祭の歴史

 

御香宮神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、古来「伏見祭」と称せられ洛南最大の祭礼とされています。

昔、神輿は伏見九郷の各々一郷から1基づつで全9基ありましたが、現在は二代将軍・徳川秀忠が娘・千姫の誕生を祝い

寄進したと言われる千姫神輿と氏子が、寄進した3基の神輿(現在も橘会、礼場会、六地蔵組によって各々3基の

神輿巡行されています)があります。御香宮神幸祭では、風流傘拍子物があり伏見では、別名「風流花傘祭」とも

言われています。昔、伏見九郷の村人達が風流傘を互いに競ったものが、現在に至り、御香宮神幸祭を

「風流花傘祭」と言われる所縁になり独特の囃子言葉「あ〜ら、うんよいよい!あ〜ら、うんとまかせ!」で

各町内〜御香宮迄を練り歩き厄を花傘に集め花傘を振る事で厄を振り払う厄払いの神事だと言われています。

伏見祭クライマックスの神輿巡行

 

鳳輦(ほうれん:神輿の原型)の原型?(平城宮跡資料館)

神霊降臨の座・神輿の歴史

神輿の始まりは、天子や高僧が乗る中国の輿が起源と伝えます。神の乗り物として天平勝寶元年(749年)、東大寺の大仏建立に際し造営の無事を祈願する為に九州の宇佐八幡宮大神を奉遷した時、紫色の輿が用いられたと「続日本書記:考謙天皇の条」に記されているのが最初です。この時に用いられた輿は屋根に鳳凰を飾った天皇・皇后の乗る鳳輦(ほうれん)で神輿の原型と言われます。祭とは、一説に「たてまつる」の意味があると言われ「まつ」には神意が告げられるのを「待つ」という意味も含まれ、捧げ物をして神に降臨して頂き、降臨した神に心から感謝を捧げたり神意を伺ったりする人々の願いを聞いて頂く儀式と言えます。古来、日本人は祭によって神と交わろうとしたのです。そして、降臨した神が乗るのが神輿で御霊信仰が盛んになった平安中期に神輿が一番多く用いられ、神輿の普及は神幸祭の一般化によって全国に広まったのが、世の中が平穏になった江戸時代です。神社(本殿)から神輿を担いでお旅所へ祭場を替えたり神社氏子の属する共同体を練り歩き神霊の説話に基く道筋を辿る事を御神幸と言います。日本古来の神座と言えば神の依代と呼ばれる榊や幣帛(へいはく)で依代や他の御神体を輿に乗せて神霊降臨の座としました。二つの神輿を用いた祭礼は平安時代、比叡山日吉大社の神事に始まると伝えられ、熊野速玉大社に足利期(室町時代)の原型に近い神輿があります。

 

厄を祓う風流(ふりゅう)花傘

祭礼の風流(ふりゅう)

「風流」とは、趣向を凝らした風情のある作り物や意匠を意味する祭礼の作り物、お練物などの総称で「風流」の文字は「万葉集」などでは「雅」と訓じ、「情け」、「すき心」などを意味しました。平安時代には「風流」という心を意匠化した風情ある作り物や和歌、漢詩、物語などの本意を表現する美意識に対する語とされました。以降、この意匠は祭礼や芸能などの場で華やかさを発揮し平安時代、加茂祭(葵祭)の行列警護にあたった人達が衣装や冠に時節の花を飾り、見物する物見事の簾には風情のある飾りが競って付けられました。室町時代になって神輿渡御を中心とする神事に「風流」が新たに追加されて輿された行事で祇園会(祇園祭)などで初め、貴族達の出す馬長稚児の「風流」や花傘が競われましたが、町衆が中心になって作り物の山や鉾を曳き回すようになったと伝えます。人に害をなす悪霊を追い払う為に美しい神座を設け、そこに招き寄せて音楽や歌などで囃子たてて他所に追放するという民俗風習に「風流」が結びついて悪霊や御霊を追い払う為の祭礼として民衆の中に深く浸透したと考えられます。室町時代に伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王の「看聞御記:かんもんぎょき」に祭礼の事が詳しく記されているように伏見の各地に残る祭礼で、今も引き継がれる花傘を始め山車や鉾など華やかな意匠を競うものは「風流」を引き継ぐ祭礼です。

 

風流花傘パレード by花傘日本一!!!伝説の『風衆会ハムチャンズ

 

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