秋の大和路探訪 其の弐

 

あおによし 奈良のみやこは さく花の におうがごとく いまさかりなり  小野老朝臣

 

猿沢池〜奈良町〜世界文化遺産・元興寺(がんこうじ)〜新薬師寺〜志賀直哉旧宅〜世界文化遺産・東大寺〜般若寺(はんにゃじ)

格子戸の続く町並み探訪・・・町屋の軒先に身代わり猿が吊るされる奈良町

猿沢池の南に位置し、元興寺を中心に碁盤目状に町家が並ぶ奈良町は、中世、町衆の自治により発展しました。往時の町並が保存され奈良町資料館、時の資料館、奈良オリエント館など町の資料館が点在し歴史や町衆の暮らしを展示公開しています。宝徳3年(1451年)の土一揆によって元興寺伽藍の殆どが焼失、旧境内跡周辺に人々が移り住み町並みを形成し発展しました。古代史が主な奈良にあって、中世〜近世の町並みの面影を今に残します。奈良町で作られる奈良晒しと呼ばれる麻織物は、江戸時代に御用品とされ、全国に出荷されました。町家の軒先には、奈良町の庶民が信仰する一つ、庚申信仰の「身代り猿」が吊るされています。奈良町で見られる町家も「ウナギの寝床」と称される細長い間取りで日光を取り入れる中庭を設けるなど、京都と同じく町屋独特の工夫が施されています。因みに奈良町という町名は存在しません。

急行で奈良へ@近鉄桃山御陵前駅 大和西大寺から快速急行で奈良へ 地下の近鉄奈良駅
奈良観光の事なら此処です。。。奈良市観光センター 三条通り
奈良旧駅舎(JR奈良駅)

明治23年(1890年)、大阪鉄道のターミナルとして開業し、駅舎は昭和8年(1933年)4月着工、翌9年(1934年)11月に宇治の「平等院鳳凰堂」を模して、方形(ほうぎょう)屋根に相輪が立つ主屋部が完成し元設計にあった両翼部は、右翼部が昭和33年(1958年)に造築されたが左翼部は着工されずに現在に至ります。鉄筋コンクリート二階建て、屋根の小屋組は木造で、幅45m、奥行き25m、高さ20m、延べ床面積約1,255u、タイル張りの外壁や鉄枠のガラス窓が洋風で、瓦屋根、相輪の他、軒先の風鐸(ふうたく)、折上げ格(ごう)天井や宝相華(ほうそうげ)のレリーフに和風意匠が施されました。高架工事に伴って取り壊し予定でしたが、市民運動が実り保存が決定しました。

旧奈良駅舎(JR奈良駅) レンタサイクルの駅リンくんで奈良町へ@三条通 造り酒屋
猿沢池

五重塔(興福寺)が水面に塔影を映す風情は、奈良公園を代表する景観の一つと言われ、興福寺の放生池(周囲:360m)として造られました。古来、猿沢池には「@ 澄まず、A 濁らず、B 出ず、C 入らず、D 蛙(かわず)わかず、E 藻は生えず、F 魚が七分に水三分」と七不思議を伝えます。又、「大和物語」によると奈良時代、帝に仕えていた美しい采女(うねめ:後宮で帝に仕えていた女官)がいました。帝の寵愛が衰えたことを嘆き、ある時、猿沢池の池畔の柳に衣を掛けて、身投げをしました。この霊を慰める為に帝が池の西に采女神社を建立しましたが、采女が身を投じた池を見るに忍びないと一夜の内に、社殿が後ろを向いたと伝えます。

猿沢池 采女まつり説明碑 五重塔(興福寺)
奈良町

宝徳3年(1451年)の土一揆で焼失した元興寺の旧境内跡周辺に人々が移り住んだのが「ならまち」の始まりと伝えます。身代わり猿(願い猿)が軒先に吊られた格子の町家並みが続く元興寺周辺は風情がある町です。因みに奈良町という町名はありません。

ママちゃりの駅リンくんでつ!(レンタサイクル) 元興寺旧境内跡周辺に人々が移り住んだ風情ある奈良町
世界文化遺産・元興寺(がんこうじ)

元興寺、南都七大寺の一に数えられる寺院で推古元年(593年)11月、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的な仏教寺院の法興寺が前身と伝えます。法興寺は和銅3年(710年)、平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となりましたが、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、飛鳥寺となっています。奈良時代には東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいましたが、中世以降次第に衰退し、現在は奈良市中院町の真言律宗・元興寺(西大寺末寺)と奈良市芝新屋町の華厳宗・元興寺(東大寺末寺)の二寺院に分かれています。極楽堂(本堂)の屋根には日本最初の瓦が現在も使用されています。

世界文化遺産・元興寺 説明パネル
極楽堂(本堂:国宝 鎌倉期) 極楽堂(国宝鎌倉期)と禅室(国宝 鎌倉期) 格子戸と身代わり猿
軒先に身代わり猿が吊るされた格子のある町家が軒を連ねます。。。
町屋は京都と思っていましたが、奈良町の町屋も素晴らしい・・・
奈良町物語館 格子、虫籠窓、白壁、土間や箱階段など伝統的な町家の奈良町物語館
入口に身代わり猿が吊るされる奈良町資料館では、奈良町で古くより使われていた民具や仏像など7,500点が展示されますが、休館日! (>_<)
庚申(こうしん)堂

堂軒に、たくさんの身代わり猿が吊り下げられ、青面金剛立像(庚申)を祀ります。奈良町に息づく庚申信仰は道教に由来し、体中にいる悪玉の「三戸ノ虫」が、庚申ノ日に抜け出して、天を支配する玉皇大帝(北極星)に報告をしますが、「身代わり猿」が人に代わって玉皇大帝の怒りを全て受けてくれると伝えるお守りです。また、背中に願い事を書いて吊るすと、願いが叶うとされ「願い猿」とも言われます。

おサルの香炉が面白い・・・さすが庚申堂 史蹟「元興寺塔阯」入口
御霊(ごりょう)神社

奈良町一帯の産土神(氏神)で井上皇后(いがみこうごう)、他戸親王(おさべしんのう)、早良親王(さわらしんのう)、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)、藤原大夫人(ふじわらだいふじん)、伊豫親王(いおしんのう)、橘逸勢(たちばなはやなり)、文屋宮田麻呂(ぶんやみやだまろ)の八神を祭神して祀り、不遇の死を遂げられて怨霊となった八人を鎮める為に建立されました。

時が止まっているいるような風情の奈良町は自転車を押して、のほほほ〜んと歩きます・・・ 御霊神社
境内 格子のある町家並み
南都 鏡神社

平城天皇の時代、大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として奉祀したのが始まりと伝え、祭神は天照大御神、藤原広嗣、地主神を祀ります。一間社春日造、檜葺の本殿は延享3年(1746年)、春日大社第46次造替の時、第三殿を移されたもので奈良市指定文化財になっています。

風情ある家並み 奈良〜室町期?の石仏 南都 鏡神社
東洋のギリシャ 日本の莫高窟(ばっこうくつ)・・・新薬師寺(しんやくしじ)

寺伝によると聖武天皇眼病平癒祈願の為、天平19年(747年)勅願により光明皇后によって建立されました。新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく「あらたかな」薬師寺という意味です。当時、東大寺と共に南都十大寺の一に数えられ、四町四方(12,000坪)の境内に七堂伽藍甍を並べ住する僧一千人と記録にあります。 33年後の宝亀11年(780年)、西塔に落雷によって瞬時にして炎上し、現本堂のみが焼け残りました。当寺所蔵の重宝は建築、彫刻、絵画、工芸など各部門にわたって居り、時代も奈良時代より江戸時代に及んでいます。春夏秋冬、桜よく萩よく、その事さびた風情を楽しめます。本尊・薬師如来(国宝:平安期)と十二神将(国宝:奈良期)などが有名です。

拝殿と春日大社第三殿を移築した本殿 新薬師寺南門(重要文化財:鎌倉期) 境内
当尾の石仏を彷彿させる奈良〜室町時代の石仏
観音堂(地蔵堂 重要文化財:鎌倉期) 奈良時代の建物遺構の本堂(国宝:奈良期) 奈良市写真美術館
志賀直哉旧宅

文豪・志賀直哉が自らが設計した数寄屋造が基調の二階屋の邸宅で、大正14年(1925年)〜昭和初期までの13年間程住み、「暗夜行路」を執筆した書斎や武者小路実篤ら文人が集ったサロンがあります。一時取り壊しが決定しましたが、市民運動によって、大学セミナーハウスとして現状利用される事になり、一般にも公開されています。

土壁のある家並み 志賀直哉旧宅
由緒書き ゲッ!こんな山坂道走りますのか?今日の借主はん、ママちゃり扱いがひどい?!(爆) 鹿さんでつ!
世界文化遺産・春日大社(国指定史跡)

平城京に遷都された和銅3年(710年)、平城京と藤原氏の守護神として藤原不比等(ふじわらのふひと)が創建しました。式内社(名神大社)の二十二社の一社、旧社格は官幣大社で全国にある春日神社の総本社です。茨城県の鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、 千葉県の香取神宮から、経津主命(フツヌシのミコト)、天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と比売神(ヒメガミ)は、大阪府枚岡(ひらおか)神社から春日の地に迎えて四神を祭神とし、奈良時代の神護景雲2年(768年)、現在地に四所の神殿が創建されたのが始りと伝えます。藤原氏の隆盛と共に当社も隆盛し平安時代初期には官祭が行われるようになりました。当社の例祭である春日祭は賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭と共に三勅祭の一とされます。藤原氏の氏神・武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたと伝える事から、鹿が神使とされ奈良の鹿は大切に保護されています。

春日大社表参道に出ました。。。 あれれ〜、今日はPちゃんは、いないのでシカ??? ( ̄ω ̄;)!
今日は一人でシカ?な〜んや〜 Pちゃん来てないっ?!シカたないな〜 帰ろ、帰ろ〜 (≧Σ≦)ぶっ 若草山
世界文化遺産・東大寺

天平13年(741年)に聖武(しょうむ)天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と号した華厳宗大本山です。神亀5年(728年)、聖武天皇の皇子・基(もとい)王の菩提を追修する為に建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)が始まりです。天平12年(740年)、後に東大寺初代別当となる良弁(ろうべん)が主宰して、我国で初めて「華厳経(大方広仏華厳経)」の講読が開始されました。この講義は、新羅で華厳経(けごんきょう)の教えを学んだ大安寺の審祥を講師に招き「六十華厳」と言われる仏駄跋陀羅(ブッダバドラ)を中国語に訳した60巻もの「華厳経」を参考にされました。注釈書には、中国華厳宗の第三祖で華嚴教学の大成者といわれる法蔵(賢首大師)が著した「探玄記」が用いられたと伝えます。鏡忍、慈訓、圓澄を複師とし南都碩学16人を聴衆として、1年に20巻ずつ講義は進められ、3年後の天平14年(742年)、ようやく初回の講読が終講されました。天平15年(743年)、聖武天皇の盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ:奈良大仏)造顕の詔公布は河内国知識寺において天皇が盧舎那仏を拝した事がきっかけであったと伝えますが、「華厳経」の教理が明らかにされて初めて盧舎那大仏造顕という大事業の発願が可能だったのではないかと考えられ、良弁により主宰された我が国で初めての「華厳経」講読の成果が、後の盧舎那大仏造顕に結実したとされます。天平17年(745年)に金光明寺にて造営が開始された際、東大寺となりました。国力を注いだ一大事業である大仏建立は3年をかけ、天平勝宝4年(752年)、開眼法要が盛大に営まれましたが、大仏殿や講堂など伽藍が完成したのは延暦8年(789年)でした。治承4年(1180年)に平重衝、永禄10年(1567年)には松永久秀の兵火で伽藍が焼失し、現在の伽藍は宝永6年(1709年)に再建されました。

あんさん、先週見た角きりの時の鹿さんやね?! 東大寺南大門
おっ!可愛い、角しかくん! (@^▽^@) 仲良しやね! (@^▽^@) 東大寺西大門跡
植村牧場

今年で120年余、明治17年(1884年)の創業以来、牛への愛情と皆様への感謝の気持ちを込めて新鮮な牛乳を生産されています。搾りたての牛乳、ソフトクリームや、搾りたての牛乳を使ったマードレーヌ、クッキーも美味でした。(Pちゃん談 爆!!!) 売店とレストランも併設されています。牛舎の乳牛さんや小さな牧場の可愛いポニーさんも見学できます。

大仏池 植村牧場・・・売店で搾りたてのミルクとソフトクリームを賞味!!!
ジャ〜ン!新鮮なミルクとソフトクリームヽ(゜▽、゜)ノ 牛舎には35頭の乳牛が牧童さんによって大切に飼育されています。。。(@^▽^@)
お〜ポニーさんが3頭もいます。「噛みつく事が稀にあるので触らないで・・・」と書かれていましたが、ついついナデナデしてしまいました・・・ (;^◇^ゞ
般若寺(はんにゃじ)

奈良北山の古刹でコスモス寺として有名で法性山と号する真言律宗の寺です。寺名は般若経から由来し般若とは智慧(ちえ)を意味し、文殊菩薩を本尊とします。寺伝によると歴史は古く、飛鳥時代に高句麗の僧・慧灌(えかん)法師によって創建されたと伝えます。天平18年(746年)に聖武天皇が大般若経を奉納し卒塔婆を建立して平城京の鬼門鎮護の定額寺に定められました。その後、治承4年(1180年)、平重衡の南都焼き討ちで全てを灰燼に帰すも鎌倉時代の建長5年(1253年)頃、礎石のみが散在する草むらに十三重石塔が名も無き民衆の信仰の結晶で再建され、続いて良恵(りょうえ)上人が本願となって十万勧進によって金堂、講堂、僧坊を始めとする諸堂の復興造営を図りました。文永4年(1267年)、叡尊(えいそん)上人発願の文殊菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かっての大般若寺の威容が復興したと同時に境内の一隅に病舎を設け、苦悩の衆生を済度するなど、常に菩薩道精神を法灯にかかげて室町戦国期の戦乱による哀徴、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経て現代に至っています。楼門は鎌倉再興伽藍の回廊遺構で、均整の整った形と優れた意匠は楼門建築の傑作と言われ国宝に指定されています。十三重石宝塔は高さ14m余の卒塔婆で日本の代表的な石塔です。秋になると境内は約30種10万株のコスモスが一面に咲き乱れます。

あんさんは愛嬌者やね〜 (@^▽^@) 旧京街道に面する楼門(国宝:鎌倉期) コスモスが咲き乱れる境内
西国札所三十三観音霊場のご本尊を石像にして安置されている石仏
説明パネル 十三重石宝塔(重要文化財:鎌倉期)
十三重石宝塔(重要文化財:鎌倉期) 説明パネル 十三重石宝塔の初期の相輪
般若寺型(文殊型)石灯籠 説明パネル 笠塔婆(重要文化財;鎌倉期)
説明パネル コスモスが美しい・・・極楽浄土のようですがな!
30種10万株のコスモスが境内一面に咲き乱れます・・・
本堂(奈良県指定文化財:江戸期) 平安〜室町期の石仏 歴史の道(佐保、佐紀路コース)案内図
転害門

東大寺の西大垣の北寄り、佐保路に面して開けられた門で天平の雄渾(ゆうこん)な様式を伝える三間一戸、本瓦葺、切妻造八脚門です。東大寺の鎮守社・手向八幡宮の転害会がここをお旅所とした事から転害門と呼ばれ。佐保路門、景清門とも呼ばれます。

転害門 駒札 鹿さん (@^▽^@)
一条通り 石橋の法蓬橋(佐保川)
聖武天皇佐保山南陵

第45代聖武天皇は、第42代文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘の宮子です。天皇は、唐の文物を取り入れて国政の充実を図り、仏教を深く崇敬され、国分僧・尼寺、総国分僧寺の東大寺を建立し、大仏を造立して、天平文化を開花させました。奈良時代の最盛期を築いた聖武天皇ですが、政治の実権を握る藤原氏と光明皇后に押されて精神的に病んで、それが為に相次ぐ政治不安の中、遷都を繰り返したとも伝え、大仏の開眼式後の天平勝宝8年(756年)5月2日、56才で崩御されました。中世、御陵の祭祀を東大寺が行っていましたが、現在は宮内庁の管轄になっています。

聖武天皇佐保山南陵、光明皇后佐保山東陵 聖武天皇佐保山南陵
光明皇后(天平應眞仁正皇太后)佐保山東陵

光明子(光明皇后)は藤原不比等の三女で、母は県犬養橘宿禰三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ.)で聖武天皇の生母・宮子とは腹違いの姉妹です。聖武天皇は甥子で共に飛鳥時代の大宝元年(701年)に生まれ、天平元年(729年)の「長屋王の変」の後、臣下で初の皇后になり、女帝の第476代・孝謙天皇の生母です。美しい才女で、慈悲深い性格だったと伝え、施薬院、悲田院を設置して難民の救済事業を行い、仏教の振興にも努め自筆の「楽毅論(がくきろん)」等を正倉院に残し、天平宝字4年(760年)6月7日に60才で崩御されました。

御陵参道 光明皇后佐保山東陵
一条通りを西進し過ぎました!(>_<) 近鉄奈良駅前通過・・・ 三条通りを西進
高架工事に伴い取り壊し予定でしたが市民運動で保存決定された旧奈良駅舎(JR奈良駅) 自転車を返しました@駅リンくん
電動自転車もあります・・・ 三条通り 山楽(三笠)をゲット
格子のあるお店 行基菩薩像@近鉄奈良駅前 無事、急行で伏見へ@近鉄桃山御陵前駅

Tourist  2006.10.16(M)

 

参考資料  ようこそ奈良へ(奈良公園ウォークマップ)

新薬師寺畧縁起

般若寺畧縁起

「奈良を歩こう」 JR西日本

etc

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