旧東海道本線(稲荷駅〜馬場:膳所駅〜大津駅)廃線跡探訪

 

国鉄最古の建物・ランプ小屋(稲荷駅)〜旧山科駅跡〜旧東海道本線逢坂山隋道東口〜浜大津駅(旧大津駅)・・旧東海道本線跡探訪

旧東海道本線

明治新政府は、維新後の不安定な社会情勢の下で富国強兵、殖産増強の国是を推進するために鉄道建設が急務と判断した。明治2年(1869年)11月、東京〜京都間の幹線。東京〜横浜間、琵琶湖〜敦賀間、京都〜神戸に至る鉄道建設を決定した。明治5年(1872年)9月12日(太陽暦:10月14日)、新橋〜横浜間開業を皮切りに明治7年(1874年)5月11日に大阪〜神戸間、明治10年(1877年)2月5日には大阪〜京都間の開業と順調に路線拡大していった。しかし、折から勃発した西南戦争の影響などで財政難に陥り、鉄道建設の一時中止を余儀なくされた。明治13年(1880年)7月14日、明治天皇臨御の元、開通式を挙行、翌15日に京都〜馬場(現・膳所駅)〜大津(現・京阪浜大津駅)全線が開通しました。そして最急行が走破するなど華やかな時代を迎えました。明治22年(1889年)、東海道本線・彦根駅、近江八幡駅を経由するルートが完成し、新橋〜神戸間が全線開通しました。大正10年(1923年)、現在の東海道本線のルートである京都〜膳所間が開通するまでは京都駅〜稲荷駅〜山科駅〜大谷駅〜馬場(膳所)駅が東海道本線のルートでした。この線区は非常に難工事(山間部を通過する初の鉄道でトンネルの掘削や丘陵部の切削、築堤など)を伴い、当時としては大掛かりな土木工事でしたが、それまで外国人に依存していた建設工事を全て日本人の手によって完成させました。急曲線、急勾配の連続に禍いされ大正4年(1917年)から路線変更工事が開始され現・東海道本線ルートが完成したと同時に廃線の運命を辿りました。

当時の旧東海道本線(京都駅〜稲荷駅〜大津駅)ルートマップ

(1/5万「京都南東部:T3.9.30発行」、「京都北東部:T3.9.30発行」)×0.5

旧東海道線で活躍したCタンク1800形蒸気機関車

明治13年(1880年)に開業した京都〜大津間の勾配区間用として輸入された蒸気機関車です。京都〜大津間の山科〜大谷間にあった5kmもの長い急勾配(※1)の為、日本政府の「汽車監察方」であったB.F.ライトが設計した当時のイギリス形タンク式機関車の典型的な姿を持つ機関車です。イギリスのリーズにあるキットソン社に発注され、明治14年(1881年)製造の8両中、3両は京都〜大津間、5両は明治16年(1883年)開通した長浜〜敦賀、関ヶ原間などの勾配区間で使用されました。その後、九州や東北各線の建設工事や、米原、長浜、新潟、大館、宇都宮、平、水戸などの各機関区に所属して活躍した後、大正末期〜昭和初期にかけて東京鉄道局管内に集結し、主に入換用として活躍しました。(※2)                                              ※1… 25‰(パーミル) 1,000mで25mの高低差を表し蒸気機関車の登坂能力のほぼ限界とされます。
※2… 1800形は明治14年(1881年)製造の8両と、明治29年(1896年)製造の5両(北越鉄道)で、全部で13両製造されました。

夢幻コラム【旧東海道本線(稲荷駅〜馬場:膳所駅〜大津駅)廃線跡探訪】は【旧東海道本線(稲荷駅〜馬場:膳所駅〜大津駅)チャリ探訪】をベースに加筆して作成しています。

鴨川橋梁を渡上り列車

奈良線の鴨川橋梁に残っていた石積みの橋脚

奈良線が複線化されるまで琵琶湖疏水に残っていたレンガ作りの橋脚跡

旧東海道本線跡と国鉄最古の建物・ランプ小屋

明治12年(1879年)8月18日、京都駅〜稲荷〜山科(勧修寺)〜大谷間13.1kmが仮営業され、翌13年6月28日には逢坂山トンネルが開通し、京都〜大津間が、開通。大正10年(1923年)東山トンネルができ、現路線に至るまで東海道線の路線でした。ランプ小屋は旧東海道本線の建物として唯一現存すると同時に国鉄最古の建物として貴重な遺構です。                                                                ※7日前までにJR西日本お客様センター(0570-00-2486)に予約 ※見学は無料だが、JR利用者以外は入場券(140円)が必要

JR稲荷駅(JR奈良線/旧東海道線) 国鉄最古の鉄道遺構・ランプ小屋 説明札
JR稲荷駅 JR奈良線(旧東海道本線) 茶碗子ノ水
かっては旧東海道本線だったJR奈良線 深草十二帝陵(深草北陵)

奈良線と旧東海道本線軌道跡航空写真(茶線が旧東海道本線軌道跡) ※昭和49年(1974年)
伏見唯一の瓦工房 旧東海道本線と奈良線分岐地点

旧東海道本線はこの辺りで東南(赤線)へ・・・旧線は架線柱と黄色の壁の家方向へ続いていた。

この公園が旧東海道本線跡

鐵路敷境界石(鉄道省) 稲荷駅方面
名神高速、山科方面 町内案内図に残る旧東海道本線跡(赤線)
稲荷駅方面から 山科方面へ@名神高速道路南5号トンネル 名神高速道路南5号トンネルから山科方面
旧東海道本線跡の道路 旧東海道本線は谷口町交差点から大岩街道(府道35号線)になっています・・・
旧東海道本線は谷口町交差点〜勧修寺まで大岩街道(府道35号線)になっています・・・ 勧修寺手前の峠辺りから名神高速道路へ吸収されている。
旧東海道本線は当時、大規模な築堤上を走っていたので、築堤の大部分が名神高速道路に再利用された・・・ 愛宕常夜灯と地蔵尊

今昔対比・旧東海道本線山科(勧修寺手前〜追分)ルートマップ

(1/5万「京都南東部:H6.1.1発行」、「京都北東部:H6.9.1発行」)×0.5

当時(大正5年/1916年)の山科駅 大規模な築堤上にあった山科駅に停車中の上り旅客列車
勧修寺 名神高速道路(旧東海道本線)を東へ・・・ 旧東海道本線・山科駅跡
旧東海道本線山科(勧修寺手前〜大谷)

当時の線路跡は道路に転用され、蒸気機関車が蛇行しながらあえぎあえぎ上っていった苦闘の跡を線形として、そのまま今に残す峠道(大岩街道/府道35号線)である。峠急勾配を下り旧山科駅に向かっていたが線路跡は昭和37年(1962年)に開通した名神高速道に路盤を譲っている。山科川を渡り名神山科バス停付近が旧山科駅で「旧山科駅跡」の石碑が立っている。旧山科駅は、京都方、大津方共に上り25/1000‰(パーミル)の急勾配を控える谷底のような所にあった。大津に向かってしばらく一直線に上がっていった旧線路跡は名神高速道に吸収される。奈良街道を超え大宅の一里塚〜追分にかけて再び緩やかなS字カーブが続き名神高速道から離れた西側の車道になっている。東海道新幹線をクロスオーバーする辺りに大正2年(1913年)に大塚信号所が設置された。かっての東海道と奈良街道の分岐地が追分。その追分の東で旧東海道の南側に名神高速道に挟まれた旧線路跡の緩くカーブした深い切り通し跡が約200m続いている。大津方で旧東海道を越えた橋梁辺りから再び、名神高速道に吸収され大谷駅まで狭い谷あいを京阪京津線、国道1号線と並走して上っていく。この大谷駅はこの区間の最高地点(181.6m)で逢坂山トンネル西側に位置していた。その西口杭門は名神高速道蝉丸トンネルの下18mに位置した・・・と石碑に記される。 

名神高速道路(旧東海道本線)を牛尾山〜醍醐山を眺めながら東へチャリチャリ・・・
大宅の一里塚を過ぎた辺りから旧東海道本線は名神高速道路北、西側の小山大宅線(新奈良街道)を緩やかなS字を描きながら走っていました。
緩やかに描くカーブが往時の鉄路を彷彿させる。 東海道新幹線〜妙見寺道辺りは山を切り開いた凹面に大塚信号所が設けられていた。
大塚信号所

東海道新幹線〜妙見寺道辺りは山を切り開いた凹面(複線)の切り通しでしたが、大正2年(1913年)に大塚信号所が設けられた。蒸気機関車の登坂能力のほぼ限界とされる25/1000‰(パーミル)という急勾配の上、明治44年(1911年)複線化している区間に信号所を設けるのは稀で、信号所は上下線間の渡り線、上り勾配側(上り線)後方に引き上げ線という構造ですが、大塚辺りは山裾野が迫る地形から引き上げ線は谷側に引き出されたので妙見寺前の石鳥居奥に信号所引き上げ線遺構と伝える僅かなレンガ積みを見る事ができる。通常の運行で大塚信号所に停車する列車はなく、引き上げ線はあくまで予備的施設で複線化によって輸送能力を増す為に列車本数増加に伴って閉塞区間を短縮し線路容量増大の為に信号所が設けられたが、旧山科駅〜大谷にかけての約5.5kmも連続する25/1000‰(パーミル)の急勾配区間の途中で給水・石炭施設を必要とした?機関車の方向転換?後補機関車の準備?など諸説もある。大正10年(1921年)、京都〜大津間の路線変更に伴って廃線となり消滅した。・・・信号所とは構内に分岐器(ポイント)や信号設備が設けられて運転扱いが行なわれるが、原則として旅客の乗降を取扱わない停車場のことである。乗降を扱う駅ではなく信号場として設置される理由として隣駅に近すぎること、利用客が見込めないこと、用地が不足すること、その他の運転上の理由があることなどがある。また、信号場が設置される類型として主に次のものがあげられるが複数の類型が複合しているもの、スイッチバック構造となっているものも存在している。(Wikipedia)

  1. 線路の分岐点に設けられるもの

  2. 単線区間において列車の行違い(交換)のために設けられるもの

  3. 単線区間と複線区間、および複線区間と複々線区間(三線区間などを含む)の接点に設けられるもの

  4. 複線区間において、列車の追い抜きのために設けられるもの

  5. 単線区間であり単線自動閉塞方式以外の閉塞方式の場合において、閉塞の境界をつくるために設けられるもの。

  6. 複線区間において、橋の架け替えやトンネル改修のため、上下のうち片方の線路を使用停止してもう片方だけを使用するために設けられたもの(単線と複線の境目ではなく、信号場内だけが単線になっている)。

  7. 列車留置並びに列車折り返しのため

  8. その他

大正2年に25/1000という急勾配、複線にも関わらず輸送能力を増す為に設けられた大塚信号所の遺構と伝えるレンガ積み

東海道新幹線・・N700系が爆走していきます。 旧東海道本線は、この先の名神東ITを超えた追分辺りで名神高速道ルートに吸収されている。

名神高速道路は大谷(旧逢坂山トンネル)まで大部分が旧東海道本線の築堤でした。(山科方面) 名神東IT辺りに残る鉄路跡の切り通しの道

名神東IT辺りに現存している旧東海道本線跡の道・・鉄路は名神東ITから名神高速道路のルートと重なって大津方面へ伸びていった。

追分付近で京阪京津線、国道1号線に合流 名神高速道(旧東海道本線)と京阪京津線 月心寺
第13代・成務天皇の産湯にも用いられた走井 大津算盤の始祖・片岡庄兵衛邸 滋賀県大津市大谷でつ・・・( ̄ω ̄;)! 暑うぅ〜
旧東海道本線逢坂山隧道(トンネル)

京都から敦賀へ、また東京への延伸計画の一環として京都〜大津間の鉄道が建設されたが、京都市内と琵琶湖との標高差が約45mもある勾配区間でした。旧線は東山山塊を避けながら鴨川左岸を南下し稲荷山と大岩山の鞍部を超え、山科盆地に下り込み勧修寺の北側を抜けて旧山科駅に達した。さらに逢坂山を目指して急勾配に挑んだ。このように大きく迂回してまでも標高を稼ぎトンネル延長を最短距離にしようとした最大の難所が逢坂山トンネルでした。先に開通した阪神間の天井川をくぐる3ヶ所のトンネルは、いずれも開削工法だったが逢坂山トンネルは鉱山坑道技術が発揮された手堀りによる我が国最初の664mという本格的な山岳トンネルです。しかも日本人のみで掘削された土木史上画期的な工事だった。・・・明治13年(1880年)の開業以来、明治44年(1911年)の全線複線化を経て長い間東海道本線の一部として重責を担ってきたて旧路線は京都〜馬場間16kmのうち25‰(パーミル)の急勾配区間が約10kmにも及び列車速度、牽引車両数の大きな制約となり輸送力改善が検討された。大正10年(1921年)8月1日、最急勾配10‰(パーミル)に緩和された東山トンネル、新逢坂山トンネル経由の現在線に切り替えられて旧線は廃止となった。

逢坂山トンネル西口を出て大谷駅に入線する下り列車 大谷駅に到着した上り列車
逢坂常夜灯と逢坂山関跡碑 旧東海道線の逢坂山隧道(西口)跡碑 旧東海道線・大谷駅があった辺り(名神高速)
大津名物「元祖走井餅本家碑」 蝉丸神社 蝉丸神社由緒碑
車石 美味しそうな蒲焼の香りが・・・( ̄▽ ̄;)!! 安藤広重の「東海道五十三次・大津」絵図
逢坂常夜灯と逢坂山関跡碑 植林の功績を顕彰した「貴田市兵衛翁碑」 名神高速道路
旧東海道本線逢坂山隧道東口(トンネル:鉄道記念物)

旧逢坂山トンネルは明治13年(1880年)6月28日に竣工したもので、大正10年(1921年)8月1日の線路変更により廃線となるまで東海道本線として使用されていました。全長664.8mのトンネルは日本人技術者のみで造られた日本最初の鉄道トンネルとして昭和35年(1960年)10月14日、鉄道記念物に指定され120年前の煉瓦組みトンネルが保存されています。現在は京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所として利用されています。当時の太政大臣・三條実美による「楽成頼功」と刻まれた石額がある。

旧逢坂山隧道 旧逢坂山隧道東口(左:下り線、右:上り線) 旧逢坂山隧道東口(上り線)
旧逢坂山隧道東口(下り線) 旧逢坂山隧道東口(下り線)の内部・・・おぉぉ〜 涼しいでつ! (@^.^@)
三条実美による「楽成頼功」と刻まれた石額 説明パネル 隧道脇の石仏
隧道からの流水は水道水に利用されます・・・ 旧逢坂山隧道東口から国道1号線方向へ 蓮如上人所縁の安養寺
本堂 逢坂の碑 旧東海道本線の煉瓦造の橋台擁護壁跡
橋台擁護壁跡をズーム 逢坂山隋道東口〜国道1号線へ@橋梁台上 この辺から旧線は国道1号線に吸収される
JR東海道本線・三代目大津駅

大正10年(1921年)、東海道本線は匂配緩和と距離短縮の為、東山トンネルと新逢坂山トンネルを経由する現在のルートに変更されました。これに伴って新しく大津駅が京阪浜大津駅から約1km南の大津市街地に建設され、これが現在の3代目のJR大津駅で木造ドイツ風の洋館だったと伝える。

築堤(国道1号線)下のアーチ・音羽台一号橋 内部は独特なレンガ積み・ねじりまんぼ JR大津駅(三代目大津駅)
国道1号線(旧東海道本線)をチャリチャリ・・・ この辺りから現東海道本線へ・・・ 現東海道本線と合流地点@本宮交差点
道案内図で見るとよくわかります。 現東海道本線合流地点 現東海道本線で馬場駅(膳所駅)へ
旧東海道本線・馬場駅(現・JR膳所駅/二代目・大津駅) 竜ヶ丘俳人墓地(史跡)
JR膳所駅(馬場駅⇒二代目・大津駅⇒馬場駅)

大津電車軌道が開業した事で東海道線大津支線の再貨物線化され大正2年(1913年)6月1日に、東海道本線の馬場駅が大津駅に、大津駅は浜大津駅に改称されました。二代目大津駅(現・膳所駅)は、大正10年(1921年)に東海道本線大津〜京都間の路線変更に伴い、旧逢坂山トンネルも廃止され三代目大津駅(現・JR大津駅)が誕生し二代目大津駅は再び馬場駅と改称され、貨物駅化され昭和9年(1934年)、膳所駅に名称変更された。

旧東海道本線は馬場駅(現・JR膳所駅)からスイッチバックして大津駅(現・京阪浜大津駅)へ・・・ JR膳所駅(馬場駅/二代目大津駅)
京阪膳所駅(旧東海道本線大津支線)

京阪石山坂本線の前身、大津電車軌道は大正2年(1913年)、大津駅(現・浜大津駅)〜膳所駅(現・膳所本町駅)間を開業しましたが、大津駅(現・浜大津駅)〜馬場駅(現・京阪膳所駅)間は旧東海道本線と線路を共用していた。明治22年(1889年)、東海道本線・東京〜神戸間が開通し大津(現・浜大津)〜馬場(現・膳所)間は貨物専用線になりました。明治31年(1898年)に再び旅客線化されましたが、当時の東海道線は長距離輸送を重要視した為に地域内の旅客輸送を大津電車軌道に譲り、再び大津支線は貨物化された。昭和44年(1969年)10月31日まで浜大津駅〜京阪膳所駅間は三線軌条で、江若鉄道・浜大津駅横の国鉄浜大津駅(貨物駅)に至る大津支線を走るSLや、膳所駅に乗り入れる江若鉄道の気動車も、石坂線を走っていた。

膳所駅と京阪石坂線を結んでいた線路跡
旧東海道線は京阪膳所駅からスイッチバックして京阪石坂線を浜大津駅まで三線軌条で共用 旧東海道本線大津支線だった京阪石坂線
旧東海道をチャリチャリ・・・ 京阪石坂線(旧東海道本線大津支線)を浜大津方面へチャリチャリ・・・
当時の大津駅は浜大津港に面していたので、ここから船で長浜まで湖上連絡が行われていた。 大津城跡
旧東海道本線・初代大津駅(京阪浜大津駅)

明治13年(1880年)、京都〜大津間に鉄道が開通した当初の大津駅は、現在の京阪浜大津駅でした。開通時のルートは、京都〜現在の奈良線沿いに南へ下り、稲荷駅を経て稲荷山、大岩山間を抜け、山科盆地に入り、旧逢坂山トンネルを抜けて大津へと繋がりました。長浜〜大津間の湖上連絡船が引退、大津駅も湖上連絡船と鉄道との接続駅としての役割を終え、旅客駅から貨物駅となります。しかし、沿線住民の熱心な要望から、明治31年(1898年)に再び旅客駅として復活しましたが、大正2年(1913年)、大津駅という名称は、現在の京阪浜大津駅から当時の馬場駅(現・膳所駅)に移名された。

当時、大津〜長浜まで琵琶湖の湖上連絡を担っていた太湖汽船の第一太湖丸
旧東海道本線初代・大津駅(現・京阪浜大津駅) 札の辻 旧東海道の風情を感じる町屋
4両編成の電車が路面を走るのは珍しい・・・ 大津本陣跡辺りから専用線路へ・・・
JR逢坂山トンネル手前(上:京阪京津線) 妙光寺門前を電車が通過!!! (@_@;) 関蝉丸神社下社
旧東海道本線の煉瓦造の橋台跡 名神高速道路の橋梁 大谷辺りを通過中・・・(走り撮り) ( ̄▽ ̄;)!!

Tourist  2006.9.25(M)

 ☆参考資料:廃線跡を歩く JTB

ほか

※あとがき(加筆)

以前より関心のあった旧東海道本線(京都〜大津)をチャリ探訪してきました。所持している資料、本やネットなどで情報収集しました。

古地図を始め資料、ネット情報などを照らしあわせて可能な限り当時の旧東海道本線の軌道をイメージしてルート探訪しました。

が、・・当然ながら当時を実際に知っているはずもなく一個人の一見解としてご理解いただき一参考となりましたら幸いです。

後日に廃線跡などネットで色々調べていると、廃線跡探訪をテーマにされている廃線跡を旅するにアクセスしました。

一私感ですが、図解、解説などとても丁寧でわかりやすく読み手?(見る手?)を意識した親切なページ作成をされています。

私も資料となる本を数冊所持していますが、管理人さん自らが訪ねられた廃線跡の記録を出版されている事にも納得。

HPの内容、管理人の意見などにも人となりを感じられます。いいものは理屈抜きでいい・・おススメ!!(*^-^*)

【廃線跡を旅する】クリック→ 【大津〜馬場間(旧大津支線)馬場〜京都間(稲荷まわり)

夢幻コラム【旧東海道本線(稲荷駅〜馬場:膳所駅〜大津駅)廃線跡探訪】は【旧東海道本線(稲荷駅〜馬場:膳所駅〜大津駅)チャリ探訪】をベースに加筆して作成しています。

管理人・Syo

 

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