錦秋のうずらの里・伏見深草石仏めぐり

 

年を経て 住み越し里を 出でていなば いとど深草 野とやなりやん 在原業平

 

大黒寺〜深草十二帝陵〜真宗院〜嘉祥寺〜瑞光寺(元政庵:極楽寺薬師堂跡)〜宝塔寺〜ぬりこべ地蔵尊〜石峰寺〜茶碗子の水

 

伏見深草・稲荷山迷宮めぐり・・・

大黒寺(大黒天/開運・出世の神)

創建は不明ですが真如法親王の開基による名刹で当初は円通山長福寺と号しました。江戸時代の元和元年(1615年)、薩摩藩主・島津義弘が伏見奉行・山口駿河守に懇請し薩摩藩の祈祷所となりました。本尊は五穀豊穣の神で出世開運を授けると云われる大変にありがたい大黒天です。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負(ゆきえ)の墓所があります。

大黒寺 駒札 伏見名水「金運清水」
薩摩九烈士の墓と西郷隆盛筆の墓碑(右手前) 平田靱負(ゆきえ)の墓所 おさすり大黒さん (#^.^#)
秘仏・大黒天を祀る本堂 酒蔵@濠川 琵琶湖疎水右岸を北上・・・
藤森古天王(皇)社、沓塚(くつづか)陵墓参考地

藤森古天王(皇)社・・・塚本社が藤森に移された所で古来は小天皇真幡寸(まはたぎ)神社と称されましたが応仁の乱で焼滅しました。文明2年(1470年:一説に永享10年)に現在の藤森神社に合祀されました。現在、お旅所とは、名ばかりで廃滅寸前の小祠があるだけです。沓塚陵墓参考地・・・一堆の円墳からなり墳上に松の木を植え文化5年(1808年)春、醍醐寺の侍臣・桜井忠亮の書になる「理源大師沓塚」と記した石碑がある。理源大師聖宝は初め、貞観寺の僧正・真雅の弟子となり後に子院・普明寺に院栖し、延喜9年(909年)7月6日、78歳で入寂しました。当地は普明寺の旧跡と伝わり塚は、理源大師聖宝の墓とされ深草地方に散在する沓塚、行者塚、松塚の1つで現在は陵墓参考地となっています。一説には、理源大師聖宝の遺体が天空に飛んで消え残された沓を身代わりに埋葬して墓所とした為に沓塚と称するとの伝説もあります。

藤森古天王(皇)社 沓塚(くつづか)陵墓参考地 深草十二帝陵(深草北陵)
深草十二帝陵(深草北陵)、真宗(しんじゅ)院

深草十二帝陵(深草北陵)・・・深草北陵とも呼ばれ、陵内に後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町〔おほぎまち〕、後陽成の十二帝、栄仁〔よしひと〕親王のご遺骨を泰安しています。鎌倉〜桃山時代にかけての天皇で多くの天皇が、一ヶ所に奉葬されたところに当時の皇室の衰退を物語っています。真宗(しんじゅ)院・・・浄土宗西山深草派・根本山と号し、後深草天皇の発願により宝治年間(1247〜1249年)に円空立信によって建立されました。当時の寺領は後の深草北陵も含み後嵯峨上皇から山門、経蔵などが寄進され後深草天皇が亡くなられると境内の法華堂に納骨され深草北陵(十二帝陵)の始まりとなりました。安政7年(1778年)、伏見義民では文殊九助ら36人が真宗院に集まり将軍(幕府)への直訴が決議されました。裏山の墓地には日本初の人体解剖を行い、その成果を「蔵志」として著した山脇東洋の墓所があります。

深草十二帝陵(深草北陵 真宗院 参道
東方薬師如来像 本堂 嘉祥寺
解説 十二帝供養塔
嘉祥寺(かしょうじ)

嘉祥寺は天台宗の寺院で、本堂に歓喜天、別名は 聖天を祀ることから「深草聖天」とも称され往時は七僧を置き、朝廷の御願を修する寺院であったと伝わり、貞観3年には西の院、清和天皇の御代には嘉祥寺西院でもって貞観寺を建立、その後の光考天皇の頃には五種の塔を建てたと記録が残るほど、南北に500mにも及ぶ境内を有する大きな寺院であったと伝わりますが「応仁の乱」により堂宇は殆どが焼滅し荒廃しました。現在の嘉祥寺は江戸時代の寛文2年(1662年)に、大僧正空心が、安楽行院の再興にあたり、 聖天像を祀る堂宇を建立し、安楽行院嘉祥寺 と号したことに始まります。 境内にある大きな石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝わります。

境内と本堂 元政上人(げんせいしょうにん)旧跡 駒札
深草一風情がある・・・瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

当地は極楽寺の薬師堂跡と伝わり、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われます。この石標は元政の旧跡瑞光寺を示すものである。元政(1623〜68年)は、彦根藩士であったが出家、詩人として有名になりました。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものです。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努められた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

山門 茅葺の本堂 宝塔寺総門(四脚門:重要文化財:室町期)
宝塔寺(ほうとうじ)

縁起は藤原氏の極楽寺に迄遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院ででしたが突如として、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝わります。徳治2年(1307年)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門(重要文化財:室町期)、本堂(京都府指定文化財:桃山期)、多宝塔(重要文化財:室町期)は文化財を有します。

駒札 日像荼毘処 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
仁王門 牡丹の天井画 本堂(重要文化財:桃山期)
多宝塔(重要文化財:室町期) 客殿 七面社参道
七面社参道と日像上人廟 七面社
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜 (@^▽^@) 京都市深草墓園
ぬりこべ地蔵尊

明治3年(1870年)の深草村絵図に、この場所は「ヌリコベ墓」と記されており、江戸時代から信仰があったようです。由来は、歯の痛みを封じ込める意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になったとも伝えます。現在も歯の治癒を願って参詣者は絶えません。

えぇなぁ〜 (@^▽^@) ぬりこべ地蔵尊 石峰寺参道
石峰寺

石峰寺は百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将・源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝わります。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって建立された禅道場です。江戸中期、創建時は諸堂も有する大寺院でしたが、大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみです。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生〜涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現し諸菩薩、羅漢を一山に安置しています。長年の風雨を得て丸み、苔寂びて風化に伴う表情や姿態に一段と趣きを深めています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝わります。

解説 赤門(竜宮造り) 深草俯瞰
赤門(竜宮造り) 鈴鹿野風呂の歌碑
境内の参道脇に咲く可憐な花々・・・えぇなぁ〜(@^▽^@)
伊藤若沖墓所 えぇなぁ〜(@^▽^@)
改修中の赤門(竜宮造り) 釈迦誕生 十八羅漢
説法(釈迦・文殊・普賢) 諸羅漢坐禅窟
えぇなぁ〜(@^▽^@) 賽(さい)の河原 えぇなぁ〜(@^▽^@)
石仏(羅漢)群 耒迎諸菩薩 えぇなぁ〜(@^▽^@)
伊藤若沖が下絵を描いたユーモラスな石仏(羅漢)群
じゃ〜またね〜 (@^^)/~~~(釈迦誕生) 卒塔婆石塔 えぇなぁ〜(@^▽^@)
薬師如来を安置する本堂 茶碗子の水 解説

Tourist  2007.11.26(M)

  

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