平安迷宮案内「洛中」

 

イニシエの 宮の内野の 原をみて 袖さへ濡るる 道芝の露 (老のすさみ)宗祇

 

晴明神社〜首途(かどで)八幡宮〜本隆寺〜千本閻魔堂(引接寺:いんじょうじ)〜上七軒〜北野天満宮〜平安京遺跡など

 

平安時代の上京

平安時代の上京は、平安京の重要施設が集中した平安宮があり、貴族の邸宅も建ち並んでいました。平安宮には、国家的な儀式を行った朝堂院や饗宴の場であった豊楽院、そして天皇の住居だった内裏があり、周辺には「源氏物語」の舞台になったとも言われる一条院や藤原頼通の高陽院がありました。一方、平安京を一歩外に出ると異界の地です。引接寺(千本閻魔堂)、大報恩寺(千本釈迦堂)、北野天満宮などの社寺が周囲をとりまいています。平安時代の上京は、政治、文化の中心と周縁の異界の地がありました。

竹田街道を北進・・・近鉄京都線を通過 かつて銭取り橋と呼ばれた勧進橋
JR東海道線に架かる塩小路跨線橋 東海道新幹線(ひかり号300系) 京の玄関口・JR京都駅
渉成園(しょうせいえん/枳殻邸:きこくてい) 解説 信長が光秀に討たれた本能寺跡
一条戻橋

名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時、蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜更け、この橋の畔で容貌美しい女に出会った。夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。切り落とした腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとも伝える。これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。また戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮・建礼門院の出産の時に、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。この時、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(安徳天皇)の将来を予言する歌を唄ったと伝える。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。戦国時代、細川晴元により三好長慶の家臣・和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首された。また秀吉のキリスト教禁教令の元、慶長2年(1597年)には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地・長崎へと向かわされた。ただし、利休の首は「聚楽大橋」のたもとに曝されたとの記録もあり、この頃に戻り橋の名は聚楽大橋すなわち現在の中立売橋に移転されていたと考えられている。徳川和子の入内行列が中立売橋を渡る際、幕府は戻り橋の名を嫌って「万年橋」と改名したが、京童の間には定着しなかったが、やはり戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避け、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと伝えます。

堀川通り 一條戻橋 解説
陰陽師・安部晴明を祀る晴明神社

平安時代中期の陰陽師・安部晴明を祭神とし倉稲魂命(うがのみたま)を合祀します。安部晴明は平安時代中期、花山天皇、一条天皇に仕えた陰陽師で物事の吉凶を占うなど両天皇、藤原道長に重宝され活躍しました。天文学に通じ暦算、ト占、推歩の術を極め一条天皇の御代に天文博士となりました。かって、花山天皇が密に宮中を逃れ出て山科花山の元慶寺で出家された時、晴明は自宅で天の星座の急変を知り、天子位の去るの象であると急ぎ参内し伝えたと言います。また、式神(職神)を自由に駆使して人を驚かせたなど伝説が多く残ります。当地は安部晴明の屋敷跡と伝え、寛弘2年(1005年)、晴明が74才で没した2年後の寛弘4年(1007年)、一条天皇の勅願により屋敷跡に晴明神社を創建され安部神道は、朝廷の庇護を受け子孫は永く栄えました。境内には晴明の念持力で湧出したと伝える晴明井があり、病気の治癒平癒にご利益があると言われます。境内、社殿などに魔除けの力があるという晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)があしらわれています。

陰陽師・安部晴明を祀る晴明神社 ミニチュア版一条戻橋と式神像
晴明神社(安部晴明屋敷跡) 千利休聚楽屋敷跡 晴明桔梗紋(五芒星、セーマン)の晴明井
解説 社紋の晴明桔梗紋(五芒星、セーマン)ゆかりの桔梗 えぇなぁ〜 (@^▽^@)
名和長年(なわながとし)戦没遺跡

南北朝時代の伯耆(鳥取県)の武将・名和長年は、隠岐から脱出された後醍醐天皇を船上山に迎えて敵軍と戦い、京都への還御を支えました。後醍醐天皇の建武中興政治にかかわりますが、延元元年(1336年)、京都を制圧した足利尊氏の軍勢と戦って戦死しました。明治19年に「贈正三位名和君遺蹟碑」が建てられ、正一位の贈位により前記の記念碑が有馬良橘大将の筆で昭和の戦前に新設された。

厄除桃 晴明桔梗紋(五芒星)が刻された拝殿 名和長年戦没地
名和長年戦没地碑 舟橋 解説
牛若丸ゆかりの首途(かどで)八幡宮

社壇が地表より一際高くなっているのは、古墳を利用したと考えられています。当社は内野八幡宮とも言い、祭神は応神天皇を祀ります。当地は古来、奥州の金売橘(吉)次の屋敷跡と伝え当社は邸内にあった鎮守社と伝えます。承安4年(1147年)3月、橘(吉)次が牛若丸を誘って奥州平泉へ発足したのは、ここからと伝え因んで社名を首途八幡宮と言います。社名の首途(かどで)とは「門出:かどで=出発」を意味し、旅立ちや旅行の安全の信仰を集めます。尚、桜井町と言うのは、室町時代の文明中、桜井基佐(もとすけ)が当地に屋敷を構えていたからで、基佐は水仙と称し宗祇法師に従って連歌や和歌に堪能で「基佐家集」を著しました。

西陣碑 牛若丸ゆかりの首途八幡宮 「源義経奥州首途之地」碑
解説 古墳を利用したと考えられる社壇の小丘 本殿
不焼寺と称する本隆寺、千代野井、夜泣止の松

本隆寺・・・彗光寺と号し日真上人の開創する法華宗門真流の本山です。日真上人は室町中期の人で中山大納言親通の子と言われ幼にして妙境寺日全の門に入り、長じて妙顕寺の日具上人を師として大いに研鑽に努めたが、長享2年(1685年)、師と意見を異にし本述勝劣を主張して妙顕寺より独立しました。初め、六角西洞院にあったが翌年、四条坊城に移って寺基を固めました。その著「三大部」、「法華論」の科註は後柏原天皇の叡感を蒙り、寺も次第に隆盛したが天文5年(1536年)の法難で叡山の焼き討ちに遭いました。一時、泉州堺に非難したが天文11年(1542年)、現在地に再建されました。現在の堂宇は享保、天明両度の大火に類焼し文化以後の建物ですが、本堂のみ、その災を免れたのは本堂に安置する鬼子母神の霊験によるものと言われました。これに因んで当寺を一に不焼寺と称します。千代野井・・・ここは元、尼寺五山の一であった景愛寺の旧跡と伝え、無外如大尼(千代野姫)が満月の夜、井戸の水を汲まんとして桶の底が抜け、月影が水と共に消えた事から卒然と悟道に入ったと伝えます。夜泣止の松・・・当寺の日脩上人は幼児の頃に弟子入りしたが、毎夜夜泣をして住僧を困らせたので住僧がこの松の周囲を題目を唱えて廻るとたちまちに泣き止んだと伝えます。因んで松の木皮、松葉を枕の下に敷くと子供の夜泣が止むとの俗言があります。

本隆寺南門 本堂 千代野井
祖師堂 夜泣止の松 解説
千本閻魔堂(引接寺:いんじょうじ)

光明山と号する古義真言宗高野山金剛寺に属する寺で閻魔王を祀る事から世に「千本閻魔堂」と言います。後一条天皇の寛仁年中、定覚律師が法界四生の為に大念仏を始めたのが当寺の起こりと伝えますが、明らかではありません。初め、真言宗に属しかっては付近の上品蓮台寺や大報恩寺に属した事もありましたが現在は独立寺院で、昔は方一町に亘る寺域を占めたと伝えます。平安時代、死者の埋葬が洛中で禁じられていた為、洛外との境界に当たるこの地で供養されたとも伝え、境内奥にある紫式部供養塔は国の重要文化財に指定されています。春の京都三大念佛狂言の一「ゑんま堂狂言」、夏の盂蘭盆会の精霊迎えなどで市民に親しまれる古刹です。本堂(閻魔堂)内に萬倍碗と言われる閻魔王の湯呑茶碗が鐘の上に置かれています。浄財(賽銭)が湯呑茶碗の中に入ると、ご利益が1万倍だとか?!(@_@;)・・・

機織の音が聞こえる西陣の町 千本ゑんま堂(引接寺)
本堂(閻魔堂) 十六羅漢の一・おびんずる様(撫で仏)
閻魔法王の湯飲み茶碗「萬倍碗」 閻魔法王 紫式部供養塔
苦抜地蔵とも呼ばれる釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ)

家隆山光明遍石像寺と号し、弘仁10年(819年)に弘法大師によって開創されたと伝える浄土宗百万遍知恩寺に属します。本堂に安置する石造地蔵菩薩像は、諸々の苦しみを抜き取るという事から苦抜地蔵と言い、転訛して釘抜地蔵と言われます。寺伝によると室町末期の弘治年間、油小路上長者町の紀ノ国屋道林という京都で有数の大商人が両手の痛みに耐えかねて、この地蔵尊に祈願したところ、満願の夜、夢中に地蔵尊が現れ「汝の痛みは前世に人を怨み人形の両手に八寸の釘を打ち込んで呪った罪障によるものである。よってその釘を抜き取って苦痛を救うてとらせよう・・・」と言って2本の釘を示すと思えば夢が覚め、両手の痛みは既になかったと伝えます。以来、諸病平癒を祈願する者は、全て体に釘が刺さったと言って祈ると霊験があるとされ、御礼に釘と釘抜を小絵馬にして奉納する慣しがあります。当寺の創建由緒は定かでなく、家隆山と号するのは、元、当地に歌人・藤原家隆が住まいしていたと言われるが、根拠がありません。おそらく千本蓮台野墓地に至る沿道の地蔵堂として祀られていたと思われます。

先祖の精霊を迎える為に水塔婆を流す池 釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ) 中門
解説 釘抜地蔵堂の壁には、お礼に奉納された釘と釘抜の小絵馬がビッシリ・・・
千本釈迦堂(大報恩寺:だいほうおんじ)

瑞応山と号する新義真言宗智山派の寺で釈迦如来像を安置する事から世に「千本釈迦堂」と言い、昔は嵯峨釈迦堂(清涼寺)と並んで釈迦如来信仰の中心をなしました。「本朝高僧伝」巻65に記す「京兆大報恩寺沙門義空伝」によると当寺の開山求法上人義空は、羽州の生まれで藤原秀衝(ひでひら)の遠孫に当たると言われ父は、忠明と言い母は薬師如来に祈って日輪を呑む夢を見て上人を生んだと伝えます。幼少より学問を好み鎌倉に出て修行し次いで、比叡山に登って澄憲法師に謁し天台密教を会得しました。常に石清水、北野、天王寺に詣で、仏法相応の霊地を得ん事を祈りました、たまたま、猫間中納言光隆卿の家卒・岸高なる人が千本の地を捨てて上人に寄進したので、ここに小堂を構え、一仏十弟子像を安置したのが承久3年(1221年)で当寺の起こりと伝えます。次いで貞応2年(1223年)、大堂を建てんと欲したが、大黒柱がないので大工達は、手をこまねいて、いかんとする事もできませんでした。ところが、摂津尼崎に浄金(成金)という材木商がいて、ある夜の夢に金色白眉の老僧が現れ、洛北に一つの精舎が建てられているがついては、お前が所蔵する巨材を心柱にしたいから是非、売ってくれと言いました。浄金がその申し出に応じたところ「大報恩寺」なる印を木頭に刻んだ。と思うと夢が覚め、見ると材木に印文が燦然と記されていたので大いに感嘆しました。早速、京都に上って大報恩寺を訪ねると堂内に安置する釈迦尊者像が夢見にした老荘でした。浄金は早速、材木を提供したので大堂も不日に完成したと伝えます。初め、倶舎、天台、真言三宗弘通の霊場として往時は堂塔伽藍も完備し壮麗を極めましたが、中世の兵乱によって多くを焼亡しましたが、鎌倉初期に建てられた本堂(釈迦堂)は、応仁の乱、大永の乱、享保の大火でも奇跡的に災を免れ、京都市における現存最古の木造建築物として国宝に指定されています。境内には本堂建立の際に、棟梁の長井飛騨守・高次に内助の功を尽くした妻・阿亀(おかめ)を供養する「おかめ塚」があり、2月の節分に男女共に紅白のおかめ装束に扮する「おかめ節分」は世に有名です。12月7、8日に行われる厄除けの大根焚き(だいこだき)は、多数の参詣者で賑わいます。

阿弥陀三尊石仏(重文:鎌倉期)堂 千本釈迦堂(大報恩寺) 解説
京都七福神の布袋尊 阿亀さま・・・いつ拝見しても (@^.^@) えへっ 解説
観音堂 陶器の出店が並ぶ参道 京都市内現存最古の本堂(国宝:鎌倉期)
本堂(国宝:鎌倉期) 柱に残る応仁の乱の刀、槍の傷跡 解説
京都最古の花街・上七軒(かみしちけん)

祇園を初め幾つかの花街がありますが、上七軒は最も古く、室町時代に北野天満宮造営に使った残木で七軒の水茶屋を建てたのが起こりと伝えます。豊臣秀吉が北野で大茶湯をした時、七軒茶屋に立ち寄ったところ、お茶屋の者が御手洗団子(みたらしだんご)を献じたので、その賞とて山城一円の茶屋株(遊女屋)の特許を与えたと伝えます。江戸時代、北野天満宮の参拝者を対象とし大いに栄えましたが、後に遊女屋渡世の者が内野五番町に出店を出すに及んで漸次、芸妓を主とするに至りました。特に西陣を近くに控えているので顧客は、専ら西陣の機業家を主とし、他の花街と比して比較的地味、古風が特色です。昭和35年に於いてお茶屋は32軒、芸妓は40名弱でした。今でも10軒のお茶屋と飲食店が軒を連ねて往時の面影が残っています。毎年春(4/15〜4/25)には「北野をどり」、秋には「寿会」が上七軒歌舞練場(北野会館)で催されます。

京都最古の花街・上七軒 風情が・・・花街の風情も えぇなぁ〜 (@^▽^@)
北野天満宮

菅原道真を祭神とする旧官幣中社で北野神社、北野天神とも呼ばれ境内には50種約2000本の梅が植えられ例年2月初旬〜梅苑が公開されます。創建はすこぶる古く、天慶5年(942年)に神霊を勧請し天満天神として崇めたのに始まり藤原師輔(もろすけ)は神殿を造営し神宝を献じ永延元年(987年)、一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得て二十二社の幣例に加えられました。道真は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍しました。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸多く、奉幣祈願の絶える事なく江戸時代には文道の大祖・風月の本主と崇められ全国各地に神霊を勧請し分社が建立され「北野の天神さん」と親しまれ「東寺の弘法さん」と共に市民に崇敬されています。

北野天満宮 豊公北野大茶湯の跡 太閤井戸
文道の大祖・風月の本主の額を掲げる楼門 解説 参道
鼻穴(笑くぼ)に小石を乗せて、落ちずに乗った石を財布に入れると縁起良しと云う大黒組灯籠・・・(^◇^;)
「平家物語」ゆかりの綱灯籠

渡辺綱が、寄進したと伝える鎌倉時代中期の灯籠。綱灯篭には、次のような伝説がある。「平家物語」(屋代本)剣巻に、渡辺綱が夜更けに主の使いで道を急いでいた時、一条戻り橋で、美しい女御に出会った。女御に夜も更けたので送って欲しいと頼まれ一緒に馬に乗せた。ところが五条渡し場辺りで美しい女御は、たちまち恐ろしい鬼女となり、綱の髻をつかんで空中に舞い上がった。綱はとっさに刀を抜き、髻をつかんでいる鬼女の腕を切り落とした。そのまま空中に放り出された綱が落下したのが、北野天満宮回廊の屋根上・・・命拾いをした綱は、道真公の御加護として石灯籠を寄進したと記されます。

豊臣秀頼が再建した中門(三光門) 手水「梅香水」 綱灯篭
連歌井 檜皮葺の本殿(国宝:桃山期) 観音寺
忌明(いみあけ)塔 蜘蛛塚と金売橘(吉)次の墓と伝える五輪塔 解説
初雪の日に神が降臨すると伝える影向松 北野天満宮@今出川通り 京都市電北野線記念碑
造酒司は、宮内省に所属した官衙で平安宮(大内裏)内に所在したと伝え、酒、酢などを製造して朝廷の儀式、饗宴に供しました。
解説 豊楽殿は、平安京大内裏のあった外国使節入朝時等の国家的な饗宴が行われた所
朝堂院跡(宣政門跡:せんせいもんあと)

大内裏は桓武天皇が国家統治の理念から心血を注いで造営され大内裏の中心である朝堂院は八省院とも言われ、元来は八省の官人達の執務場所とされ周囲は複廊で囲まれ南の正門、応天門を入ると東西に朝集堂の建物が建っていました。出仕時、官人達が集まった場所で、更に北の会昌門を入ると、十二堂が左右対称に建ち並んでいました。昌福堂、含章堂、承光堂、明礼堂、延休堂、含嘉堂、顕章堂、延禄堂が東西に向かい合い、南北に暉章堂、康楽堂、修式堂、永寧堂の四堂がありました。朝堂院の正面奥に建つのが大極殿、東西十一間、南北五間、両翼に蒼龍、白虎の二楼を持つ建物でした。その後、国家体制が大きくなるにつれ、職掌ごとの官衙が求められ、それら独立官衙が朝堂院の周囲に群立するようになります。それに伴って朝堂院の持つ朝政の場としての性格は薄れ平安時代には、天皇の即位や外国使節の謁見など国家的儀式や行事の場所となりました。

解説 朝堂院跡(宣政門跡:せんせいもんあと) 解説
大極殿遺址碑(だいごくでんいしひ)

大極殿は大内裏朝堂院の正殿で、天皇の即位など国儀大礼が行われる最も重要な建物で結構な壮麗を極め今の平安神宮の拝殿は大極殿を模造しましたが、その規模は当時の約2/3に過ぎず、その広壮たる威容、輪奐の美は想像に絶するものがあります。貞観13年(871年)に大極殿が焼失し天徳4年(960年)に内裏が焼亡して以来、15回も焼亡し、その都度、天皇は貴族の邸宅に移り住みました。これを里内裏と言います。安貞元年(1227年)の内裏焼失以降、内裏は再建されなくなり里内裏が政治の中心となったので内裏一帯は荒廃し、「内裏があった野」という意味で「内野」と呼ばれました。大極殿の正確な位置は明らかにされませんが明治28年(1895年)、平安遷都千百年紀念祭にあたり湯本文彦氏が平安京の実測を行って千本丸太町付近と比定しました。近年、この位置より南東で遺跡が見つかっています。

大極殿跡に建つ大極殿遺址碑 解説 頼政が鵺を射止めた鏃(やじり)を洗ったと伝える鵺池
源三位頼政の鵺退治伝説

高倉天皇(一説に近衛天皇)在位の時、御不予の事があって丑の刻(午前2時)頃になると東三条の森の方から一叢の黒雲が湧き上がり御殿の上を覆うとみるや、怪しげな鳥の鳴き声がし、それを聞かれると天皇は、ひどく怯え給うた。よってこの怪物を退治すべき勅命が頼政に下されたので彼は家来の猪早太(いのはやた)と供に殿中にて待受け、見事に鵺を射止めて天皇の御脳を癒し奉った・・・と伝えます。この怪鳥は、頭が猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿で鳴き声は鵺に似ていたと言われ、この功により頼政は獅子王なる御劔を賜ったと伝えます。この伝説は「平家物語」巻四を始め「源平盛哀記」巻十六、「十訓抄」第十などにも詳しく記され、当時は、余ほど有名な話であったとされます。しかし、頼政在世の頃、天皇は多くの里内裏を御座所とされていたので、この池を以って直ちに頼政の鵺退治に付会するのは難しいともされます。

鵺池元碑 解説 鵺池新碑と鵺大明神小社
鵺大明神、玉姫大明神、朝日大明神社 京都所司代・板倉勝重屋、宗重敷跡 世界文化遺産・二条城東大手門
東南隅楼 新撰組屯所ゆかりの太鼓楼(西本願寺) 世界文化遺産・西本願寺(阿弥陀堂門)
新幹線、近鉄京都線@堀川通り

油小路通りを南進・・・

アイスクリンをゲット・・・(^◇^;)

Tourist  2007.7.9(M)

 

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