古資料を展示、東新館は特別展示室となっています。 |
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鏡池(八幡池)と大仏殿
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東大寺参道
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明治28年に開館した奈良国立博物館
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猿沢池 |
五重塔(興福寺)が水面に塔影を映す風情は、奈良公園を代表する景観の一つと言われ、興福寺の放生池(周囲:360m)として造られました。 |
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猿沢池へ・・・Pちゃんの頭に鹿の角が!?(@_@;)
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やっぱり鹿の角が?!σ(^◇^;)なははは〜@猿沢池
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猿沢池と五重塔(興福寺) |
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猿沢池と五重塔(興福寺)
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超高速の餅つきで有名な中○堂
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Tourist
2006.10.09(M) |