はんなり雅な古都迷走案内「花の色は・・・」

 

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町

 

西岸寺(油掛地蔵尊)〜萬福寺〜醍醐寺〜朱雀天皇醍醐陵〜醍醐天皇後山科陵〜隋心院〜琵琶湖疏水〜蹴上インクライン〜平安神宮

 

小野小町

小野小町の生涯は判然としませんが、弘仁6年(815年)頃に生まれ平安初期、仁明天皇が東宮におられた時〜崩御されるまで側に仕え、特に盛艶優美、詠歌の妙を得た小町は東宮の籠幸を一身に受け、即位されてから更衣として使えました。嘉祥3年(850年)、仁明天皇41才にて崩御された後、山城国深草の山陵に葬られ俗に深草帝と称されました。仁明の御代も終わり、年改まった仁寿2年(852年)、30才を過ぎた頃、宮仕えを辞めて小野の里に引き篭もり余生を送ったと伝えます。『都名所図絵』に、「小野隋心院、勧修寺の東なり、曼荼羅寺と号す。又、小町水、門内南の中にあり、此の所は出羽郡領小野良実の宅地にして、女小野小町つねにこの水を愛して艶顔を粧ひにし」と記されます。又、当地を最も語り継がれる最も有名な話は深草少将の「百夜通(ももよがよい)」です。小町を慕って小野の里に雨の夜も雪の夜も通い続けたが、九十九日目の夜、降る雪と発病により最後の一夜を前にこの世を去った深草少将の伝説です。この時、小町はカヤの実にて数をとり後に小野の里に蒔いたと伝えます。夢でしか逢えない人を思い、多くの夢の歌を残し後世に六歌仙の第一人者と評され小倉百人一首の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」と哀愁に富み、情熱的な歌は華やかな盛艶時代を想い、人生のはかなさを詠ったのはあまりにも有名です。この世を去ったのも判然としませんが仁和寛平頃、70才を越して亡くなったと伝えます。

電気鉄道事業発祥の碑 椿花一輪・・・侘びやな〜(#^.^#) 松尾芭蕉の句碑
西岸寺(油掛地蔵尊) 油掛地蔵尊 坂本龍馬所縁の旅籠「寺田屋」
伏見を象徴する酒蔵の風景 島の弁天さん・・・長建寺 おけいはん(京阪電車・本線)
指月の浜

宇治川に臨む川畔を称し豊臣秀吉が伏見城築城に際し、建設資材の荷揚げ場として造営した所と伝えます。

澱川鉄橋(有形文化財:昭和期/宇治川) 三十石船@指月の浜 おけいはん(京阪電車・宇治線)
山科川、宇治川合流地点 木幡池 許波多(こわた)神社(五ヶ荘:ごかしょう)
京阪電車・黄檗駅 墓参り@萬福寺塔頭・法蔵院 宇治俯瞰
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 萬福寺 醍醐寺西総門
頼政道

摂津源氏の棟梁である源頼政は、平治元年(1159年)、平治の乱では源義朝を裏切り平清盛に加勢し、従三位となり源三位頼政と称した。治承4年(1180年)、以仁王に平家追討の令旨を出させて挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中の宇治平等院で自刃しました。この時、醍醐〜宇治に通り抜けた山道を里人は「頼政道」と称しました。

唐門(勅使門/国宝:桃山期) 仁王門(京都府指定文化財:桃山期) 頼政道
朱雀天皇醍醐陵

人皇61代・朱雀天皇は醍醐天皇の13番目の皇子で延長元年(923年)藤原忠平の五条第において降誕され8才で即位しました。在位16年で天暦6年(952年)8月15日、30才で崩御されました。同月20日、来定寺の北野(東山区泉湧寺雀森町)で火葬し父帝の醍醐陵の傍に葬られました。江戸時代、人家の後方の竹薮に覆われていましたが元治元年(1864年)に修治され現在の陵は方形とし墳丘を造らず鬱蒼とした樹木に覆われています。

朱雀天皇醍醐陵 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
醍醐天皇後山科陵

陵は円形で墳丘を造らずに平とし周囲に空堀をめぐらしています。天皇は敦仁(あつきみ)といい、宇多天皇の第一皇子として仁和元年(885年)、降誕され母は藤原胤子。13才で即位し菅原道真を登用し国を統治したので世に延喜の世と称せられました。「三代実録」、「古今和歌集」が撰修されたのもこの時期です。在位33年、延長8年(930年)9月29日に46才で崩御されました。元は山稜を築かず平地に卒塔婆三基を建て周囲に空堀をめぐらせただけだったと伝えます。

五輪塔 解説 醍醐天皇後山科陵
醍醐天皇後山科陵 醍醐山系 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
小野小町ゆかりの隋心院

真言宗善通寺派大本山で小野門跡(小野御殿)と言われるが小野小町ゆかりの寺として知られます。隋心院は、平安時代中頃に仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴2年(西暦991年)に奏請し、この地を賜り一寺を建立しました。古くは皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺と称されました。晩年の小野小町が移り住んだといわれ、敷地内のいたる所に小町の縁所があります。又、深草少将の百夜通いの折り、小町は榧の実を糸に綴って数をとりました。後、その実を当地に蒔き、かっては99本あったと伝えられています。

山科の里 小町ゆかりの化粧橋 隋心院総門
駒札 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 名勝・小野梅園
遅咲きで知られますが、散り初めの梅園
開花が早く、3/25に行われる「はねず踊り」の時、薄紅色(はねず色)の梅の花??? ( ̄▽ ̄;)!!
Wonderful Beautiful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
薄紅色(はねず色)の梅の花 えぇなぁ〜 (@^▽^@) 小町に仕えた侍女の塚
小町塚 文塚 深草少将「百夜通い」ゆかりのカヤの木
小町住居跡の小町井 小野小町歌碑 駒札
庫裡 えぇなぁ〜 (@^▽^@) カヤの古株など
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 洛巽の苔寺と称される庭園一面の大杉苔
表書院 妖艶な雰囲気を醸し出している藍染蚊帳の茶室@能之間
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 二代目・ミス小町 ビューティフル!  (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! (♯^▽^♯) エヘッ
庫裡〜書院 山門(大玄関) オススメの蕎麦屋・萬寿亭 橘
大宅一里塚@奈良(大津)街道 解説 岩屋神社
皇塚(おおつか)

ここに約直径20mの円墳があり、大塚・王塚・皇塚などと呼ばれた。6世紀前半頃の古墳と推定され、山科区内最古の古墳と考えられるが原型は留めない。一説に桓武天皇墳(墓所)という伝承もあり、地名(大塚)の由来となったと伝えます。

皇塚(岩屋神社お旅所) 山科川 名神高速東インターチェンジ@R1
JR新逢坂山トンネル 下)JR東海道線、上)JR湖西線
琵琶湖疏水

明治14年(1881年)2月、京都府知事に就任した北垣国道は琵琶湖に着目し疏水を開削する事で琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き同時に動力(水車)、灌漑、防火などに利用して京都の産業を振興しようとしました。明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水(第一疎水)は当時の京都市年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが、工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎(さくろう:当時21才)が設計し僅か5年で完成し水力発電などに利用され日本初の電気鉄道(伏見線)を開通させるなど京都の近代化に大きな役割を果たしました。当時は我が国の重大な工事は全てを外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業でした。

小関峠越ルート 琵琶湖疎水第1トンネル西口 琵琶湖疎水(第一疎水)
疎水沿いの道をチャリチャリ・・・ 諸羽トンネル東口と舟溜まり場 京阪京津線・四ノ宮駅
音羽山〜牛尾山〜醍醐山
諸羽トンネル西口 春を告げる菜の花が咲く琵琶湖疎水沿いの遊歩道
JR京都線(東海道本線) 琵琶湖疎水(第一疎水) 琵琶湖疎水の第2トンネル東口洞門
琵琶湖疎水の第2トンネル西口洞門 名号碑 題目碑
義経所縁の地蔵尊(義経大日如来(粟田口)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)

金売吉次に伴われ奥州への旅立つ途中、粟田口を過ぎ九条山の坂にさしかかった時、馬に乗った関原与市と従者9人の武士が、水溜りの泥水を蹴りかけました。咎めた牛若丸と争いになり相手が平家の武士と聞いた牛若丸は激怒し9人を切り倒したが不憫に思い、9体の地蔵尊を安置し菩提を弔いました。日ノ岡峠を境として山科よりを九体町と言い、斬り倒された関原与市ら9人の菩提を弔う為に牛若丸が石仏9体を安置したのが地名の由来と伝え、蹴り上げた場所は蹴上(けあげ)という地名として残っています。9体の石仏のうち6体は所在不明ですが、3体は街道筋に残されていると伝え義経大日如来(疎水公園)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)の3体だと思われます。

京津国道改良工事紀念碑 延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵) 九条山〜蹴上へ・・・@日ノ岡峠
蹴上インクライン

第1、第2琵琶湖疎水が合流する蹴上の船留から岡崎動物園前の船留まで1/15という急勾配でこの間約600mだけ斜面にレールを敷き運輪船を乗せた四輪付き船台の鋼索を電力で上下に動かしました。この斜面をインクラインと言います。

この中の一体が義経が祀ったと伝える 琵琶湖疎水第3トンネル西口 蹴上インクライン
義経大日如来(疎水公園) 蹴上インクライン
平安神宮

明治28年(1895年)、平安遷都1100年を記念し桓武天皇、孝明天皇を祭神として創建された旧官幣社で京都市民の氏神として崇敬されています。社殿は大内裏の約2/3に縮小して模造されているのが特徴で平安京創建当時を偲ばせています。応天門は五間三戸、入母屋造り、丹塗りの勾欄を廻らした二層楼門で大極殿(拝殿)は入母屋造り、屋根は碧瓦葺とし棟の両端に燦然たる金色の鵄尾(しび)を載せ中央身屋(もや)の四周に廂間(ひさしのま)を備えます。大内裏八省院の正殿大極殿を模したとされ52本の朱塗りの円柱が整然と列立する様は壮観で本殿は東西に並ぶ二棟の社殿からなり右に桓武天皇、左に孝明天皇を祀り檜の白木造りで四周に透塀を廻らせています。

京都市動物園@岡崎 京都一の大鳥居@平安神宮 応天門
大極殿、白虎楼、蒼竜楼

天皇が南向して座す為に建築物も南に構え大極殿を中央にして右に白虎楼、左に蒼龍楼、大極殿の奥には内拝殿、本殿があり前庭には右近の橘、左近の桜が植えられています。紫宸殿の前庭の右近衛兵が控える場所に橘、左近衛兵の控える場所に梅が仁明天皇の御世から桜に替ったとされ右近、左近の木々が示す裏が禁裏と云い、その奥が内裏とされます。

ここにも小町が! (♯^▽^♯) えへっ 白虎楼 大極殿
蒼竜楼 境内 寛政の三奇人と言われた高山彦九郎像
三条大橋 南座@四条通り 条大橋
塚本社跡

藤森神社の本殿内に合祀されている塚本社の旧鎮座地は、東山区本町通り16丁目で民家の裏側にあります。塚本とは、古墳の下方をいい、広くその付近をいう。古墳を信仰形態化し神として祀ったのが、塚本社です。藤森神社の縁起によれば延暦4年(785年)、廃太子早良親王(さわらしんのう)を崇道天皇と称し塚本の地に斎き祀るとあり当地は早良親王を祀る神社とされますが伝説に過ぎず平安時代に流行った御霊信仰によって崇道天皇を祀ったとされます。後に淡路廃帝(淳仁天皇)、九条廃帝(仲恭天皇)を祀るとも言われたが、いずれも廃太子、廃帝によせた庶民の同情心にかかる伝承を生み出し御霊は後に御陵となり廃帝の御陵と言われ現在、陵墓参考地に指定されています。

塚本社跡(陵墓参考地) 伏見稲荷大社(神幸道:裏参道)

Pちゃん大好物のポテトetcゲット!欧米か?!(爆)

Tourist  2007.03.19(M)

 

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